ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(200)

2011-09-10 16:07:55 | Weblog
9月10日

 強い雨風の日があった後は、晴れていい天気の日が続いている。ようやく、ワタシの規則的な毎日が続いて、穏やかに過ぎて行く。あの『天才バカボン』のコマーシャル・ソングではないけれども、これでよいのだ。

 朝6時前、部屋で寝ていた飼い主が起きてくる。それまであとなしく居間のソファーの上にいたワタシは、飼い主に鳴きかける。「ニャー、おはよー。ニャーオ、おなかがすいた。」
 すると飼い主が、「こんな朝早くから。」とぶつくさ文句を言いながらも、コアジを一匹、はさみで切って出してくれる。飼い主は部屋で自分の朝食をすませて、その後ワタシをトイレ散歩に連れ出し、ワタシは適当な所で溜まっていたものを出して、少しあたりをうろついた後、一緒に家に戻る。
 飼い主は、それから庭に出て、気ぜわしく音を立てて仕事をしている。それが終わると家に戻り、ぜいたくにも朝風呂なんぞに入り、そして着ていたものを洗濯をして、ベランダに干している。
 それらは布団干しなどとともに、風通しのよい日陰になる。ワタシは、そこで寝て過ごし、夕方前には、むくっと起き上がり、鳴いてサカナを催促する。
 それを食べ終わると、夕方のトイレ散歩タイムだ。さらに夜になって、飼い主に促されて、暗い外に出てトイレをすませて、後はソファーの上で横になる。
 そんな決まりきった毎日だけれども、他には時々飼い主に体をなでてもらい、ブラッシンングをしてもらい、ちょっとしたじゃれあいの相手になってもらいさえすれば、ワタシにはもう取り立てて、文句を言うべき不満もない。

 飼い主が、生真面目(きまじめ)な顔をして、本を読んでいる。その本の表紙を見てみると、『働かないネコに意義がある』。げっ、まじかよー。いや間違った、よく見れば、『働かないアリに意義がある』だった。
 それは、まさか食べてはゴロゴロ寝てばかりいる、ワタシへの当てつけのつもりなのか。いや、毎日こうしてワタシを可愛がってくれているのだから、そう心配するほどのことではないのだろうが、それにしても、いかにもヒマそうな飼い主が読むにふさわしい題名の本だ。


 「鮮やかに晴れ上がった空から、さわやかな秋の風が吹き寄せてくる。ベランダの揺り椅子に座り、私の膝の上で丸くなっているミャオの体をなでていると、この場所以外の出来事など、つまりあの東北の大津波被害や原発事故に、今度の紀伊半島での土砂崩れ水害など、さまざまな災害が起きていることなどが信じられないほどである。
 人はいつも、自分の身に降りかかって初めて、その災難のことの大きさに気づくのだろう。
 私たちは、科学の発達によって、遠く離れた土地での災害のことも、すぐに映像として見知ることができるようになったし、そして、同じ社会の一員として心を痛め、すぐにいくらかの援助をすることができるようにもなった。
 それでも、災難にあった被害者たちのこうむった、多くの物質的なそして精神的な被害までもは救えない。いまだに水面(みなも)の底に沈んだままの人もいれば、こうして日当たりのよいベランダでネコをなでている人もいる。

 それを、運命という一文字で片付けるのは、あまりにも非人情的にも思えるが、どだい人間も、同じ地球上の生きものの一つであることに変わりはなく、個性ある一つの命ではあるが、単なる一つの命であるにすぎない。
 前にも書いたことがあるのだが、アフリカの草原で、ライオンがヌーの大群を追い回し、そのうちの一頭をしとめると、それまで逃げ回っていた他のヌーたちは立ち止り、遠巻きにして、その仲間の一頭がライオンに食べられているのを見ているだけだ。

 生きものの社会の中での、仕組みや掟(おきて)のすべてが、人間社会に当てはまるとは思えないが、最近読んだ本の中で、新書版『働かないアリに意義がある』は、なかなかに興味深いものであった。
 それは、さまざまな種類のアリ社会の成り立ちや、女王アリや働きアリたちの行動を観察し、生物進化学の立場から、現代の進化理論のひとつの仮定となるべく研究されたものであり、それを学者の研究論文ではなく、私たち一般読者に分かりやすい平易な言葉で書いてあるから、働かないアリがいることなどを知って、なるほどとうなずきながら一冊を読み終えてしまう感じだった。
 生物科学の世界は、ある種のミステリーのなぞ解きに似ていて、知的ゲームの好きな人間にとっては、たまらない魅力にあふれた世界でもあるのだろう。この本からは、そのフィールドに携わる者の、真摯(しんし)な取り組みと喜びが伝わってくる。

 ただこの本では、読者に分かりやすく説明するために、所々に例えとして挿入されたものだが、そのアリたちの世界の現象を人間たちの社会に置き換えて説明していて、私には、それを著者が言うようには素直に比較対照する気にはならなかった。
 つまり、私たち人間は、他の生物たちと比べればはるかに高度な頭脳を持っていて、そして、それぞれに多様な個性ある個人が集まり作り上げ築いてきた、巨大な現代社会の中にいて、今日のグローバルな競争の中に生きる会社組織などと、そう簡単に比較できるものではないという思いがあるからだ。むしろ、比較や参考にするならば、職域が比較的単純に分けられる軍隊やスポーツ組織においてだろうが。
 というよりは、そんな人間社会との比較ではなく、その研究のままに、一つの進化理論を作り上げるべく、ミステリーとして、謎の解明にに向かうべく(たとえ解決に至らなくても)、ひたすらに書き進めてほしかったというのが私の思いである。とはいえ、知っているようでよく知らないアリ社会の一端を垣間見る思いがして、十分に楽しめた一冊ではあった。

 さらに、もう一冊の新書版『まいにち富士山』は、今でも毎日、富士山に登り続けている人が書いた富士山の本である。一般の人が書いた本だから、言葉はさらにわかりやすく、あっという間に読み終えてしまう。この、毎日富士山に登っている人の話は、前に新聞記事になり、確かテレビでも見たことがあって、詳しく知りたいと思っていたから、出版社の新聞広告を見てすぐに書店に行ったほどである。
 それなのに、読後の感想を言えば、残念ながら私が期待していたものとは別の内容になっていて、大半が富士登山案内に費やされていた。思うに、それは書いた彼の責任ではなく、企画意図した、出版社、編集者の責任である。なぜかといえば、私もかつて同じような仕事に携わっていたから、言えることなのだが。

 実に惜しいことだ。彼の富士登山経歴に、この本の内容が追いついていないのだ。どの本にも書いてあるような余分な富士山案内よりは、もっと、彼の毎日の富士登山記録を載せてほしかった。
 64歳での富士山初登頂以来、厳冬期を除いて5月から11月まで毎日登り(特に11月などはすでに氷化した冬富士になっていて、上級者たちの雪上訓練が行われるほどの季節なのだ)、今までに800回を超えるというものすごい記録なのだ。これほどの偉大な実績があり、その記録をそのまま書き綴っただけでも、相当に興味深い読み物になっただろうにと思うのに。

 それは、ただ単純な記録の羅列では面白くないだろうと考えた、おそらくは山登りの楽しみをよくは知らないだろう、雑誌週刊誌感覚の編集者の意図が見えて、残念である。
 思うに、記録というものは、それだけでも興味ある読み物になり、立派な文学になりうるものなのだ。たとえば、あの軽妙な文章で知られる内田百(うちだひゃっけん)が書いた『ノラや』や、歴史伝記文学に新たな地平を切り開いた森鴎外(もりおうがい)の『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』以下の作品群などのように、美辞麗句(びじれいく)ではない、単純な記録の羅列だけでも、それがいつしか深い感動を呼び起こすのだ。

 しかし、この本で意図されていたのは、恐らくは編集者からの指示でもあったのだろうが、総花的な富士山登山案内の本だったのだ。そんな本なら、グラビア写真付きの富士山案内の雑誌が何冊も出ている。これから富士登山を目指す人たちのためのガイド・ブックならば、その手の形の単行本化すべきだったのに、この内容では、新書本の読者層とは少し違うところにあるように思われるのだ。
 望むらくは、著者が、この本によって得た印税で、今度は自分の思うままに、今までの富士登山の記録をもとに、新たな自費出版の一冊を書いてほしいと願うばかりだ。その記録とその度ごとの感想の一文を、私は読んでみたいと思う。
 とはいっても、この本が面白くなかったというわけではない。初めての富士登山を目指す人にとっては、良き案内書になるだろうし、経験に裏打ちされた彼の登山スタイルには、学ぶべきものも多くある。そして、最後の章の危険な体験などは、実に興味深く参考になるものだった。


 さて、最後になったが、巻頭にあげた写真は、ロシアの作曲家、ストラヴィンスキー(1882~1971)のオペラ『夜鳴きうぐいす』からの一シーンである。
 先日、NHK・BSで放送された、”エクサン・プロバンス音楽祭2010”で公演されたものであり、その2時間足らずの演目の中で、前半は、同じストラヴィンスキーの小品、歌曲合唱曲などを上演し、それぞれに意匠を凝らしていて、特に背後の影絵芸術などは見事なものだった。
 そして、後半のわずか50分足らずが、このオペラ『夜鳴きうぐいす』だった。ストラヴィンスキーにそんなオペラがあることも知らずに、初めて見るものでもあったのだが、時代に沿った風変わりな演出とでもいうべきか、オペラの演出にはなにかとケチをつけたがる私なのに、実に楽しく見ることができた。

 物語は、アンデルセンの童話、『ナイチンゲール』をもとにロシア語で台本が書かれている。
 ある時代の中国で、皇帝に命じられた宮廷の侍従たちは“夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)”をよく知るという女料理人とともに森に出かけて行き、”夜鳴きうぐいす”に出会って宮廷に来てくれるようにと頼む。そこでやってきた”夜鳴きうぐいす”の歌声に、皇帝はすっかり魅せられてしまうが、ある時、はるばる日本から訪れた使節団が携えてきた“機械仕掛けのうぐいす”の声を聞いて夢中になり、それを知った“夜鳴きうぐいす”は森に帰って行ってしまう。しかし皇帝はその後、死神に取りつかれる病の床に就き、もう一度あの“夜鳴きうぐいす”の声が聞きたいと願っていた。そこへ森から、皇帝の枕もとへ“夜鳴きうぐいす”が戻ってきて、死んだのかと思われていた皇帝の病も癒(い)えて、めでたし、めでたしとなる。

 何といってもこのオペラを見て驚いたのは、その舞台だ。
 前面にプールほどの広さに水がはられ、そこに船に乗った漁師が現れる。船の上には、漁師姿の操(あやつ)り人形が乗っており、その後ろで同じような漁師の衣装を着た歌手が、歌いながらその人形を巧みに操るのだ。その後に登場する、船に乗った二人の宮廷侍従と女料理人も同じように、人形を操りながら、歌も歌うのだ。皇帝が登場するが、同じように皇帝の衣装を着た歌手が人形を操っている。ただ”夜鳴きうぐいす”役のソプラノの歌手だけは、鳥の羽色のベスト姿であり、鳥は長いさおで操られて飛び回るという仕組みだ。後ろには、同じ宮廷の女官たちなどが、同じ女官の人形を手にして立ち並んでいる。

 何と豪華な衣装の舞台だろう。歌手たちはすべて、京劇風に派手にメイクされている。日本から来た使者たちの一行は、いつものことながら誇張され、ありえない歌舞伎文楽風ないでたちだ。写真は、その日本の使節団の一行と、その後ろに皇帝と”夜鳴きうぐいす”、そして宮廷女官にふんした合唱団、そしてリヨン国立歌劇場管弦楽団を指揮する日本の大野和士の姿が見える。普通のオペラ舞台とは全く逆の位置だ。
 中国を舞台にしたオペラといえば、すぐにプッチーニのあの『トゥーランドット』を思い浮かべる(’10.12.1の項参照)が、今まで見た中ではそれ以上に目がくらみそうなほどの、極彩色の豪華な衣装とメーキャップだった。
 そんな派手な衣装と操り人形さらにプールまでもと、逆転配置の舞台を仕立て上げたカナダ人の演出家ルバージュには、ただ意表をついただけのハッタリ屋だとの声もかかりそうだが、私は、すべて現代風にアレンジされたヨーロッパで今流行りの舞台よりは、きちんと時代背景だけは押さえてあるこの舞台のほうが好ましく思えた。それにしても、なかなかに見どころのあるオペラを見せてもらったという思いである。

 この時の番組の後半は、あのソプラノのディアナ・ダムラウが男性ハーピストのメストレの伴奏によって、フランス語のドビュッシーとフォーレ、ドイツ語のシューマンとR・シュトラウスの歌曲を歌っていた。去年の番組の再放送だとのことだが、知らずに見逃していただけに、私にはありがたかった。
 ダムラウといえば、3年前にそのアリア集のCDを買った(’09.1.10の項参照)ほどで、私の好きなソプラノの一人だが、彼女と言えばどうしても、あのモーツァルトの『魔笛』のコロラトゥーラ・ソプラノ、夜の女王役が思い出されるが、今や彼女は、喉の負担が大きいオペラからいくらかは楽になる、小ホールでの歌曲へと(この時のバーデン・バーデンの劇場は半分に仕切られていた)、そのレパートリーを変えようとしているのだろうか。今までの他のソプラノ歌手たちがそうであったように。
 ただ彼女は、歌曲を歌う円熟の年齢と言うにはまだ若い気もするが。もっとも、今はここで、ダムラウのフランスやドイツの歌曲集が聞けたことに感謝すべきだろう。


 秋晴れのさわやかな日々が続いた後、また少し蒸し暑い日が戻ってきた。そんな中で、朝の涼しいうちにと数日かかって、庭の草取り、草刈り作業などをすませてしまった。家のことはこれでよしとして、あとはミャオのことだが。
 今回は、まだミャオのおもらし騒動があったものの、体は完全に回復していて、今では、時には飛び跳ねるほどに元気なったし、とても16歳の高齢ネコには見えないほどだ。最大の心配だったミャオの宿敵である、あのノラネコたちの姿も、捕獲器でのお仕置きが利いたためか(7月21日の項)、今では全く見かけなくなった。
 となると、後はいつものミャオへのエサやりをおじさんにお願いして、私は、私の家のある北海道へと戻らなければならない。
 再び戻る日まで、しばしの間だ、ミャオどうか元気でいてくれ。」


参照文献:『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐 メディアファクトリー新書)、『まいにち富士山』(佐々木茂良 新潮新書)、『アンデルセン童話集(二)』大畑末吉訳 岩波文庫)、ウィキペディア他のウェブ) 

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