凡人だって悟れるもん

自我は幻、大体そんな感じ。

青天井

2018年11月25日 | どうでもいいこと
どうも、僕です。
最近思うことは、あらゆることは先人に語り尽くされているんだなということ。
それは、格言やことわざといったものの中にふんだんに残されています。

「上を見れば方図がない」

例えばこのことわざ。意味はそのまま、上を見ればキリがないということです。
上限というものがこの世にはないのだから、節度をわきまえて生きよということわざなのですが、
現実にまさしくその通りだなと感じる事例が身の回りで見受けられます。

具体的には、生活の充実度という抽象的なものや、収入や生活水準といった形あるものを他人と比較して苦しんでいる人や、
仕事場であいつの方が優れている、おれの方が劣っているといったコンプレックス混じりの感情を抱いている人がそこかしこにうじゃうじゃといます。

僕も普通の人間なので、時にそういった気持ちになることもありますが……。
彼らの愚痴や嫉妬の類を聞くと、それが生きる上で自分を構成する大きな価値観になっていることが分かり、そこから一歩も抜け出せずにいて、じれったいような切ないような気持ちになってしまいます。
人間はどうでも良いことでぐるぐる回転し続けてしまう生き物なのだと実感します。

結局はどれも、自分という確固たる基準があって、一人相撲をしているだけ。
目に見えないはずの上下を見出して喜んだり苦しんだりしているに過ぎないのではないでしょうか。
もっと言えば、本質的には上下左右のない世界で、究極に狭い世界を自分自身が創造してしまっている。
どんなものだって創り出せる、どんな世界にも見方を変えられる自由を放棄してしまっているんです。
それはとても、もったいないことだと思います。

僕らは死ぬまでこの自分というものからは逃れられない運命を背負って生まれてきていますが、
(ああ、自分は得体のしれない自分を背負っているんだな)と気づくことは出来ます。
世の中、どこを見たって方図がない。
自由で混沌とした世の中で、全てを見出しているのは一体誰なのかということです。

エアコンに生かされて、夏

2018年07月22日 | どうでもいいこと
猛暑が続いていますがみなさんお元気でしょうか。
僕はエアコンという生命維持装置によって何とか生かされている毎日です。
年々日本の夏は暑くなってると思うんですが、ちゃんと上限はあるんでしょうか。
10年20年後に思い返すと、今の気温すら生ぬるく感じるのかもしれませんね。

脈絡なく思ったことを話させていただくと、最近は人生について考えることが多くなりました。

人生は有限で、とても儚いものです。どんなに素晴らしい経験をしても、逆に辛く苦しい経験をしても、あと百年後には誰も生きてはいないでしょう。……いや、もしかすると医療技術革命が起きて平均年齢300歳とかになる可能性もありますね。半分機械の体とかで。あくまで比喩ですが、念のため一応あと1000年後にしときましょうか。さすがに技術発展も追いつかないだろう。どうだ!(?)

まあとにかく、今こうしてインターネットに駄文を打ち込んでいて、エアコンの効いた部屋でアイスを食べている僕の夏もあと何十回か繰り返せば終わりがくる訳です。1000年先にはブログ自体も残っていないでしょうし、文字でコミュニケーションを行う文化も変質しているかもしれませんね。1万年後にはインターネットすらないかもしれません。

まあちょっと飛躍しすぎましたが……
遠い先のことを考えていると日々の些事に振り回されて右往左往している自分自身が可愛らしくなってきませんか?

人生は、楽しいこと嬉しいこと落ち込むことしんどいこと、色々とキリがなく浴びせられ続けて時々疲れちゃいますが、そういった飛躍した視点から自分自身を俯瞰して愛でてあげると、なんだか全てがフラットに見えて捗ります。

まあ僕の人生がどれだけ続いていくかは分かりませんが、終わってみればお互い誤差みたいなもんです。
肩の力抜いて、楽に生きていきましょう。

無責任ヒーロー

2018年05月27日 | 悟りのこと
どうも、僕です。
呉一郎だった頃の文体を忘れてしまっているかもしれないけれど……
物書きとしての進捗を自分に促す意味でも何かを書いてみようと思います。




今も昔も、僕には不安が沢山あります。
経済的な不安や対人関係への不安。
こないだなんか部屋にゴ○ブリが出たのでまだ沢山隠れてるんじゃないかという不安に襲われました。
あれを1匹見たら30匹(!)いると思えなんて言いますもんね。
ちなみにこれは誇張表現ではないと思います、目撃後バルサンを炊いたのですが帰ってきたら……
おっとやめましょう。思い出すだけで不快になっちゃいますから。
ひとつ言えることは、賃貸住宅で大事なのは何よりも築年数と水周りってことです。


とまあ(?)、不安ってのは案外尽きないもんです。

それは人間が不安を求める生き物だからかもしれません。
というのも人が生きていると感じるには過去から未来への時間という矢印が必要で……
不安というのは常に不確定な未来に対するものだからです。
オギャーと生まれてからポックリ死ぬまでが人生である、という枠の中で生きている以上、
自分が自分である以上、これは仕方のないことでしょう。人間だもの。

だからといって、不安を道しるべのように使って生きていく必要はないと思うんです。
その不安自体に縛られて動けなくなっているのなら、そんなものは無視してしまっても良いんです。
これは一切考えるな、感じるなと言っているのではなく、
不安を感じたあとで、原因から逃げても良し、向き合っても良し、ただ感じるままに任せるも良し。
先に起こりうる全ての可能性が既に自分の中に内包されているのだから、
先のシナリオに身を委ねてしまっても良いという意味です。

心配しなくても以外と何とかなりますし、
仮に何ともならなかった、という結果だって、起きてしまえばもはや未来への不安ではなくなる訳です。

「だから、何とかならなかったじゃ困るっす、最善を尽くす必要があるっす!」

と思うのは勝手ですが、そもそも時間の流れを感じているのも、時間というルールで人生を作っているのもあなた自身なので……
元々あってないような未来に対する不安は、ああ不安だわと思う以上のパワーも意味もない、
いわば湧いては消える沢山の感情の一部に過ぎないってことでございます。


それでは、そろそろ歯を磨いて寝ようと思います。
虫歯になったら不安ですから。

近況報告

2018年05月21日 | どうでもいいこと
お久しぶりです、呉一郎です。
脈絡もなく、数年ぶりにまさかの更新をしようと思います。
何となくこのブログのことを思い出す日はあったのですが、更新する手は止まってしまっていました。
止まっていた理由は特に深刻なことはなく、要は色々と他にやりたいことが出来たのと、語ることは全て語り尽くしたからです。

その間も相も変わらず日々平凡かつ健康的な毎日を過ごしてました。
あ、そういえば何年か前、思いついたように某潜在意識ちゃんねるの方にお邪魔して、自分の中でも総決算をしたことがあります。
(自我幻で検索すれば、その時のレスが有難いことに綺麗にまとめられています)
今読み返すと、これは自画自賛になっちゃいますが、なるほど自分の言葉ながら丁寧に書かれていて、他人事のように関心してしまいました。

さて、このブログを立ち上げた時は実は20代前半だった僕も気づけば三十路手前。
まだまだ気持ちは若いつもりですが、川の流れに逆らえないようにこれからもどんどん老いていくことでしょう。
それもまた、一つの楽しみだと最近は思います。生きてるだけで丸儲けってやつですね。

また最近、大きな変化がありました。
というのも実は去年、某大手出版社から小説を出版させていただいたのです。
個人的な心情から書名や著者名は伏せさせていただくのですが、エンタメ寄りのいわゆるライトノベルです。
荒削りな文章ではありますが、それでも一から生み出した小説が全国の書店に並び、作家デビューと相成りました。
思えば、このブログで書いた拙い小説もどきが僕にとって初めて作った物語でした。

やっぱり人生は何が起きるのか分かりません。
まさかこの当時は自分が小説家になるなんて思ってもみませんでしたから。
たった数年先も見通せない僕たちの悩みなんて、全て絵に描いた餅なんだろうと改めて思いました。
生きているし生きていく
昔も今も僕たちは、ただそれだけなんでしょうね。

降伏して幸福になる事もある

2015年10月20日 | 悟りのこと
どうしようもない時は、諦めるのが吉かもしれません。

悩んで考えて苦しんで、色々あがいてみても、もうどうしようもないやんって事ありますよね。

起きてしまった以上、デロリアンで過去に戻らない限り(時事ネタ)どうしようもない状況に変わりはない時とか。

また、その逆にどう考えても悪い状況にしかなりえない未来がありありと見えている時とか。

最終的には、諦めちゃうしかないでしょう。


結局全てはなるようにしかなりませんし、起こった事は必然的に起こっています。よね?

引き寄せを極めようが、悟りとかいう感覚を経験しても、その仕組みから逃れる事はありません。

「自分」から始まるこの世の仕組みに気づく事が出来たからって、その仕組みから出る事は出来ません。

引き寄せたつもりになったり、神の視点から全てをコントロール出来たつもりになる事はでき
ますけど、そのルールの中で生きているという事から我々は抜け出せない訳です。

自分から離れた感覚を味わったり、不思議な気分になる事もあるかもしれませんけど、じゃあそれを感じてる奴は誰だって事にもなりますよね。


ゆえに、難しく考えたり修行や瞑想なんてしなくても、僕達は既に完璧な仕組みの中に生きていますし、もう上手いこと、なるようにしかなってないんです。


僕がこのブログで言ってるのは、「そこに気づくと、少し楽になるよ」ってだけの事です。

「自分」とは、五感や、価値観や、考え方も含め、あなたがこの世界を生きているという感覚の全て。

最初から一歩もそこから動いてないですし、これから先も心配しなくても動くことはありません。

過去→今→未来という時間の流れも・・・

原因→過程→結果という出来事の流れも・・・

全てあなたという存在があるからこそ存在している訳です。

つまり、ここらへんが「自分=世界」だとか、「全ては最初から自分の中にある」って言葉に繋がる訳ですね。

まあ、当たり前の事しか言ってないんです。

この言葉を使う人は、それを実感した上で言ってるってだけですね。

そうなると


(´自Д我) 「そんな言葉遊びはどうでもいいんす!この願い、叶うようになるんすよね!?」


ってなると思うんですが、要はそこでさっき言った実感っていうのが肝になってきます。

ここで悟りと言われるような感覚を、勘違いでもいいですけど実感していれば、良い意味で諦めがつくというか、腑に落ちるようになるんです。自分なりに、理屈で理解して腑に落とすのも、良いと思います。


「あぁ、願いとか叶うとか自体が、こういう仕組みのものだったのね、あっはっは」


みたいな。

んで、気づいたら最初の願いはどこへやら、思いもよらない方向に物事が動いてたり。

形は違えど僕の求めていた結果がいつのまにか出ていたりなんて事になったり。

面白いもんです。

皮肉なもんで、求める程に結果から遠ざかっていたんだなと思う日々ですね。


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人生は外せないヘッドマウンドディスプレイみたいなもん

2015年10月08日 | どうでもいいこと
こないだ秋葉原に行ってきた際、今話題になっているVRゴーグルOculus riftを体験してきました。
VR?なんじゃらほいっていう方も多いと思うので説明しますと、テレビやモニタのようなディスプレイが、飛行士のようなゴーグル型になったものでして・・・

百聞は一見にしかず、画像貼りますね、ほいっ


こんな感じで、画像だと少しマヌケにも見えますが、大画面で映画が見れたり、臨場感たっぷりのゲームが出来たりっていう電子機器なんです。
流行の言葉で言うと、ウェアラブルデバイスってやつですね。

コレ、単純に小さな画面が付いてるだけだと思ったら大間違い。

大きな特徴が、頭の動きに合わせてゲーム内の視界も動くようになっているという所なんです。
つまり、360度バーチャルリアリティの世界を「自分の視界のまま」見回す事が出来ます。

実際に試してみた所、遠近感も再現されていてとんでもない没入感を味わうことが出来ました。
僕が見せてもらったのは、恐竜のいる森を車に乗って進んでいくという映像だったんですが、ポリゴンはまだ荒いものの、思わず声が出るくらいの迫力があります。

それをしばらく見ていると、不思議なもんで、自分がどこに居るのか分からないような気さえしてきます。

画面から目を離そうにも、下を向けば車内の機器が色々見えるし、横を向けばトリケラトプス、
上を見れば青空に太陽が眩しく光っていて、仕組みは理解しているはずが、頭が混乱してしまいます。

体験し終わった後も、ちょっと呆然としてしまいました。

そん時思った事が今日のタイトル名です。

一緒に体験した友達は「3D酔いがきつくて見てられない」
とすぐ止めてしまいましたが、機会があれば試してみると新たな世界が広がるかもしれませんよ。

自分の発想になかったような面白いことが、世の中にまだまだ沢山あるって最高ですね。

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(´■ω■)スチャッ

スピリチュアルは優しいけれど

2015年09月25日 | 悟りのこと
それは一時的にあなたを満足させるだけの麻薬みたいなものです。

麻薬という表現がきつければ、魅惑の炭水化物でもいいかもしれません(糖質制限ダイエット中なのでw

スピリチュアルは、どうしようもなく詰んだ状況にある人、混乱し冷静さを完全に失った人にとっては最適の避難所になり得ます。

頼るものがなく、すがりつく相手もなく、やっとの事見つけた藁の一束。

そこにはもっともらしい言葉や、優しい希望に溢れた言葉があり、あなたを癒やし、時に許したりするでしょう。

しかし、その満足は長くは続きません。そうでしょう?

次々と渡り鳥のように、癒やしや希望を求めてスピリチュアル知識を貪り続けるうち、疲弊していませんか。

まあ、それでも全然いいんですけどね。

でも、もしこのループを回り続けるのは嫌だというならば、「それならもうやめておけ」とだけ言っておきます。

回り続けても、これ以上得る物は何もありません。

今流行のミニマリストじゃないですが、そうやって集めてきた知識や思い込みの全てを、一度捨ててみる時期が来たんじゃないでしょうか。

どれだけ特別な言葉で飾り立てられた言葉で、癒やされ、全て認められ、許され、何もかも完璧な気分になろうと、そんな非日常が続くはずはありません。

特別な気分でなくなるとまた不安になって別のスピリチュアルという麻薬(炭水化物)に頼るというループ。

そこから脱出するのが不安なのは分かります。

今決断しても、またループするのかもしれません。

しかし最終的にあなたなりの答えが見つかったなら、凡人の日常に戻る時がやってきます。

そんな日常の中、ふとした時に色々な知識が腑に落ちる、そんな事の方が多いのではないかと思います。少なくとも僕はそうでした。

「疲れたら一休みだ、スピリチュアルにこだわらなくてもいい、結果上手くいけば何だっていいじゃないか。」

そんな考え方を持つ事も、また許されてますよ。


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悟りなんてねえ

2015年06月16日 | 悟りのこと
いきなりブログ全否定にも見えかねないタイトルから始めたいと思います。

結局気づきを得ようが(得た気になろうがでも良いです)そのまま人生は流れていきますし、時に予測不能な自体も起きます。

僕が気づいたと思い、コレが悟りだろうと思ったものだって、ただの勘違いなのかもしれません。

というか体験だとか感覚には、証拠として出せるものもなければ、体験と言う性質上本人の主観から出ていないものなので、第三者への証明も出来ません。

すなわちコレが万人共通の体験となりうるという保障もない訳です。

だからスピ界の論人達の言葉は、抽象的OR決め付けのような言葉が多くなってしまいます。


「考えるのではなく、感じるのだ」

「世界は愛の波動を高める為にあるのだ!なぜならオレがそう思った(感じた)から!」


みたいな。

ですから僕がこの個人のHPで何を叫ぼうと、何を考えようと、何を思おうと、100%の証明や説明は最初から無理っちゃ無理なんですね。

どこまで丁寧に説明してみても、僕の主観から抜け出す事はありませんから。

自分の主観から抜け出したような感覚を味わうことはありますが、それだって勘違いかもしれませんし、そもそもその「感覚」だって個人的体験に過ぎませんから。

ただ、スピ界の論人達が色々な主張をしている中で似通っている部分、同じように聞こえる主張。

みんなが指を刺している方向に線を引けるとしたならば、その集合点にはやはり同じ「何か」があるように思えてなりません。

その何かをズバリビシッと説明できないからこそ、みんながややこしい説明を今日もどこかで繰り広げているわけです。

まあ、結局はうだうだ言っても始まらないので、僕は僕で思い込みを垂れ流していこうと思いますって話です。


いつもの調子て言うならば、悟りなんてないかもしれない、ただそれを求めているあなたは居るって事です。

堂々巡りですよね、でも堂々巡りをしている事には気づけるはずです。

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近況報告

2015年05月20日 | どうでもいいこと
どうも僕です、不登校が続くと学校に行きづらくなるアレと同じで、1日のサボりが1週間になり、1週間のサボリが春を迎えるまでになりました(笑)

たまにブログの事を思い出すくらいになってきた今日この頃、久々にコメント欄を見ると、まだ見てくださっている方が居るのを知り・・・

(何故か)ビクビクしながらも久々に更新しようと思います。

更新がなかったのにも理由はないように、書き始めるのにも理由はいらないですよね。

なんて色々言い訳?をしながら書いていきますね。

ここんとこ特に新しい発見も何も無いんですが、去年のうちに僕は手に入れたかったものも手にいれ、気づいたら不満もなく、ついでに願いも全て叶ってました。

これまで自分の事について具体的なことを書くことはなかったんですが、たまには良いかとも思うので触れてみると、具体的には良い恋人が出来たり、行きたい国にまた行ける事になったりしてます。

まあそれより何より顕著なのは、悩みらしい悩みが思いつかなくなった事でしょうか。

悩みを挙げるとしたら、せいぜいあと少し痩せたいくらいかな(笑)

あ、ジム通いは意外と続いてます。

しかしその分運動後の飯が美味いのです!(肥)


もっと沢山の事があるかと思うんですが、想像以上に文章の書き方を忘れてしまっているようなので今日はここまで。

コメント欄、ちゃんと見ております。

返事してなくてごめんなさい。

ただ僕は自分の幸せと同じくらい顔も知らないあなたが幸せになればいいと無責任に思ってますよ。


・・・あれ、案外書き始めると抵抗はないもんだな。

少年、グリグリメガネを捨てる

2015年01月28日 | 悟りのこと

テレビの見過ぎかゲームのし過ぎかか、だんだんと目が悪くなり、中学校の頃から僕はメガネをかけて生活しています。

メガネなしだと、2,3メートル先の文字は全然読めませんし、物の輪郭もだいぶぼやけてしまう程です。

ご存じとは思いますが、メガネによって矯正された視力は、正常な目で見える視力を基準に調整されています。

あの0.1とか1.0とかいう視力の数値は、すなわち正常な目から見える物の見え方を基準にして定められた数値です。

ですから、当然メガネによる矯正視力の1.0と裸眼による視力1.0は、多少の違いはあれど、同じ見え方になる訳です。

例えば、ここに一輪の薔薇の花があるとします。

そして、視力の悪い僕と、もう一人視力の良い人が、少し離れた位置から二人一緒にそれを見るとします。

普段どおり僕がメガネをかけていれば、僕とその人には全く同じ風に薔薇の花が見えるでしょう。

その真っ赤な色や、ふわっと広がる特徴的な花びらの形、もしかしたら茎のトゲトゲも見えるかもしれませんね。

「今見えているものは何?」と誰かに聞かれたとすると、二人は「これは真っ赤な薔薇の花だ」と答えるでしょう。


次に、僕が初めにメガネを外した状態でそれを見たとします。

すると僕には、なんだか赤色の、植物のようなものが見えると思います。

形状からして何かの花かもしれないというのは分かりますが、どんな種類の花なのかはちょっと分かりません。

もう一人に「あれは真っ赤な薔薇の花だよ」と言われて、なるほど薔薇なのか、と思いはしますが、自分では近寄らなければその判別が出来ません。

そうすると僕が近寄って自分で薔薇の判別をするまで、僕の中でそれは薔薇の花「かもしれないもの」となる訳です。

もう一人の人物の言う事を信頼して、99%確実な事だと思っていても、自分で確かめるまでそれは薔薇の花「かもしれないもの」です。


例えば、もっと視力が悪かったら、僕にはそれが赤い「何か」である事しか分からないかもしれません。

そうなると、近寄ってみなければ花であることも分かりません。


更に極端な事を言うと、もし僕の目が見えなかったら、何かがそこにある事すら分かりません。

近寄って、手に取って確かめるまでは、僕の中では「何か」は存在すらしていないのと同じです。


二人で全く同じ物を見ているはずが、場合によると同じに見えないどころか、その物が存在しているかどうかすら疑わしくなるかもしれないという不思議。

しかし、二人に薔薇がどのように見えたとしても、そこに薔薇がある事は確かな真実です。

二人の視力がどうあれ、そこが揺らぐ事はありません。


別に視力に限った話ではありません。

僕たちの持っている価値観や、その考え方にも当てはまります。

皆同じ世界を生きているはずなのに、見ている世界が全く違う。

そんな見え方の違いをどうにかしようとしたり、自分の見え方について考え過ぎるからドツボにはまってしまうんじゃないでしょうか。

メガネを無くそうが視力を失おうが、あるもんはある、ないもんはないってだけなんですけどね。


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(´@ω@)


オレサマ オマエ マルカジリ

2015年01月24日 | どうでもいいこと
ブログをどえらい事サボりつつも一年程続けてきて、自分でも実感したんですが、スピリチュアルは何だかんだ余裕がある人間がハマるものじゃないでしょうか。

寝る暇も無い程忙しい時や、本当に追い詰められてるような時、思考がどうとかおまじないがどうとか言ってられないと思うんです。

ついでにこんなブログ書いてる暇もないと思うんです!(言い訳


例えば潜在意識がらみのネット掲示板を見ていると、主に恋愛方面で、結構他人から見るとしょうもない悩みだったり、どうでもいい可愛らしい悩みなんかを相談されてる方がとても多いと思います。

生活に余裕があるからこそ、恋愛でやきもきしたり、ネットに心の中身を打ち明けたりとか出来る訳です。

そんな中、深刻な悩みを解決するには潜在意識的にどうすればいいんだ、という相談をしてる方なんかもいますが、こんな怪しい分野に相談する時点で、その人にとったら切迫した問題じゃないんじゃねーの、とか思っちゃいます。

こんな事を言うと・・・


(´自Д我)「それじゃあスピリチュアルに救いは無いんすか!?こっちは真剣なんすよ!!」


なんて事を言われちゃうかもしれませんね。(今年も叫び続ける自我くんです笑

でも僕は、そこに救いがないとは思ってません。

スピに答えを求める余裕がある人にとっては、スピにはその答えがあり、救いがあるはずなんです。

スピどころじゃない現実を生きている人には、また別の形で悩みに対する答えや、何かしらの救いが見つかるはずです。

要は、「人による」ってだけの事です。

例えば僕みたいに「暇人でネットジャンキーでインドアでオタク中二病な理屈馬鹿」の場合は、「室内で本や携帯で得られる潜在意識とかいうオカルトで難しそうなモノ」がたまたま合っていたって事。

もし僕が、現代社会から隔離されたジャングルの奥で、動物達と共に過ごすターザンだったら、携帯も本もないのでスピリチュアルに出会う事もなかったはずです。

僕がターザンなら、食べ物が見つからなくて腹が減るという悩みを解消しようとするとして、そのまま必死こいて探し続けるか、今まで食べたことの無かった植物や果物なんかにチャレンジしたりすると思います。

少なくとも思考をどうこうして食べ物を引き寄せようとか、おまじないを唱えてどうにかしようとかは思わないですし、思えないはずです。


・・・結局何が言いたいのかって言うと、こんなブログを見たり、スピに答え探しをしてるって事は、もう結果も答えも出てるようなもんだよって事を言いたいんです。

不思議な事に、人間って見たいものを見て、信じたい事を信じて、見つけたい答えを見つけるように出来てるみたいですからね。

焦らなくても、そのうち納得のいく答えが出ると思いますよ・・・多分。


あとは、ちゃんとした文化文明があり、ネット環境が整っていて、スピリチュアルにハマる事の出来る現代日本に生まれて良かったなあって事ですかね。

縁があってスピにハマった僕は、悩む前から、既に救われてたんでしょう。

いや、悩みがあるからこそ、救われてることに気づけたのかもしれません。


ちなみに今の悩みは、ターザンを話の例に出しておきながら、作品を一つも見たことが無いって事です。

とりあえず解決の為に、今度TSUTAYAでディズニーのターザンを借りてこようと思います。


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世界恐慌がおんどれらを襲う

2015年01月21日 | どうでもいいこと

どうも、忘れた頃に僕です。

イスラム国とかいう自称国家のテロリスト集団に、日本人が人質として捕らわれたとのこと。

youtubeで動画が流されるあたりに、僕の思っているテロリストのイメージとのギャップを感じます。

勝手に国を名乗って、奴隷制を復活させ、民間人を殺してるような時代錯誤な連中のイメージと、twitterやyoutubeを利用する現代人とのイメージとがどうやっても重なりません。

本当にインターネットって、全世界に繋がってるんですね(真顔)


平和ボケした日本人代表の僕には、何だか中東で起きているテロリズムなんて対岸の火事のような気もしていましたが、日本人が人質にとられたとなると急にリアルさを感じるんですから不思議なもんです。

色々と議論はありますが、そもそも常識外れの身代金を要求してくるテロリスト相手に、交渉もクソもないのでとっとと武力制圧するしかないんじゃねーのと個人的には思っています。

しかし、日本の軍隊は憲法や各種団体やらの圧力で動けるはずがないので、結局今回も外務省の努力次第なんでしょうか。


テロの恐怖だとか、止まらない原油安だとか、スイスフランの暴騰だとか・・・2015年も波乱の年になりそうです。

そんな僕は、小市民らしく自分の持っている株に影響を及ぼすことがないよう、今年も世界経済の繁栄と平和を祈る次第です。くわばらくわばら。



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(´自ω我) 「・・・・スピリチュアル?」

1.21ジゴワットの未来

2015年01月14日 | どうでもいいこと

2015年

バックトゥザフューチャーにおける、未来の世界の設定が2015年となっているそうです。

今年はホバーボードが町を飛び回り、ズボンのポケットを外側に出すファッションが流行するんでしょうか、楽しみです。


これまでもこれからも、僕たちは時間の流れがあるからこそ生きています。

錯覚だろうが幻だろうが、時間は確かに流れていると感じるから、自分が生きているとも思える訳です。

それは泣こうが喚こうが、呪文を唱えようが、どうしようもないこと。

どうしようもないんだったら、変に気張らず、馬鹿になって流れ流されてみるのも手です。

あなたの行き着く先は知りませんが、今すぐ楽になる方法はそれだけだと思います。

なあに、案外悪い事にはならないもんですよ。

それはきっと本気で試した事がないから不安を感じるだけの事です。

流れ流される”自分”にこだわらなければ、そこには景色としての流れがただそこにあるだけ。

流れるのもそれに逆らうのも最初から自由だったんです。


・・・なんて格好いい事をいつものように言ってみますが、大体は自分が不安に怯えたり苦しんだ事をそのまま書いてたりします(笑)

まあ、結局は生きている限り皆同じって事です。

良いも悪いも、プラスもマイナスも、全部ひっくるめて自分の一部。

自分が自分であろうとする限り、そのルールから逃れる事は出来ません。


ただ、その土台自体を疑ってみる事は自由です。

そこに見えるのは、狂気的な妄想かもしれません。

または、唯一の救いかもしれません。

しかし、いずれにせよ五里霧中の苦しみからは抜け出す事が出来るとは思います。

コイツが何を言っているか分からないというあなた。

大丈夫あなたのせいじゃありません、僕の文章力が低いだけです(笑)


あなたが相当の暇人でしたら、また僕と一緒に流れ流されていきましょう。

本年もよろしくお願いいたします。

よいお年を

2014年12月30日 | どうでもいいこと

正月休みです。

さっそく友人達と旅館に行って酒を飲んだり、街に繰り出しては酒を飲んだりしているうち、見るからに太ってきています。

しかし正月と正月太りは切っても切り離せないもの(?)

ダイエットやサボリ癖のつき始めそうなジム通いの継続は来年の抱負にして、今は馬鹿になって飲み食いし続ける所存であります!


個人的には今年は世界を旅したり、プライベートでもやけにドラマチックな展開だらけの忘れられない年となりました。

来年の僕は、僕にどんなB級映画を見せてくれるのか楽しみです。

2015年、みなさんにとってもより楽しい一年となりますように。

それでは、よいお年を!


ヾ(´自ω我`)ノ「来年もよろしくっす!」

リンク追加しました。

2014年12月19日 | 悟りのこと

よっしー気付きの愛らんど☆」さんをリンクに追加いたしました。

関係ないんですが、昔魔法のiらんどという無料HPサーバがあったのを思い出したんです。
なんとなく今検索してみたら、今も女の子向けのエンタメサイトとして存続してました。あ、はいオチはありません。

ちなみに当ブログはスーパーリンクフリーでございます、相互も一方通行もいつでもどんとこいです。