トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

ガートルード・ベル-イラク建国に携わった女 その②

2008-07-08 21:24:37 | 読書/ノンフィクション
その①の続き
  ベルにとって1905年のシリアの旅は分岐点のようなものであり、これ以降旅とアラブと中東に関る人生を送ることになる。シリア、イラク、アラビア奥地の荒野を踏査する決意を固め、大旅行を行うが、第一次大戦の勃発により1914年のアラビア中部ハイールへの旅が最後となる。1911年5月、ユーフラテス中流のカルケミッシュ発掘現場でベルはT.E.ロレンスと初めて出会っている。後にロレンスには芳しい評価はしなかった彼女も、この時は手紙でこう書いた。「私の来るのを心待ちにしていたロレンスという若い人に会いました。彼もひとかどの旅行家になることでしょう」。

 ロレンスが彼女に抱いた印象は不明だが、その前にベルにとって重大な出会いがあった。彼女と同年の外交官、軍人、旅行家でもあったチャールズ・ダウティ=ワトリー大尉とのそれである。ワトリーとの出会いもトルコの発掘現場であり、彼は新婚間もなかった。やがて2人は恋愛に陥るも、ワトリーは妻と別れる気はなく所謂不倫の関係となる。第一次大戦のガリポリの戦い(1915年)でのワトリーの戦死まで、彼らの関係は続いた。ベルの恋は又しても実らなかったばかりか、英国に戻る気も失わせるようになる。

 第一次大戦勃発時、ベルは一旦帰国、赤十字に勤務するも、戦局は中東への専門知識と実績を持つ彼女を無視することはなかった。折りしもカイロを本部とするアラブ・ビューロー(局)が設けられ、彼女は召集を受ける。アラブ・ビューローとは敵国トルコに対するアラブの離反工作と活用を目的とした「アラブ専門家」集団であり、メンバーは外務省と軍情報当局に助言や政策を提案していた。ロレンスも当然アラブ・ビューローの一員であり、この局の中心人物はロレンスの恩師かつ東洋学の重鎮だったホガース。ベルは'16年にバスラ(現イラク)駐在員に指名され、有力部族の中立化工作など主にアラビア内奥の情報活動に従事する。戦前からの中東旅行を通じ、彼女は少なからぬ部族長と知己になっており、その体験が最大限発揮される。

 英国はバグダード攻略後、メソポタミアという呼称を「イラク」に換えていた。これ以降現代に至るまで、この地域は一般に「イラク」の名称で呼ばれることになる。
 アラブの専門知識と戦中の実績が評価されたベルは戦後の1919年、ついにイラク民生長官の東方書記に就任した。ただ半正式の身分であり、俸給も僅かなものだったが、本格的に政治の分野-英国のアラブ政策に深く関ることになる。アラブ・ビューロー時代も紅一点だった彼女は、戦後の中東政策の場においても同じだった。

 英国で女性参政権が確立したのは1928年であり、他の欧米諸国と比較しても遅い方である。英国の政界は女性排除が常態的な男優位社会であり、そのような中でベルのような女は極めて例外だった。知己であり彼女が敬愛していた外交官クローマー卿は、バルフォア(バルフォア宣言作成者の政治家)宛ての手紙にベルをこう記している。
非常に賢い女性で、アラビアとメソポタミアのアラブに関する一切について疑う余地もない権威者です。ただこのことでもって、近東政策のより広範な問題でも彼女の判断が全面的に信頼するに足りると申すつもりはありません。

 これが男の場合、たとえロレンスのような華々しい軍功がなくとも、ほぼ全面的に信頼を得ていただろう。ベル自身手紙で、1921年に執筆したイラク民生白書に対するメディアの反応を書いており、当時の英国で女性の置かれた状況が垣間見える。
新聞の論調は、犬が後足で立ち上がれる―つまり女に白書が書けるとは驚きだ、ということに尽きるようです。私としてはそんな驚嘆の元のことなど忘れて、白書自体に目を向けるよう、彼らに望みます…

 新聞ばかりか、イラクでも高官の中にはベルに疑惑と憤慨を抱く向きがあり、直属の上司である民生長官代行とは個人的、政策面でも衝突する。女性蔑視傾向の強い年かさの高官のみならず、若手職員にも揶揄する者もいた。ベルに限らず、当時は英国で専門的な職業や公職に就こうとする女性の多くがあからさまな偏見を経験しており、男女平等という概念はなかったのだ。21世紀の現代、第三世界の女性の地位にやかましく言い立てる英国も、僅か80年前はこの体たらくだった。
その③に続く

◆関連記事:「学術研究という名のスパイ活動

よろしかったら、クリックお願いします
   にほんブログ村 歴史ブログへ


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
女性参政権 (motton)
2008-07-09 09:43:48
この人のことは知りませんでした。面白そうですね。③ではイギリスの三枚舌の登場でしょうか。(わくわく)

女性参政権は、WWIで男だけでは戦争が出来なくなったことが大きいと思っています。また革命や独立で女性の力が必要だったところは早く、逆に両大戦で戦場にならなかったスイスは非常に遅いです。
WWI で戦場にならなかったイギリスでは女性の地位向上は遅かったのでしょか。(主戦場になったフランスも遅いので簡単には言えないかも知れませんが。)

男の腕力だけが自衛の手段だった時代では男尊女卑が当然の帰結ですし、王や武士が武力(自衛権)を独占するれば、彼らが主権者です。
それが崩れて初めて、合理的な帰結としての男女平等や国民主権なんですが、そういう風には習いませんでしたね。(左右どちらの陣営も、イデオロギー抜きで合理的に導かれると嫌なんでしょうね。)
返信する
Unknown (けんしろう)
2008-07-09 20:47:51
お世話になっております。
以前コメントさせていただきました、けんしろうと申します。
私のコメントに対する返答ありがとうございました。
あらためてブログを拝見いたしました。
一言では申せませんが、とても深く研究されていることにとても感心いたしました。
そこで私のブログにリンクを設定させていただきました。
リンクを設定させていただきましたページのURLは
http://memoria.meblog.biz/article/1170016.html
です。
ご迷惑であればご連絡ください。
そして、もしご迷惑でなければ私のブログと相互リンクしていただけると、これほどの幸せはございません。
ブログ名は
記憶術 絶技!! 使えない記憶術を使える記憶術へ!
です。
なにとぞよろしくお願いいたします。
返信する
コメント、ありがとうございます (mugi)
2008-07-09 21:52:41
>mottonさん

本当にこの人物は欧米でも半ば忘れ去られた存在のようですが、おそらくロレンスと違い、戦場で戦えなかったことが大きいと思います。実はロレンスの他にもアラブ軍と共に戦った英国将校も結構いたのですが、彼らも忘れられました。彼らはロレンスと違い、マスコミに吹聴しなかったから。

英仏両国の女性の政治参加を比べると、選挙権こそフランスは遅かったにせよ、王朝時代から女性が政治に口ばしを入れていますね。王の愛妾をれっきとして認めたフランスに対して、英国はどうも女性の影が薄いのは対照的です。フランスの王権が強かったからこそ、やれたのかもしれません。

男女平等や国民主権というのは、近代市民革命を経て人権意識が向上した…と教科書ではなっていますが、戦争の変化もあるという見方は、驚かされました。何故中東諸国に男尊女卑が根強いのか、これで分りました。未だに部族闘争がある砂漠地帯では、自衛は男の腕力だけが頼みです。


>けんしろうさん

あなたもブロガーでしたか。
「記憶術 絶技!! 使えない記憶術を使える記憶術へ!」とは、驚きました。
記憶術もまた色々あるのですね。学生時代に知っていれば…もう遅すぎます(笑)。
返信する