消防士 兼 旅人の日記

消防署での出来事、ダラダラした日常生活を綴ります。

プール熱

2013-06-29 20:02:47 | Weblog
昨日の当番は8件、夜中も1つ。

それほど眠れなくて辛かった!と思うような勤務ではありませんでしたが、家に帰ってからはいつものようにお昼寝

寝るつもりはあまりなかったんですが、気が付いたら寝てました(笑)


さて本日のお話、タイトル通りの『プール熱』

主な症状としては結膜炎を起こし、目やにが出る。痛いしかゆい。喉も痛み、高熱が3~5日続く。

プール熱と言う名は通称で、正式には咽頭結膜熱(いんとうけつまくねつ)と言います。アデノウイルスと言うウイルスが悪さをします。

夏風邪の一種で、プールに入る機会の多い夏に多いことからプール熱と呼ばれる所以…とも。

そんなプール熱に、ムサシ家全員が感染し、一家揃ってダウンしました


一番最初は長男。保育園からいきなり高熱が出たとのことで急遽お迎え、そのまま小児科へ。

診察してもらって薬をもらってしばらく様子見ましたが、一向に熱が下がらず。再び小児科へ行って薬を替えてもらいましたが、効果出ず。

血液検査した結果、大きい病院(近隣の二次病院)へ行っての再検査。数値的に何かしらの感染を起こしてるのは間違いないんだけど、原因菌が分からず。


二次病院行った日は熱出してから5日目ぐらいでしたので、翌日からは熱も収まり出して、食欲もちょっとずつ出てきました。

だんだん治ってきて安心しだしたら今度は次男。長男と同じ症状+結膜炎。それが私に移り、嫁に移り…。

子どもたちは熱下がって、だんだん本調子に。でも親2人が高熱&結膜炎で動けずと言う状態が何日か続きました。

仕事も休まざるを得ない状況でしたし…


ムサシ家全員にプール熱の主症状が出る始末。今思えば、最初長男が熱出した時もアデノウイルスが原因だったのかもね。

長男だけは結膜炎の症状を起こさなかったので気づかなかったのですが。

アデノウイルスに対しての特効薬は無いようで、対症療法でウイルスが抜けるのを待つのみなのだそうです。

熱が出れば解熱剤、喉が痛ければ喉の薬…など。薬が効いている間は比較的身体も楽だったのですが、切れちゃうと大変


おかげ様で、今は全員無事に回復し、日常生活に戻りつつあります。

もう勘弁して下さい…って言うのが本音ですけど(苦笑)


そんなわけでお返事&更新が遅くなった(今回の)言い訳は、こんな理由でした。

追って頂いたコメントにお返事をさせて頂きます


明日は休みです

指令室見学

2013-06-21 22:55:32 | 消防・救急
前回の当番は8件、夜中もありましたが早い時間帯。真夜中の出場は無く、仮眠はある程度まとまって取ることができました。

私達の当番の時は全く寝れなかった…と言う時がほとんど無く。差はあるけど、比較的まとまった時間寝れることがほとんどなのですが、かたや反対番はそれはもう悲惨な状況で…

交代前に、『もう1件ぐらいありそうじゃないですか?』なんて冗談言えるような感じじゃないぐらい、グッタリしています


先日の当番の合間に、指令室の見学に行ってきました。

指令業務は昔から興味があるところ。毎年の異動希望の意向調査にも書いているほどなのですが、縁がなくなかなかね。

そこに行くにはもう少し経験を積まねばいけないのかな?と言うような感じもしています。


今の署は指令室と同じ建物にありますので、出場や事務仕事の合間に指令室へ行くことは可能です。

異動したばかりの頃はそんな考えも思いつかなかったんですが、ふと隊長がちょっと指令室に…なんて言ってから、その手があったか!と思い。

一度隊長と一緒にくっついて行ったんですが、向かう途中で指令がかかってあえなく断念。そこからなかなか行くチャンスがありませんでしたが、先日念願叶ってついに行ってきました。


まだ私が消防に入って2年目か3年目ぐらいの時に、1度だけ指令室に入ったことがありました。でも、その時に119番通報が入電することは無く、その場所を見ただけ。

今の署に来て、1度指令室あての荷物を届けに行ったんですが、その時も入電せず。119番通報を待ち、対応の仕方なんかを見たかったんですが、それも空振り。

そしてついに先日、出場も事務仕事も全て片付き手持ち無沙汰になったところで、行ってきました。


指令室には反対番でしたが過去にお世話になった先輩がおりましたので、ご丁寧に色々教えてもらいました。

発信地表示システムにより、固定電話からの通報であれば場所は特定できるけど、携帯電話からだと難しい場合がある。これは、私も知っていた知識ではあるが改めて再確認できた。

携帯電話の場合はGPSが聞けば多少の誤差はあるけど、ズレても半径50mぐらい。ただ、GPSが効かなきゃどうしようもないらしく、その時は住所やら目標物とかを聞きだして場所を特定しなければならない。

今は携帯からの通報も半数ほどになり、地理もよくわからない人からの通報も多いので、場所の特定に苦労していると言う話を伺いました。


そのうち119番通報も入り、実際にインカムをお借りしてやりとりを聞かせてもらいました。最初に聞いたのは転院搬送の依頼。もとから緊急性のなさそうなやつでしたので、向こうの話し方もどこか落ちついている。固定電話からの通報でしたので、場所はすぐに特定。改めて救急車の向かう場所を聞くも発信地からで間違いなし。

必要な情報を聴取して、電話を切る前に既に指令を出していました。出場救急隊から出場報告を受け、聴取した内容を救急隊に伝えて。

なるほど、こんな感じでやるのか、と。


そこから程なくして再び119番通報。再びインカムをお借りして私も聴取。今度は電話口で悲鳴と嗚咽とが混じったような通報。

指令室職員の落ちついて!の一言に続き、必要な状況を聴取する。これも固定電話からの通報でしたので、場所はすぐに特定。向かう場所も間違いはない。

しかし、選定されたのは我が救急隊。そのために通報内容を聴取することもなく、色々教えてもらったお礼を言う間もなくすぐに車庫へ向かいました。

車庫へ向かう途中、出場準備を整えている途中、ずっと最初の嗚咽が気になっていた。改めて出場報告をして指令室で聞けなかった内容を聴取すると、そう言うことだったのか…と。

結果的に、現場へは向かいましたが搬送することはできない状態だった事案でした。


またそこから出場も重なり、報告書を作ったりでその当直中に指令室に行くことはありませんでしたが、また時間が取れたなら見学させて頂ければなと思います。

救急の仕事も好きですが、消防職員としての幅を広げるために、いつか指令室にも行けたら良いなと思ってね。


明日は仕事です

明日があること

2013-06-12 23:39:29 | Weblog
久しぶりの更新となりました。

ちょっとこの1週間はバタバタしておりまして…。パソコンすら開きませんでしたので、更新することはおろか、コメントの返信すら滞ってしまいました。すいません。



先週、祖父が亡くなりました。

非番で研修に行くはずだった日、次男が熱を出して保育園を休ませると嫁から連絡が。研修をキャンセルして家に帰って次男を小児科へ。

小児科の受診待ちの間に母からメールが来まして、祖父が危篤だと。さすがに熱を出した次男を連れていくわけにも行かず、かと言って嫁は仕事で戻ってこれないため夕方までは身動きがとれず。

小児科の受診を終わらせて次男を昼寝させて。遠方(北九州)のためすぐに駆けつけることも難しい。

嫁が帰ってきて急遽身支度をして、北九州まで行ってきました。


いつかのブログにも書いたと思いますが、色々な事情があって私が祖父の存在を知ったのは就職してからの話。

中学生の頃に父方の祖父を亡くし、もう私に『おじいちゃん』はいないものだと思っていましたが、実は存在していた。でも、病気を患って先が長くないと知って会いに行ったのが8年ぐらい前の話。

結婚する前も事あるごとに九州へ顔を見せに行ってきた。結婚して子どもが産まれる度にも顔を見せに行ってきた。その度にだんだん身体も弱ってきているのかなとは思っていたけど、食欲はあったし元気もあったから少しは安心した部分もありました。

でも、とうとう最期の日がやってきた。日付が変わるちょっと前に北九州に到着し、そのまま1泊。翌朝私が駆けつけた時、病院のベッドで酸素投与、モルヒネ、点滴、モニターのコードがいくつか繋がれている状態。もう呼びかけに反応することはありませんでした。

酸素バルブは既に全開、でも数値は良くないし、血圧も低い。脈も速いし呼吸も徐呼吸。もうこのまま息を引き取るのを待つと言う状況でした。

病院にいる間時々は呼びかけてみたけどやっぱり反応はせず。でも、聴覚だけは死亡後も少し残ると言う話を聞いたことがあるから、たとえ目を開けなくともずっと話しかけてはいました。


どうしても都合がつかず、私はその日のうちに帰らなくてはならなかった。私がいる間は容体がそれ以上悪くなることはなく、持ちこたえているように感じた。

飛行機の時間が近づいて、帰り際に『息子たちの写真、置いて行くから目を開けて見てね、またね』って言って病室を後にしました。

さよならだとやっぱり悲しくなるから。


帰り道、やっぱり色々な思いが込み上げてきました。

初めて九州に足を踏み入れたのもおじいちゃんがいたから。私の実家は隣町ですし、祖母も実家から歩いて行ける範囲にあるため、田舎と言うものが私にはなかった。

8年と少しの短い付き合いだったけれども、九州に行く時は田舎に帰る感覚でした。会う度にだんだん身体は弱っているのかなって複雑な気持ちもあったけれども、楽しみもあった。

運転こそ私がしたけれども、色々なところに連れて行ってもらった。色んな話もしてもらった。もし、こっち(地元)におじいちゃんがいれば、九州は単なる観光地だったかもしれなかったけど、おかげで思い出の地になった。でも、それももうおしまい。


空港に着いて母に連絡を取った時はまだ頑張っていた。

そこから電車に乗って自宅に戻って、そこから30分もしないうちに息を引き取ったって連絡を受けました。最期まで眠るように、穏やかな顔で逝ったって。


九州に行って帰る度に、どんなに遅くなっても良いから着いたら必ず電話しろ。それまでは起きてるからって毎回言ってました。

今回もそうだったのかな。私が無事に自宅に戻るのを待っててくれたのかもね。


お墓が京都にあるため、納骨はそこにする予定。九州に行くきっかけも何もなくなってしまったけど、頃合いを見てまた訪れようと思います。

おじいちゃんに案内してもらったところを今度は私が子どもたちに。2歳の次男には記憶にないかもしれないけど、4歳の長男の記憶にはひいおじいちゃんの存在はしっかりと刻まれていますしね。


ある程度覚悟はしていたけど、いざ亡くなるとやっぱり悲しいですね。少し時間が経ちましたが、まだ虚無感は少し残っています。でも、泣くだけ泣いたら後は笑う。

子どもにもそう言ったんだから、私も実践しないとね。残った人間はまた前に進んで行かなきゃ。

私の仕事柄常々思っていたことですが、明日があることってとてもありがたいことなんだと。当たり前に思っちゃいけないんだと。

おじいちゃんの死から、改めてそう思いました。



そんなわけで、せっかく頂いたコメントのお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。

疲れもやっぱり出てきたのか、咳も出るし体調もいまいち。タイミングが良かったのか次当直はお休みを取っていましたので、ゆっくり休むことに専念したいと思います。

頂いたコメントのお返事も、明日改めてさせて頂きますのでもう少々お待ちください。


梅雨入りして雨も多いし気温差もあったりします。

風邪などひかぬ様、お身体を大事になさってくださいね。