凡人だって悟れるもん

自我は幻、大体そんな感じ。

悟りなんてねえ

2015年06月16日 | 悟りのこと
いきなりブログ全否定にも見えかねないタイトルから始めたいと思います。

結局気づきを得ようが(得た気になろうがでも良いです)そのまま人生は流れていきますし、時に予測不能な自体も起きます。

僕が気づいたと思い、コレが悟りだろうと思ったものだって、ただの勘違いなのかもしれません。

というか体験だとか感覚には、証拠として出せるものもなければ、体験と言う性質上本人の主観から出ていないものなので、第三者への証明も出来ません。

すなわちコレが万人共通の体験となりうるという保障もない訳です。

だからスピ界の論人達の言葉は、抽象的OR決め付けのような言葉が多くなってしまいます。


「考えるのではなく、感じるのだ」

「世界は愛の波動を高める為にあるのだ!なぜならオレがそう思った(感じた)から!」


みたいな。

ですから僕がこの個人のHPで何を叫ぼうと、何を考えようと、何を思おうと、100%の証明や説明は最初から無理っちゃ無理なんですね。

どこまで丁寧に説明してみても、僕の主観から抜け出す事はありませんから。

自分の主観から抜け出したような感覚を味わうことはありますが、それだって勘違いかもしれませんし、そもそもその「感覚」だって個人的体験に過ぎませんから。

ただ、スピ界の論人達が色々な主張をしている中で似通っている部分、同じように聞こえる主張。

みんなが指を刺している方向に線を引けるとしたならば、その集合点にはやはり同じ「何か」があるように思えてなりません。

その何かをズバリビシッと説明できないからこそ、みんながややこしい説明を今日もどこかで繰り広げているわけです。

まあ、結局はうだうだ言っても始まらないので、僕は僕で思い込みを垂れ流していこうと思いますって話です。


いつもの調子て言うならば、悟りなんてないかもしれない、ただそれを求めているあなたは居るって事です。

堂々巡りですよね、でも堂々巡りをしている事には気づけるはずです。

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