トーキング・マイノリティ

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学術研究という名のスパイ活動

2006-12-15 21:16:40 | 読書/ノンフィクション
 英国スパイというと、映画007のような腕っ節も強く女にモテまくる人物を想像される方もいるかもしれない。だが英国に限らないが、情報部員業の大半は書類情報分析という地味な仕事である。これは現地に詳しい学者も協力することもあり、ある有名な英国スパイもかつてはそうだった。ただし、彼の名が知れたのは、その後の破壊工作によってだ。

 そのスパイの前身は青年考古学者であり、オックスフォード大を首席で卒業した秀才でもあった。高校時代から中世史、殊に十字軍に関心を持った彼は当然大学でも歴史を選択する。十字軍への関心から彼は大学時代に2ヶ月ほど中東を旅しているが、これは1909年の夏のことだ。しかも危険極まる一人旅で。中東への強い関心はのちの彼の人生を決定付ける。

 彼の恩師にオックスフォードのアシュモーリアン博物館長である、デビット・ジョージ・ホガースという人物がいた。著名な考古学者であり、文筆家、東洋学の権威でもあった。ホガースもオックスフォード大首席卒業者だが、青年の才能を見抜き愛弟子とする。青年もまた恩師をその死去まで敬愛し続けた。
 ホガースは大英博物館の考古学発掘隊の団長として、古代ヒッタイトの遺跡のあるカルケミシュ(現トルコ)に赴くが、この時大学を卒業したばかりの弟子も隊に加える。一行がカルケミシュに着いたのは1911年3月末だった。

 カルケミシュはユーフラテス河上流西岸にあり、現代はシリアとの国境の近くに位置する。この遺跡が英国に注目されたのは、1910年にベルリン=バクダッド鉄道がユーフラテス河まで通じたからだ。ドイツ人によりこの河に架橋工事が進められている時、ホガース一行が到着する。英国側の発掘隊員はトルコ政府の仕事に従事しているドイツ人を監視していたのだ。単なる遺跡発掘ばかりではなかった。ホガースの弟子の青年は1911年5月にカルケミシュから母に宛て、手紙を出しているが、実に意味深な箇所がある。

私のカメラが良い品であることが証明されつつあります。望遠カメラも数回、少し後で使いました。それは2マイルの距離なら肉眼よりずっとよく機能します
 20世紀初めの望遠カメラは大変値の張る貴重品である。金持ちでもないのに、この青年はカメラを使い、遺跡現場から2マイルの範囲にわたり、何を撮影していたのか?カメラが庶民の道楽となったのは、ずっと後なのだ。

 ホガースは1912年英国に戻り、レナード・ウーリイが2代目団長になっても青年はカルケミシュに留まる。ウーリイはシュメールウル遺跡(現イラク)を発掘した考古学者であり、のちにウーリイ卿となる。
 1913年の冬、発掘のオフシーズンの頃、アレッポ(現シリア)にいたウーリイと青年の元にロンドンから電報が届いた。シナイ地方を廻る科学調査団に入り、その地を踏査してほしいとの要請だった。ウーリイと青年はカルケミシュを引き上げ、ベールシェバ(現イスラエル)で英国陸軍将校と合流する。表面的には聖書にゆかりのある地の科学的調査となっており、オスマン・トルコ政府も許可を出したが、この調査団の黒幕は当時エジプト駐在一武官だったキッチナー、後の元帥である。この調査団の真の目的はシナイ砂漠での軍事情報活動だった。

 調査団は聖書の舞台の地を隈なく踏査し、ついにアカバ港(現ヨルダン)に達している。怪しんだトルコ官憲の目を欺いて調査もした。この調査旅行は1914年2月に目的を果たす。その3年後、青年考古学者はアラブ反乱軍と共に再びアカバにやって来る。既にお気付きになられた方もいるだろうが、この青年の名はトマス・エドワード・ロレンス、「アラビアのロレンス」となる前の20代の頃だ。

 日本で学者といえば温厚で軍事に不向きな人間の印象が強い。だが大英帝国全盛時代の英国では、学者たちは積極的に軍事・政治情報に関ることは珍しくもなかった。ロレンスの恩師であるホガースは第一次大戦中、アラブ情報局の指揮官となり、英国海軍少佐の位階まで持っていたほどだ。ただ、戦争前まではホガースやロレンスが、正式に政府の情報機関から給与を受けて養われていた訳ではない。ホガースと英国官庁との交際関係はあくまで私的なものだった。

 21世紀になっても学術研究という名目の情報活動が行われているのは明らかだ。共産圏では文化交流というかたちで、情報機関の人間を潜入させる手段に長けている。学術研究や文化交流の衣をまとったスパイ活動は今後も続く。
■参考:「アラビアのロレンスの秘密」(ハヤカワNF文庫、P.ナイトリイ&C.シンプスン著)

◆関連記事:「アラブが見たアラビアのロレンス」「アラブ人操縦法

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