トンボが留まった!

心のつぶやきをここに記します。

メール:mysweetclover@mail.goo.ne.jp

ゆりかごの中の猫:Cat's in the Cradle

2008-09-23 05:43:13 | Weblog
http://jp.youtube.com/watch?v=zH46SmVv8SU&feature=related

ゆりかごの中の猫:
訳:たんぽぽ

ほんのちょっと前息子が生まれた。
息子は無事にこの世に生まれてくれたんだ。
けど、俺は、必死で家族を養うために仕事に走り回っていた。
息子は、父親のいない間に、歩き出した。
そして、俺の知らない間にしゃべりだした。
そのうち、“大きくなったらとうちゃんみたいになるんだっ”て言いだした。
“とうちゃんみたいになるんだ“って、

揺りかごの中の猫と、銀のスプーン。
ブルー少年と、月男。

“父ちゃん何時帰ってくるの?”
"今ちょっとはっきりしないが、今度、ゆっくり相手してやるからな”
“今度、ゆっくり遊んでやるからな”


息子が10歳になった。
"ボールかってくれてありがとう。父ちゃんキャチボールを教えてよ”
"今日はダメだ、いっぱいやることがある、また今度な”
“ううん、良いんだ、わかってる。”そういって、笑顔で受け止めてくれるんだ。
"大きくなったら、いつか父ちゃんみたいになるんだ”ってね、
“いつか父ちゃんみたいになるんだ”

こないだ、大学から帰ってきた息子、
成長した息子はほんとに親父の目からも、男前になったなと思う。
"息子よ、立派に育ってくれた、俺の自慢の息子よ、
ちょっと座って話でもしないか?“
息子は首を横に振り、にっこりして言った、
"でも、父ちゃんの車借りてっていい?ありがと、じゃ、また後でね!”

揺りかごの中の猫と銀のスプーン。
ブルー少年と、月男。

“息子よ、何時ごろ帰ってくるんだ?”
"いつかははっきりわからないけど、、今度ゆっくり一緒に過ごそうね、父ちゃん”
“今度ゆっくり楽しみにしてるよ。“

揺りかごの中の猫と銀のスプーン。
ブルー少年と、月男。

親父の俺は退職して随分になる、
息子は家をでて自立した。
少し前息子に電話した。
“よかったら、会いに来ないか?”
"いいね、父ちゃん、今度時間があるときね、
ここんとこ新しい仕事に追われる毎日で、
息子は今風邪で具合がよくなくてね、
そんなんでなかなか、でも、電話で声聞けてよかったよ。
“電話で声聞けてよかったよ。”

電話の受話器をかけるとき、ふと思ったんだ。
“息子はほんとに俺に似てきたなあ。”
“息子は俺にそっくりだ。“


揺りかごの中の猫と銀のスプーン。
ブルー少年と、月男。

“息子よ、何時ごろ帰ってくるんだ?”
"いつかははっきりわからないけど、、今度ゆっくり過ごそうね、父ちゃん”
“今度ゆっくり楽しみにしてるよ。“

Cat's in the Cradle
by Sandy & Harry Chapin

My child arrived just the other day,
He came to the world in the usual way.
But there were planes to catch, and bills to pay.
He learned to walk while I was away.
And he was talking 'fore I knew it, and as he grew,
He'd say, "I'm gonna be like you, dad.
You know I'm gonna be like you."

And the cat's in the cradle and the silver spoon,
Little boy blue and the man in the moon.

"When you coming home, dad?" "I don't know when,
But we'll get together then.
You know we'll have a good time then."
My son turned ten just the other day.
He said, "Thanks for the ball, dad, come on let's play.
Can you teach me to throw?"
I said, "Not today,
I got a lot to do." He said, "That's ok."
And he walked away, but his smile never dimmmed,
Said, "I'm gonna be like him, yeah.
You know I'm gonna be like him."

And the cat's in the cradle and the silver spoon,
Little boy blue and the man in the moon.

"When you coming home, dad?"
"I don't know when,
But we'll get together then.
You know we'll have a good time then."

Well, he came from college just the other day,
So much like a man I just had to say,
"Son, I'm proud of you. Can you sit for a while?"
He shook his head, and he said with a smile,
"What I'd really like, dad, is to borrow the car keys.
See you later. Can I have them please?"

And the cat's in the cradle and the silver spoon,
Little boy blue and the man in the moon.
"When you coming home, son?"
"I don't know when,
But we'll get together then, dad.
You know we'll have a good time then."

I've long since retired and my son's moved away.
I called him up just the other day.
I said, "I'd like to see you if you don't mind."
He said, "I'd love to, dad, if I could find the time.
You see, my new job's a hassle, and the kid's got the flu,
But it's sure nice talking to you, dad.
It's been sure nice talking to you."

And as I hung up the phone, it occurred to me,
He'd grown up just like me.
My boy was just like me.

And the cat's in the cradle and the silver spoon,
Little boy blue and the man in the moon.

"When you coming home, son?"
"I don't know when,
But we'll get together then, dad.
You know we'll have a good time then."

怒りのコントロール

2008-09-21 04:56:48 | Weblog
” 怒り ” は、

心裂けんばかりの ”恐怖心/苦しみの叫び” であり、

その想いの底には、”不安" に震える 孤独な心 の姿があり。

欝とは、その想いがマグマのように煮え滾る想いをかかえた状態なのだそうです。

怒り狂う人に反応する前にそのことを思い起こせば、
怒りと怒りがぶつかることを避けることができます。
むしろ、寛容、許し、同情さえ感じることができますね。




自分さえも思うように動かせないのに、
人をコントロールしようなんて思ってはいけません。

腹立つばかりです。
辛くなります。
無駄なエネルギー費やすばかりです。

人に嫌な想いをされたら、
それから学び、
自分は人にこんなことしないよう気をつけるために見せてくれたんだと、
知らず知らずに人にこんな想いをさせていたかもしれないと
我振り返るチャンスだと、感謝しても良いくらい。

人を罰せるのは人ではないと思うのです。
そんな大変なことは”神様”に任せようと思います。
神業司るほど偉くもないですから。


人は皆愚かで、不完全、それをこすりあって生きています。
人とうまくやりたいのに、人恋しいのに、
上手く伝えられない、傷つけてしまう。
自分がそんな時、寂しくて辛いでしょう、
人がそんなことしてしまったら、
かわいそうな人だと思うと、怒りが消えます。

子供の時、十分人の温もり愛情を受けられず、
人を信じることを恐れ、
そのむなしさを、裏切れない機械や物で埋めようと、
でも、むなしくて、人恋しくて、そ
っと近づいてみるけど、やっぱり怖くて逃げてしまう。
そんな想いを抱えていたら、きっと、
周りの人の気持ち酌む余裕ないと思いますよ。
辛いんだと思います。
孤独ほど人間にとって辛いことないですから。



不愉快を受けた人に、怒りをぶつけるより、こう思うことにしてみては?

**3C:1. I did not cause it.
      私に原因があるんじゃない。
   
    2. I can not control it.
      私がコントロールできることじゃない

    3. I can not cure it.      
      私が治してあげる事は出来ない。
 
    と思えば、許せます、楽になりますよ。
 
それでも腹が立つのであれば、

**"貴方の未熟さがそうさせたのね、かわいそうに。

  これは貴方のふがいなさ、貴方のまけよ。”

  [It's your short coming, not mine!")
  
  そして、その場から離れましょう。

  これは、夫婦喧嘩になりそうなとき使います。


と、思うように努力しています。
世の中、色々あるから、いちいち腹立ててたら、持ちません。
許すことで、自分の心を救いましょう。

少しでも、”怒りの煙”を世の中から消して、
”山郷の夕餉の煙”に変えたいですね。

里で出会った和犬たち。

2008-09-16 14:59:21 | Weblog
日本中何処にいても見かけるのは"柴犬"
今回の里帰りで、2匹の老犬たちとの出逢いがありました。

埼玉の友人のうちには、16歳になる柴犬の雑種がいます。
足腰ガクガクで、目も不自由らしく、所謂よぼよぼのおばあさんです。
私は早起きなので、朝から忙しい友人に代わって、朝の散歩をかってでました。
のたりのたりではありますが、
”しろ”は、私を連れて、お気に入りの散歩コースに連れまわしてくれました。
”昔は、ここは、コンクリートなんかじゃなくて、
土や、草木で、素敵なところだったんだろうね_”
”この辺は畑だったのかィ?お気に入りの場所?”なんて話しながら、
私としろの散歩はのどかな朝のひと時でした。

ところが、随分して、気になってきました。

どうも迷ったらしく、一向に家にたどり着かないのです。
この辺かな、コッチかなと、キョロキョロしながら歩いていると、
[しろも分からない様子でした]

通りがかりに、庭に出ているおじいさんがいたので、
”おはようございます。気持ちの良い朝ですね。
おじさん、この犬御存知ですか?
実は、散歩に出かけたのですが、
帰る家がからなくなって迷子になってしまったようです“と言う私に、

??????という顔でコッチを見るおじいさんに、

”いえ、私は、友達を訪ねているもので、この犬はその家の犬なんですが、
高齢で帰り道が、分からなくなったみたいで、、、“。と、言い訳していると、

向こうのほうから、帰りが遅いので、心配して捜索に出た友人が、
手を振りながら走りよってくるのが見えた。

あっ、家、見つかりそうです、どうも、失礼しました”
と言って、其処を離れました。

おじいさんは、ずーっと不思議そうに私たちを見ていました。
無理もありません、
朝っぱらから、変な人たち とあきれられたことでしょう。

次の日は、私も心して、迷わないようにしましたので大丈夫でした。

聞くと、しろは、何時もいやいやながら引きずられて散歩するとか、
私のときは、率先して私を連れまわすのにね。
どうも私、しろに好かれたみたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

犬といえば、帰省中、
バスで1時間くらいかかる田舎に一人暮らしのおじさんに、
東京に目の手術を受けに行く間、1週間、犬の世話をしてくれと頼まれました。

聞くと有名な、凶暴犬らしく,
ひどく吼えて噛み付いたりして近寄れない犬だというではないですか!

そんな犬を、見も知らぬ私が、主人の留守中に、
餌をあげたり、散歩したりできるのだろうかとひどく心配になり、
とにかく、顔見知りになる必要があると、はるばる訪ねていきました。

激しく吼える声がします、
玄関にたどり着くまでに、

”猛犬注意“、

”噛み付きます、近寄るな!”

とかの札が3つもあちこちにぶら下がっていて、
また、とんでもないこと引き受けそうと心配になりました。

そして、ついに、御本犬と御対面。
がっちりした体格の柴犬で、15歳という老犬。

凶暴な顔つきはしていないし、かしこい目をしています。
おじさんの立会のもとで、自己紹介をする。
下手に出た私の手を嗅いで鼻をつけてきました。
ゆっくり静かに優しく話しかけながら、
頬を軽くなでてやると、良い感じに受け入れてくれました。
それから少しづつ、胸や、喉、頬や、背中、お腹へと愛撫してやると、
嬉しそうに心を打ち開けてくれました。

人恋しくて、
友達になりたくて、
一生懸命吼え、近づきたい、
でも、繋がれているし、
ちびだから怖い気もあって、
もがいていたんだ。

訪れる人は、それが分からず、
吼えて飛び掛ろうとする犬を恐れて、
むしろ、暴力的に立ち向かおうとした人もいたのでしょう、
そこの郵便やさんは,それで,噛み付かれようとしたらしい
[郵便やさんの立場から分からないでもないですが、、、]。

犬の嫌いな人、恐怖心、敵意は、犬は敏感にその空気を読み取るものです。
逆に、好意を持って近づいてくる人も感じることが出来る。
犬の顔を見れば、虐められて噛み付くようになってしまった犬かどうか、
目を見れば明らかです。

最初チョッと勇気がいりますが、
“大丈夫、怖くない、お友達になりたいの、大丈夫”
と優しく、確かにささやくことで、犬も、自分も落ち着くことが出来ます。
そして、じっと手の甲を顔の下に置き、犬が、自ら近づけるように待ちます。

恐怖、敵意がない事を感じ、
優しく受け入れられる空気を作り出せば、
犬も、勇気を出して、心を許してくれる。
この柴犬はそうゆう子でした。

吉太郎と私はそれから意気投合して、大の仲良しになり、
さすがにおじさんも予想外だったみたいでしたが、
長靴と、手袋つけて、裏山に散歩。
マムシに気を付けながら、吉君のお気に入りの山を見せてくれました。

その後、私は吉君の食事を持って、
バスで往復2500円、半日かけて1週間ほど通いました。
[一律料金で乗るバスに慣れているので、
ポンポンと運賃が上がっていくバスや電車の旅は、ヒヤヒヤ物でした。
サンフランシスコ市内も、150円?で1時間半 乗り継ぎ券付きで一律だ]

吉ちゃんは私の声を聞くと、喜んで迎えてくれ、
散歩に行くときは、背中に羽でも生えたカナと思わんばかりに、
すっ飛んで、私を連れて、裏山を駆け登るのでした。

ひょんなことで知り合った吉君と、
短かったけど、とっても素敵な時間を過ごすことが出来ました。

吉君の山で、見つけたくりの木は、
生まれて一番の大木で、
そのものすごい木から落ちるくりも超ジャイアント、
去年の秋落ちた拳大のくりを足で開きながら、
その立派なくりのみを感心して見つめる私でした。

幼11歳の秋、ここで拾ったくりを思い出しながら、
こんなにも大木になったくりの木とその実の成長と、
40年という月日の流れの確かさを感じ取る私でした。

あの頃、笑顔で迎えてくれた祖父母も長寿を全うしてこの世を去りました。
この畑で取れたトマトや、スイカの味は覚えているのに、
もうその姿は其処にはない。
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「おおきな木」

2008-09-16 08:03:44 | Weblog
「おおきな木」: シェル シルバーステインの"The Giving Tree”


昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。

ちびっこは、りんごの枝にしがみ付いてブランコしたり、
木陰でお昼寝したり、
おなかが空いたらりんごを取って食べました。
毎日、木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。

時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長して大人になっていき、
木に会いに来なくなります。

ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。

木は昔のように遊んでおいきと言いますが、ぼうやは言います。

「買いたい物があるんだ。だから おかねが ほしいんだ。
おこづかいを くれるかい。」

木は困りましたが、りんごの実をすべて与え、
それを売ってお金に換えるように言いますます。

青年になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。

壮年になったぼうやは船を欲しがり、木はついにその幹を与え、
切り株になってしまい、遠くに船立ちする坊やを見送ります。

懐かしい思い出だけを胸に、とても寂しい長い長い年月が流れます。

そして、ある日、ひょっこりと、
人生に疲れて孤独な老人となったぼうやが、古株のところに帰ってきます。

”この古い切り株となった自分にして上げれるものは何もないんだ、ごめんよ。”
と悲しそうに言いました。

"いや、もう何も欲しいものは無い、人生にも疲れた身体を、休めたいだけだ"

すると、古株は、本当に嬉しそうにいいました。

"じゃあ、この切り株に座って、ゆっくり休んだらいい"

そこで、2人は幸せなひと時を過ごしました。

おわり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

家には、大きな柿木があります。
子供達が小さい時は、一番下の枝に、よくぶら下がったり、木登りしたり、

ハンモックかけたりして遊びました。
子供達が巣立った今は、親や犬だけでなく、あの柿の木も寂しそうです。

毎年、がんばって、美味しい実を500個以上とり、友達や御近所に配ります。
それでも半分くらいで、後は、冬の鳥やリスたちの命綱になります。

家のわんこは柿が大好きで、下のほうは彼女のためにとらないで置きます。
毎日1-2個は、枝に飛びついて取って食べるのが楽しみみたいですよ。

わんこも、お姉ちゃん達がたまに帰ってくると、とても喜んで、
散歩綱を加えてきて、散歩に行こうとおねだりしたり、
サッカーボール持ってきて誘ってみたり、一生懸命です。

でも普段は、毎日、日向ぼっこしながら 柿の木下で、
お姉ちゃんたちと走り回っている夢を見て過ごします。
笑顔で、手足ぴくぴくさせて夢見てるわんこを見つめているのは私です。

秋がもう其処まで、
今年もたくさんの柿がそろそろ色づき始めます。






古い描きかけの絵、

2008-09-16 07:16:36 | Weblog
古い描きかけの絵を見つけた。
もう、何年も前にある時浮かんできたイメージ。
取り付かれたように描いた鉛筆のデッサンだ。
あの時の懐かしいイメージが心に溢れるようにこみ上げる。
色をつけて仕上げようかとも思ってみる。


絵を描くときは、ある1点のムードにはまって、
自分を其処に封じ込める作業する気がします。
その瞬間は長く続かず、
つまり、人生の1点として未完成のまま途切れますが、
それはそれで、何時見ても新鮮な想いが封じ込められているものです。

何年かして、完成しようと思うときは、
もう、あのときの自分ではない、
成長し、人生観も、心も違う別の点に立っている。
それが、過去の自分の波長とぶつかり合い、
多分、思うようなえには完成しないと思うのです。

あのときの想いはそのままそっと、
そう、古い写真たての中の写真のように、
そして、
今、また今の自分を描いてみたらいい絵がかけそう。
と、思います。

古い友との懐かしい想い出は、何時も心の奥にはっきりと刻まれている。
しかし、懐かしい再会は、
互いの成長を、違う世界に生きてきた歴史と、
お互い知らない時間を隠すことは出来ない。

時間という大きな力を受け止めて、
今、過去に手を伸ばす自分を未来に結びつけるは良いものかもしれない。

怖いとき、自分の心を救う“おまじない”

2008-09-13 12:37:00 | Weblog

怖いとき、自分の心を救う“おまじない”

 

人は何かに恐れを感じる時、
想ってはいけないことを想って
罪悪感に襲われたりしないだろうか?

例えば、嵐の夜、怖くて眠れない時、
雷が落ちて、家が壊され、燃え上がり、
火の中で、家族が巻き添えを食らってしまったらどうしよう
なんて決してあってはいけない事を思ってしまう。
もしそれが本当に起こってしまったらと、
私はなんて残酷なことを思ってしまったのだろうと
自分をひどく責めてしまったりする。
まさに自己嫌悪、自己葛藤に苦しむことになる。

自分の恐怖心を抑えようと、必死で拒否しようとせず、
むしろ、怯える心とちゃんと向き合って、そっと優しく包んであげよう。

冷静に自分の心と向き合い こう言い聞かせる。
“私は怖いから、そんなこと考えてしまっただけに過ぎない。
悪戯でそんなこと想っているのではない、
怖がりの自分を許してあげよう、


“大丈夫!私は何時も心から、
愛する者達が無事で幸せであるように祈っている!!。”

すると心はホッとして、安らかになれる。
そして其処から勇気が湧いてくる。

怖いとき、自分の心を救う“おまじない”

・・・”だいじょうぶ!もう怖くない!”


チョッと、がんばりすぎた日、

2008-09-13 03:29:31 | Weblog
山積みの古いコンピューターを家中から掻き集め、
(ついでに古い壊れたTV、オーディオシステム、電子レンジ、
スピーカーなどなど)
娘達は助けてくれそうもないので、
コンピューターガイを呼んで、メモリーを壊してもらい、
処理場にトラックで持っていってもらった。
ついでに私のコンピューターも見てもらい、
色々アップグレードしてもらったり、わからないとこ教えてもらったり、
6時間もかかりました。
場が持たないので、
ダイニングで、コンピューターと向き合っている相手しながら、
台所で、料理することにしました。
久しぶりに、パンを焼くことにして、
胡桃をローストし、りんごと、クリームチーズ、シナモンシュガーを
アレンジして、くるみクリームチーズパンを焼いてみました。
サンフランシスコのジャパンタウンにある日本のパン屋さんの
くるみパンより美味しいと、お友達に誉めてもらって嬉しかった。
御近所に住む彼女も呼んで、久しぶり、お肉入りのカレーライスも作ったし、
サラダと一緒にランチにしました。

でも夕方には、くたくたにくたびれて、かかった費用も考えると、
娘達に非常に腹が立ちだした。

"なんで、あなたたちの、置いていった使い捨ての山を、
一人で、重い思いして奮闘し、
おまけに高いお金払う羽目にならなければならないのか、
無関心、無責任な奴が、せめて費用を持つべきだ ”
と娘達に言ってやりました。

3人の娘達の結婚費用を、
気持ちながら、少しづつ貯金しようと先月から始めたが、
何せ、収入のない私、どうやってへそくるか頭をひねっていたが、
"つもり貯金"と今回のような時の”懲らしめ罰金"も、いい手段だ
と思いながら、パパに愚痴りだす前に、昨日は早めに床につきました。

*"つもり貯金":
チョッと贅沢したい時、
例えば、外食。贅沢したい気持ちを踏ん張ってがんばり、
レストランと同じような材料をそろえ、自分で料理し、
食卓を飾り、贅沢な気分を守り立て、
レストランでサービス受けた気分を醸し出し、
つまり、レストランと客の2役をするわけ。
そして、レストランでかかる料金とチップを加えたものから、
かかった材料費などを差し引きその差額を貯金する。

秋の足音・”ドボルザーク#8”

2008-09-13 02:23:31 | Weblog
APPLE STRUDEL(アップルチーズケーキ)”ドボルザーク#8”

毎年、秋が近づくころになると私の頭の中で鳴り響く曲がある。
”ドボルザーク#8”
地平線まで続く平野を目の前に立ち、
ひんやりとした朝の空気を肌に感じる
訪れる冬を想い、よし!と意気込む。

農家直売上に並ぶ秋の収穫、
取立ての焼きりんごとシナモンの香は、
どんな時も私の心を癒し、満たされ、魂が生き返える。
湯気のでる熱い紅茶と、焼きたてのケーキが無性に食べたくなる。


近くの果樹園で取れたての りんごにレモンを数滴落とし 
キリッと味を締めてみる、

カシカシッとフレッシュな胡桃と、香ばしい シナモンをからませる

ラム酒にしっとり湿らせたクランベリーは、
なんとも言いがたいアクセント、

ベースはまろやかなバター、
チョッと渋くてすっぱいヨーグルトと、
さっぱりしたコッテージチーズと掛け合って、
深いコクを醸し出す、

これらの全ての楽器が、上手く掛け合わされ、
一つのハーモニーをつくりだす。
混ざり合い、溶け合い、重なり合い,
熱いオーブンの中で焼きあがる。
焼き上がりに、広大な畑でミツバチたちが集めた蜂蜜を
たっぷりたらし
味のシンフォニーが出来上がる。

この季節、貴方にも届けたい!!
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

APPLE STRUDEL(アップルチーズケーキ):

A.
りんご     x2[出来れば、グラニースミスなどすっぱいりんごがいい]
レモン汁 大さじx1  
  (皮をむき親指の爪くらいの大きさに切りレモンをからませる)
B.
クランベリー 大さじx2 [レーズンで代用可]
ラム酒 大さじx1(ブランデーで代用可)
  [絡ませ、蓋をして、レンジで20秒暖め、しっとりしみこませる]
C.
くるみ 150cc[オーブンで軽くローストすると風味がでる。
             小指の爪大に切る、つぶさないこと]
シナモン 小さじx2
砂糖 100cc
[よく混ぜ合わせる]

D.
小麦粉[ケーキ用]400cc
ベーキングパウダー 小さじx2
塩 小さじx1/2
[ふるいにかける]

E.
砂糖 250cc
バター 80g
全卵 4個
コッテージチーズ 150g
ヨーグルト 150g
バニラ 小さじ 1
[上から順に混ぜ込む]

作り方:
AからEの下ごしらえをする。
E.を順々に混ぜ合わせたところで、Dを加えた軽く混ぜ合わせる。
次に、AとBを軽く混ぜ込み、生地を仕上げる・・・①

焼き皿に、パーチメントペーパーをしき、
① を1/2広げ、Cのくるみミックスを1/2振り掛け、
その上に また 残りの①を広げ、
一番上にCのくるみミックスの残りを振り掛ける。

 
175℃オーブンで、30分焼き上げる。串さしてもついてこないこと。
オーブンから出したとき、
蜂蜜(または、パンケーキのシロップを表面にかける。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

焼きたて、15分、熱いうちに紅茶と一緒に召し上がれ!
冷えた後は、冷蔵庫で保存し、
食べる時、レンジで暖めると美味しいですよ。
秋の夜長、ゆったりとした時間、
音楽と読書をお楽しみください。



一つの異国で生まれた貝殻との出会い

2008-09-11 10:53:18 | Weblog
異国で生まれた貝殻との出会い:

貝殻を一つ頂いた
遠い南半球の島で取れたものだという

生きている時は、そのあたりをゴロゴロ、モゾモゾしていた、

死んでからは、遠く七つの海を越え、地球1周なんてヒョイ と一っ飛び飛び

一つの異国で生まれた貝との出会い、
私の手のひらで、じっとこちらを見つめている。

“はじめまして、“

“したこと, しなかったこと"

2008-09-11 10:24:28 | Weblog
“したことで人に迷惑をかけることと、
しなかったことで人に迷惑をかけることと
どちらが、罪深いだろうか?“

“何もしていないのに、何で悪いのさ!“とは叱られるほうの言い分。

親や、先生、上司から、しょっちゅう小言言われる人を見てみれば、
やりっぱなし、散らかしっぱなしで、片付けない。
すべきことをやっていない。
時間を守らないで、遅刻したり、人を待たせたり、人に迷惑をかける。
人と協力して、分担された仕事をしなかった。
困っている人を無視して、助けようともしなかった。
いわれたことの単純作業はするが、全体の構想を考えて、
次の段階に向けて1歩踏み出す構えや、前向きな行動力に全く欠ける。
つまり、していない事で小言を言われることが多いようだ。

幼児であれば、なんら問題ではないが、
大きくなって、やること、要求も、大人並みに要求しながら、
こういう態度では、社会が受け付ず、社会問題となる。
人として社会に生きるためには、
義務と、権利を同じく受け入れ、バランスが取れていなければならない。

しかし、人間の本性は、
楽して、欲しいものを手に入れたいというずるいものらしい。
だからこそ、苦労削減の、便利さを追いかけて、
現在のハイテク近代社会が生まれたのだろう。

薪を拾いまわり、乾燥させ、木を一生懸命こすって、火を起こし、
時間をかけて、簡単な食料にありつける時代から、
出来合いのものを、レンジに放り込んで、ボタンを押すだけで
数種類の温かい料理が2-3分で食べられる時代になった。
お袋が、コンビニで代用される時代になってしまった。


何かをすることで失敗し、傷を追う事はあるが、
人も文化も、そうやって進化してきた。
何もしないて過ごしていたら、
人間は、いまでもカブトガニの形をしているかもしれない。

人というのは、ほぼ、
しなかったことでマイナス評価され、
したことでプラス評価されることが多いように思えるが・・?

さあ、貴方だったら、この世を去った後、

"やらなかった人"として思い出してもらいたいか、

"やった人"として思い出して欲しいか。

“TO BE OR NOT TO BE”

に似た様な問いかけになってきそうである。

熟年夫婦

2008-09-08 10:03:47 | Weblog
熟年夫婦

長年連れ添った夫婦の関係を、
“馴れ合い“とか“妥協”とか悪い意味で言うことがある。
しかしそれは、いい意味で、言い方を変えれば、
”水と空気みたいな存在”とか、”慈しみ許しあう“と言うこともある。
私は、ただただ、“許しあう気持ち“じゃないだろかと思います。

先日バンクーバーであった結婚式に、
面白い老年夫婦と同席しました。
もう金婚式を済ましたであろうお2人は、
6人の孫の世話をするために忙しく、
イギリスとオーストラリアを行ったり来たりして、
しかも、別々すれ違い、
あの時も、奥さんはオーストラリアからイギリスに帰る途中、
カナダのバンクーバーで旦那さんと合流、
旦那さんは、イギリスから来ていて、この後オーストラリアに向かうとか。
こんなことしょっちゅうやっていて、
お金を使い果たしそうだが、可愛い盛りの孫達に会いたくて、
そのためならお金なんて関係ないって言っておられました。
私は一言、”夏と冬、春と秋とひっくり返る気候に
しょっちゅう順応するのも大変でしょうね“と申し上げたことでした。

その旦那さんのスピーチに、こんな一言がありました。
”神様は、不完全を越えたところに本当の愛を見出される、
激しく燃え上がる感情は、恋愛であって、本当の愛ではない、
これから、少しずつ、不完全な2人が
困難を共に乗り越えながら築き上げるものが本当の愛だ“と。

銀婚式を過ぎたくらいの私たち、子供達も巣立って、
これから、二人向き合って、その”本当の愛”が試されるんですね。

武者奮いでしょうかね、これは・・・それとも ただの身震い?


朝の散歩

2008-09-08 09:19:50 | Weblog
故郷の父は、4階建てのアパートに住んでいる。
裏のバルコニーからは、水源地とその回りの森と山、
水源地から流しだされる水の音が快くいつも響いている。
前のバルコニーからは、目の前に聳える山と
その間に広がる谷間の町の空間が広がっている。
6月の故郷は、深くみずみずしい緑に包まれている。
淡い新緑から、深い深緑、
こんなにも多くの色を持つ緑があったのかと改めて驚かされる。

まだ夜明け前の暗い森から、鳥達が起き出す頃、
川のせせらぎの音で快く目が覚める。
静かに起き上がり、机の前に座る。
これは私に与えられたボーナスタイム。
前の日に聞いた父の話をまとめたり、日記を書く時間に当てる。
まるで、私のために止まってくれた時間のような感じで、
静かに心と語り合う。

6時、外がだいぶ明るくなった。
まだ、人が動き出した気配なない。
足音を忍ばせて、そーっと外にでて、
深い深呼吸をしてストレッチ。
今日もすがすがしい空気に包まれた森を目掛けて歩き出す。

森に向かう150段の階段を駆け上がり、下り、また上がり、
山道を水源地に沿って歩いていく。
名も知らぬ様々な木や草、
小さな森の花は木陰に隠れるように咲いている。
しっとりとした枯れ葉が足元に優しい感触。

森を抜けると、舗装された下り坂、
ダダダッと走り、水源地の前の公園にたどり着く。
其処から美しい眺めを楽しみながら、体操をする。
その横の、水神様? に挨拶をして、また歩き出す。

マンモス小学校にたどり着く、その校庭を2-3回軽く走る、
その近くの新興住宅の、誰も歩いていない道を登りあがる。
その周りにも深い森がある。

それから、町のほうに向かう、
早々と仕事に向かう会社員や、
犬のトイレ散歩をする人たちを見かける。
とにかく芝犬が多いのに驚く、さすがここは日本。
昔通った小学校、
今は老人のゲートボールや、子供たちの遊び場になっている公園を
2-3週回りながらごみを拾う。

本当にポイ捨てが多い,ゴミ箱あるのに、どういう神経なんだろう?
母も通った小学校、私もたくさん思い出のある小学校、
大切にしたいから私は人の汚したごみを拾いまわる。
チョッと悲しかったな。

直ぐ近くの神社に参拝がてら、
神社の裏につながれて、飼われている柴犬を起こしに行く。
あんなめったに人のこないところじゃ、
ワン子も人恋しかろうと思われる。
”また。あの、変なおばさんが朝っぱらから俺を起こしに来た“
って顔してこちらを見ている。
小さい時からよく遊んでいたのに
こんなにたくさんの神様をお祭りしてあるなんて知らなかった。
一つ一つに頭を下げて回る。

幼稚園の時から遊びなれた通りを歩き、
その変わり果てた町の様子に、懐かしい面影を探して、
私の目はどんな小さなことも見逃さない。

思い出深い桜道、もう 母に手を引かれて歩いた小学校の入学式の日の満開の桜道の桜の木は1本も残ってはいない。
あれから3代目の桜が水源地近くにわずかに咲いているだけだ。

その桜道を登っていくと、道横の石垣の上に母の墓がある。
線香も花も持ってないが、
階段を登っていき、手を合わせて、母に朝の挨拶。
今日もいい日でありますように。

そろそろ、帰って、シャワーを浴びて、
朝餉の支度に取り掛かろうか。

ふるさとでの朝の時間は充実していて、
私の心を清めてくれた。
とても楽しかった朝の散歩。
一人の時間。


ここに帰ってきて、犬を連れて、散歩に出かける。
家の近くのグリーンベルトは延々と続き、
ぐるっと2時間はかかると思われるが、
ただ延々に芝と、木と、様々な花壇のそばをコンクリートの道が続く、
丁寧に世話の行き届いたゴミも落ちていない公園道路だ、
ところどころに、ゆったりと、
子供の砂場や遊具が取り付けられていて、
ベンチがあちこちにおいてあって、
鳥やリスたちが自由に生活していて、
ジョギング、散歩、犬の散歩、自転車、ローラースケート、
通学道路にもなっている。

しかし、私のふるさとのような郷愁のようなものや、
野性的なエネルギーは感じれれない。
所謂、
“あじけない。”

でも、犬と私はそこで30分ほどの、
2人の散歩の時間を大切にしている。
今日も良いウンコして、気持ちよかったね、クロービー!

7月12日2008年

鬼ごっこ

2008-09-08 09:02:25 | Weblog
今日の朝、涼しい空気を入れようと裏戸を開けたとき
おはようって入ってってきたクローバーと、
台所のカウンターと戸棚の周りで、鬼ごっこをした。
あの子が鬼で、私を捕まえるというより、
かくれんぼ ぽいゲームを楽しんだ。
キャッキャ、ウワウワーと2人で笑いながらはしゃいで、
子供みたいに いい年したうちらの楽しいひと時でした。
”ママ何処? 如何して隠れるの? あっ 見つけた!!コラァー待てぇ!“
楽しかったね、またやろうね、パパ見つからないようにね。

不器用な私の脳みそ、

2008-09-08 04:44:17 | Weblog
気の遠くなるほど長い年月をかけて、人類は進化してきたが、
その過程で多くのものを退化させてきた。
地球の環境変化に合わせて、全ての生き物が、
それに順応するように進化、退化を行って生きてきた。
近年の、人間の科学技術という玩具で、
”もっと楽に、もっと欲しい”を追及するゲームに
われを忘れて没頭するあまり、
地球と人類の進化過程のスピードバランスが崩れたことに気付き、
まるで、地雷を踏んでしまって其処から動けない
というたぐいのパニックに陥っている。

私個人においても、言語と思考のアンバランスという機能不全
ある種のもどかしさを強く感じている。

言語というのは頭の中で、翻訳、作り変えてこなすもの
と考えている人が多いのではないかと思う。
よく“3ヶ月で外国語をぺらぺらと話せるようになる講座“
なんて事聞くと????と思ってしまう。
よっぽど、丸暗記の天才でもない限り不可能だし、
頭にあっても、見に付いた実用性のある外国語は、
その国の土地を知らないものが、
自分の国の見解で翻訳して解釈することで身に付くわけがないと思うのです。
言葉は、人の思考表現であり、心で感じるもの、
文化風習、生活から切り離して見に付くものではないと思うのです。
うまれてこのかた何十年もかけて身につけた日本語、
外国語も同じ感覚で見て欲しいですね。


頭がよくもなく、語学に対して深く勉強したわけでもない私の見解なんですが、、、

私の日本語は、長崎・佐世保弁-京都弁-博多弁-久留米弁を経て、
十二分にごちゃ混ぜになったところで、
標準語をちゃんと学んだ外国人[全く方言がない、美しい日本語]
に出会いました。仕事で、標準語、丁寧語は一応こなしていましたが、
彼の日本語の美しさには、
息を飲み込むようなショックを覚えたのを覚えています。

カナダに移住しても、彼は日本語を使い続けました。
しかし、もともと無口で、日常生活最小限の会話では、
助詞や、関係代名詞、語尾が消えていくなど、
少しずつ、退化を見せるのでした。
それでもこの27年間、
学会で1度日本を訪れた以外日本に帰っていないのに、
我が家で唯一日本語を喋り続けています。

そんな中で、もともと英語大嫌いな私も、
生活実用英語を少しずつ身に付け出し、
そのうち英語のほうが楽になりだしました。
とくに、腹が立ったとき、自分の言い分をしっかり伝えたい時など、
長ったらしく、もどかしい日本語より、
スカッとはっきり、気持ちを伝え易い英語を使うようになりました。

ある時点で、家の中にこもってないで、
前向きに社会に踏み出さなければ、
子供達をちゃんとリードしてあげることが出来ないと
認識、選択、覚悟を決めました。

主人や子供達の日本語を維持するためには、
カナダに生きながら、ある意味で、自分を社会隔離し、
目の前にない日本の文化、言語、思考見解で生きることで、
狭い世界に息を潜めて生きるなんて私には出来ませんでした。
子供達にも、できるだけ、母のルートとして、
言葉や文化は伝えるよう努力はしましたが、
彼らにしても未知の世界、実用性のない日本語、文化を
押し付けられるのは、不自然で、かなりの抵抗を受けました。
そんなわけで、我が家は、パパ以外英語。
日本語で聞いても英語でしかかえって来ません。
“奥さん日本人なのに、何でヴェトナム人の旦那さんが日本語で奥さん英語?”
と不思議がられましたが、不器用な私、
これが自然になりましたというしかありませんでした。
親の母国語に、英語で答えるのが普通の家庭って本当に普通なんです。

多くの移民は、自国の民族で固まり、
その中だけで、生活する人たちも多くいます。
所謂、チャイナタウン、ジャパンタウン、メキシカン、イタリアン・・・
其処では、自国の文化社会、言語が存在し安らぎの世界ではありますが、
何時も、一般社会からの隔離感というのは付きまといます。
40年カナダ、アメリカに住んでいても、
英語は全く喋れませんという人はたくさんいます。

子供達に、ルートを維持し、多国語教育するために、
家庭では100%読み書き含めて母国語というのを通すには、
普通、母親が全く英語がわからないからという条件が多いです。
幼い子供が、お母さんの通訳をして、生活庶事につかさどり、
大宅さんや、支払い、注文掛け合い一切の世話を担った
子供の様子を見てきました。
全く母親に頼れない子供、解らないことや、学校で困ったことなど、
親に聞けない、頼れない。さぞや不安だったことでしょう。
多くの子供達は、そんな不便、惨めさを乗り越えて、
人の何倍も努力し立派な社会人になっていますがね。

でも、私は、親の事情で、この国に住むことになったのに、
この国の子供が当然学ぶ子供の世界、文化をミスして欲しくなかったし、
子供がちゃんと頼れる親になりたかった。
だからそのためには、自ら社会に目を向けなければと意識しました。
親のルートも大切ですが、
この国に生きる以上この国のことを知ることが先決でした。
また、他に頼れる人もいない国で、
いざという時、家族を支えて自立できる自分でなくてはならい
というプレッシャーもあり、
呑気に家の中でじっとしているわけには行かなかったのです。

人生の半分を日本で過ごし、自分というアイデンティティは、
しっかり日本人ですが、それは、“誇り”なのか“埃”なのか、
生活習慣や、物の見方は日本人とはかなりづれてしまったと感じます。
世界から見た日本という見方もあって、
偏りが無くなってきたという言い方もできるかもしれません。
また、何処にも100%は属さない、
宙ぶらりんな存在という侘しさもあります。

特に、物事を英語で考えるようになってきている、
というか、どっちで考えているのか解らない時がある。
少し前見たドラマが、
日本語サブタイトルだったか、英語サブタイトルだったか、解らなかったり、
”今何語で考えてた?“とか聞かれて即答できなかったりする。
日常会話は日本語でスムースに?出来るのに、
込み入った考えは、日本語では難しい。
英語で見に付いた単語にぴったりの日本語が見つからないことが多い。
なんか違う、チョッとニュアンスが不十分とか感じることが多くて、
行き詰ってしまう。
先日、里帰りの折り、普段使い慣れていない語彙量についていけなくて、
ちゃんとした日本語しゃべるのに疲れて、
日本人に英語で対応してしまったことでした。
日本語は理解できるのに、英語で答えてしまう。
相手は、きっと変な感じだったでしょうね。

今 毎日の生活は、インターネット、ブログとかに書き込むこと、また
時々、日本人のお友達と会話する以外、日本語を使うチャンスがありません。
[主人は無口で、会話を楽しむというより、助詞のなさに不自由を感じてしまう]
年のせいか、里帰り後のカルチャーショックを引きずっているのか、
このごろ日本語に取り付かれているようだ。
日本の小説も最近いくつか面白く読めた。
別にいいんだが、嬉しいことでもあるんだけれど、
問題は、勉強から逃げてしまっているようなんです。
まあ、内容的に、興味はあるけど、凄く深すぎで、
ともすれば落ち込みそうな,病める心の、
デリケートな問題に取り込む分野だから、
所謂、もつれ合った釣り糸をとき伸ばし巻きなおすときの、
どーんと腰を入れて取り掛からないと、
もっともつれてイライラすることになる感じの、あんな感じ。

不器用な私の脳みそ、
カチカチと上手く切り替えができなくて、
チョッと悩んでいます。


空の上から、

2008-09-03 03:08:34 | Weblog
モコモコした雲の上を飛んでいます
モコモコ雲って、
除雪車に吹き飛ばされて、積まれた雪みたい

天国に行く時は、
このモコモコの間をくぐって登っていくのかな?
モコモコ雲の上を歩きながら行くのって楽しそう
あちこちでかくれんぼしながら、いっぱい遊べそう。

万年雪を被った山を上から眺め、優越感に浸りながら、
機内は、スナックさえお金を取るしがらみを感じながら、
ゆっくりと、北の国へ、

バンクーバーの街が見えてくる
さすがに、プールのある家は見られない。
ゆったりとした川の両側を、大きな丸たんぼが、
綺麗に列成して連なって流れていく。
そうか、ここは材木産業の街だ。
広い入り江や島が見渡す限り広がっている。
そうだ、海の幸でも有名だった。
馬達が緑の草を、ゆったりと美味しそうに食べている。
乾ききった枯れ草を、暑さに耐えながら食べてる
カリフォルニアの牛や馬達がかわいそうに思えた。