凡人だって悟れるもん

自我は幻、大体そんな感じ。

よいお年を

2014年12月30日 | どうでもいいこと

正月休みです。

さっそく友人達と旅館に行って酒を飲んだり、街に繰り出しては酒を飲んだりしているうち、見るからに太ってきています。

しかし正月と正月太りは切っても切り離せないもの(?)

ダイエットやサボリ癖のつき始めそうなジム通いの継続は来年の抱負にして、今は馬鹿になって飲み食いし続ける所存であります!


個人的には今年は世界を旅したり、プライベートでもやけにドラマチックな展開だらけの忘れられない年となりました。

来年の僕は、僕にどんなB級映画を見せてくれるのか楽しみです。

2015年、みなさんにとってもより楽しい一年となりますように。

それでは、よいお年を!


ヾ(´自ω我`)ノ「来年もよろしくっす!」

リンク追加しました。

2014年12月19日 | 悟りのこと

よっしー気付きの愛らんど☆」さんをリンクに追加いたしました。

関係ないんですが、昔魔法のiらんどという無料HPサーバがあったのを思い出したんです。
なんとなく今検索してみたら、今も女の子向けのエンタメサイトとして存続してました。あ、はいオチはありません。

ちなみに当ブログはスーパーリンクフリーでございます、相互も一方通行もいつでもどんとこいです。

この素晴らしきクソ人生

2014年12月19日 | どうでもいいこと
人の目を気にしすぎ、周りからの評価で自分自身の価値が上下すると錯覚する。

批判に落ち込み、果ては言われてもいない妄想で落ち込む。

僕はそんな人生、面白くないと思います。

いや、実際面白くなかったです。

誰が何と言おうが、自分の価値観は自分が決めるもの。

その決定権は、誰にも邪魔されません。

どんな人でも、それぞれ別の世界の中に生きて、異なった解釈でそれを見ています。

どれだけ世の中で価値観の並列化が進もうが、人が人である限り、72億の個別の世界があります。

そんな中で、一体誰が他人に評価を付けられるというのでしょうか。

少なくとも、受けた評価は他人の基準で、ある一つの世界から見ただけのものです。

それを受け入れるのも、自分の価値観に用いる事もあなた次第。

絶対的と思える価値観も、善悪の基準も、全てがあなた次第で決まっている事。

もしあなたが、他人の目に怯えたり、コントロール出来ないものにストレスを感じているなら、それを思い出して下さい。

狭い世界に自分を押し込めておく必要なんて、最初から無かったんです。


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あんときの混乱

2014年12月16日 | どうでもいいこと
師走です。

みなさんも忙しく走りまわっているでしょうか、呉一郎です。

最近プライベートが月9並の急展開だらけで、ブログの更新どころではなく

「俺・・・何かラノベの主人公みたい!(白目)」

なんて言う暇すら無いくらいヘトヘトな日常を過ごしておりました。

とりあえず、少し落ち着いたので久々にブログの記事を・・・

書こうと思ったのですが、まだそこまで気分が乗らないので、過去に書いた文章をペタっと貼って、今日の記事とさせてもらおうと思います(笑)

昔頭の中で起きた混乱をまとめる為にメモに書いた、ちんぷんかんぷんな文章なんで、便所の落書きを見る程度の感覚でどうぞ。


_________


他人と比べることについて


 なぜ他人を見下すのか、もしくは見下されるのかということを考えた事があった。

知らず知らずの内、人を馬鹿にする自分が嫌になったり、逆に誰かに非難されるんじゃないかと怯える自分に気づいたからだ。

まず見下すとは何かを僕なりに調べた結果、仏教の教えである「七慢」というものにあたった。

ちなみに七慢とは

慢(劣っている者を見て優っていると侮る)

過慢(同等の者より優れていると驕る、優れた者を認めず同等であると侮る)

慢過慢(優っている者より勝っているとうぬぼれる)

我慢(自負心が強く我を通そうとする。非を認めない)

増上慢(悟りを得ていないのに自らを悟ったと騙る)

卑慢(下手に出ながらもこんなに腰の低い者は他にいないとうぬぼれる)

邪慢(邪なことをそれを偉いと誇ること)

といった、七つの慢心をあらわしているらしい。

よく言う慢心とは、この七慢をひっくるめて他をあなどる心、自らをおごり高ぶる心のことだ。

僕の考えていた、見下す事の自身への嫌悪感、見下される事への恐怖は、七慢でいうところの慢からくるものかもしれない。(あと増上慢もあるかも笑)

この中で分かった事は、優れた人間への嫉妬からくる感情や、批判的な心、また自分を下げて卑屈になる事も、そこにうぬぼれがあるなら、仏教の定義からいうと慢心といえる事だ。

これは言葉の意味を表面的にとらえていた僕にとって、少し意外だった。


 次に、なぜ人は慢心するのかという根本を知りたくなった。

これもまた納得のいく答えを探したところ、心理学の分野にとりあえずの僕の答えを見つけた。

それは、ユング心理学のシャドウという考え方だ。

例えば生理的に受け付けないような人物、何かしらの嫌悪感を抱く人物があなたには居るとする。

話す言葉の一つ一つが鼻につき、その行動の全てが自分の中のイライラを引き出す、そんな奴だ。

ちなみに僕にも、ちょっと考えるだけで2人3人思いつく奴が居る(笑)

それは心理学の観点から見ると、相手に“自分のシャドウ”を見るせいだと言えるそうだ。

何でもそのムカつく奴は、自分にとってシャドウ、つまり影なのだと言う。

影は、自分とは異質な存在。

自分の考え、価値観から見ると許しがたいと感じる考えや価値観が影そのものだそうだ。

つまりムカつくアイツへの嫌悪感は、自身が意識的、もしくは無意識的に、己に課しているルールや思い、価値観とも呼ばれるそれらから逸脱している事に対する心理的拒否反応なのだ。

例えば怒りっぽい人に対して嫌悪感を抱くなら、自身に怒りっぽいと思える部分があり(実際に怒りっぽいかどうかは別として)

その怒りやすいと感じる自分自身への嫌悪感や自制の気持ちが、そのまま鏡としてムカつく相手への嫌悪感として表れていると言えるらしい。

それは他の感情にも言えることであり、嫉妬や妬みや侮りやおごりを他者に対して感じるということも、そのまま自身にその価値観がある、という証拠なのだ。

それは実際に誰かに嫉妬されているとか、妬まれている、という意味ではなく、自分自身がそういったルールや固執した思い、価値観を抱いているというだけの話だ。


見下すにしろ何にしろ、気持ちを他者に向けているという事は、誰かに同じ気持ちが自分に向けられる事があるはずだという考えが有るという事。

僕の場合、他人に嫌悪感を抱いたり、人からの非難に恐怖しているという事は、自身で作ったそういう価値観に、自身で反応しているだけという事になる。


そうなれば後は既におなじみだが、自分の中の問題だ。

結局は、一人相撲から抜けるか否か。

そもそも一人相撲をしていた事実に気づけるかどうか、ただそれだけという結論。

それを結論としてしまうと元も子も無い気がするが、僕にとってはこれが答えだった。

最後はどこまでも堂々巡りで、どこまでも単純だ。



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