ここまでのまとめ
ここまでのまとめ2
ここまでのまとめ3
自我の認識するものが、それぞれの人にとっての真実になるよ。
神も仏も守護霊も引き寄せの法則も、それをあると認識する「自分」があるからある。
つまり絶対的でない、幻みたいなもん。
というか、この世の全てがあいまいに出来ているよ。
あらゆる価値観がこの世にはあるとおもうけど、それを絶対と信じているのもまた「自分」。
苦しむくらいなら、それを真実としている「自分」というものに気づいちゃえってこと。
それに気づければ、どんな真実を選ぶことも信じることも容易いよ。
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(´自ω我) 「つまり・・・!」
呉 「お約束どおり、お前は幻ってことじゃー!」
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自我の認識するものが、それぞれの人にとっての真実になるよ。
神も仏も守護霊も引き寄せの法則も、それをあると認識する「自分」があるからある。
つまり絶対的でない、幻みたいなもん。
というか、この世の全てがあいまいに出来ているよ。
あらゆる価値観がこの世にはあるとおもうけど、それを絶対と信じているのもまた「自分」。
苦しむくらいなら、それを真実としている「自分」というものに気づいちゃえってこと。
それに気づければ、どんな真実を選ぶことも信じることも容易いよ。
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(´自ω我) 「つまり・・・!」
呉 「お約束どおり、お前は幻ってことじゃー!」
いつも素晴らしい記事を更新頂きまして本当にありがとうございます(´ ω `)
引き寄せの法則を知った事から、この胡散臭
いw世界に足を踏み入れてはや3年…。
その間本願は全くもってこれっぽっちも叶わず、いい加減疲れ果てていた頃にこちらのブログを発見し、一から全て読ませて頂きました。
呉一郎さんの書かれる文章は読みやすい上にユーモアのセンスが素晴らしく、すごく頭の良い方なんだろうなーと読む度に思います。
上手く表現できなくて申し訳ないのですが、こちらのブログを読ませて頂いたことによって、何だかすごく気持ちが楽になって、救われたと申しますか、悪夢から抜け出す事が出来たといいますか…(*´・ω・)
なので、どうしてもお礼が言いたくて今回コメントさせて頂きました(ドキドキ)
これからも呉一郎さんの心地良いペースで更新頂ければ嬉しく思います(´ ω `)
ではでは、またお邪魔させて頂きますねU+2669
さて、自我が幻であることを悟ると、
例えば、美味しいものを食べたいとか、
結婚して子供を作りたいとかいう
欲望そのものが生じなくなるのでしょうか?
それとも、その欲望が生じていることを
客観的に見るようになるということでしょうか?
そして、もし後者であるなら、
例えば目の前のケーキを食べるかどうかや
結婚するかどうかのの判断は
どのような基準でなされるのでしょうか?
自我が幻でも何か元気になったりエネルギーが湧く方法はありませんか?
コメントありがとうございます。
そんなこと言われると、大変照れます//
僕自身苦しんだので、シンプルに説明できるよう、気をつけているつもりですが、もし分かりづらい所などありましたらいつでもコメントして下さいね。
コメントから記事のネタをいつも探してます(笑)
>>エゴ男さん
欲望はあります。ありまくりです(笑)
しかし、その達成に深刻にならなくなりました。
ほっときゃ叶うだろうと信じてますし、何故か叶います。
時に客観的に見ることもありますが、それだって自我ですから、特に気にしてません。
基準や判断に苦しんだり、迷うことが少なくなったので、その例えで言うと、気づいたらケーキを食べたり、結婚したりすることになると思います。
>>なつさん
いじわるかもしれませんが、元気を出さなくちゃいけない、と思っているのもまた自我です。
僕もどうしようもなく疲れてやる気がない時があります。
何も出来ない自分が嫌になってしまうかもしれません
が、そういう時はそれがベストなんです。
何もしたくない時は何もしないに限ります。
元気なのはいいことだと思いがちですが、その価値観に苦しまず、自分をそのまま委ねるといいと思います。
何とかしなきゃと思っている「自分」に気づく。
まずはそこからです。
ありのままということですね。
でも、まだ少しわかりません・・・(すみません)。
例えば、彼女の前でケーキを切り分けたとして、
「やべえこっちのが明らかにでかい、ゆずるべきか、でもめっちゃうまそう、男がケーキに執着するのもかっこ悪いな、彼女もケーキ大好きだし、しかし買ったのは俺だぞ、じゃんけんで勝負し遺恨をなくす策をとるべきか・・・」
というような思考が発生した場合、自我じゃない私はどちらを選ぶのでしょうか?考えずに選べることができるようになるのでしょうか?
いえいえ、何でも聞いてください(笑)
そもそも自我が「私」の全てである以上、自我じゃない「私」というものはありません。
今の例だと、ケーキを切り分けることになったのも、その上で選択肢を選ぶのもまた「私」です。
「私」ありきでケーキという現象と選択肢があるんです。
その選択に何かしら不安を感じたり、思考するのもまた「自分」です。
その大前提。
どう考えても正しく絶対的と感じる感覚こそが、幻みたいな不安定なものなんです。
それに気づいたなら、どんなに自分がどうこう思っても、全てが最善で起きているということも分かります。
全ては最善で起きているのだと知って、いろいろあきらめていきたいと思います。
「思考は幻」という意味は、「思考の結果何かが判断できている」というのは真実ではない。
あることが起こった結果の後付けの理由として、
その結果に先立って思考っぽいことが「行われたと思い込んでいる」という意味ですね?
だから、この思考っぽい幻は、なくても全然困らないし、別にあってもどちらでもかまわないわけですね。
そうです、全て後だしで考えて感じているに過ぎません。
あとは、僕による肯定でなく、自分自身がそれを信じきれるのかにかかっています。
最大の敵は自分自身です。
ちと、意味がわからない、、、
絶対的!法則だとおもてしまうー!!!
タブン、ゆってることが、違うのかな、、?