その①、その②の続き
男優位社会での偏見を体験しているにも係らず、面白いことにベルは当時の女性への束縛に全く関心を向けていない。それどころか、彼女は女性参政権に反対さえしたほどだった!第一次大戦前、活発化する一方の婦人参政権獲得運動に対抗し、婦人参政権反対連盟が結成されると、彼女は祖国で過ごした何回かの夏をその遊説に当てている。この連盟は有産夫人が中心となり設立されたものだが、ベルが敬愛するクローマー卿やカーゾン卿(インド総督1899-1905、外相1919-24)という、植民地総督中の大立者が後援していたのだ。連盟メンバーは、英国の政治的権力構造に女性が直接影響を及ぼすのは適当ではない、と主張する。
男女問わず、愚物を容赦しなかったベルだが、個人的に信頼する同性の友人や親類はあったにせよ、常に知的刺激を求めたのは男性に対してだった。アラブ旅行中も女部屋のテントに入ることが出来ながらも、中東の女に関する描写はいたって少ない。もっぱら男たちの中に賓客として談話を楽しんでいた。人間は概ね同性には厳しいものだが、彼女が女、特に同僚の夫人たちを語る時の言葉はかなり刺すように鋭く、軽蔑を隠そうともしなかった。夫の地位で立場が決まり、ゴシップとファッションしか関心のない外交官夫人と、相対的に自由と成功を得たベルのような女ならそりが合わなかったのも当然だろう。後に英国にも女首相が誕生することは、彼女は想像もつかなかったに違いない。この女首相も女権運動家からの評判は極めて悪かった。
ベルは英国高等弁務官の秘書役、顧問格として現地側との調整を一手に引き受け、また月2回、既に開設されていた定期航空便のメール日にあわせ、施政全般の報告書(閣僚会議、世論動向、地方情勢、周辺問題の4項目)を作成、イラク国内、本国、主要英植民地関係先に送付した。「メソポタミアの歴史を、2週間単位で書くようなもの」と彼女は表現していたが。
ベルも含め関係者の施政方針は揺れ動き、共和制国家を指向する向きとなることもあり、現地部族の中にはトルコ時代への復帰を望む声もあった。英国統治下の戦後イラクは部族暴動が頻発、鎮圧に駐留英軍は奔走する状態に置かれていた。
イラク情勢の推移と共に、チャーチルの殖民相就任(1921年)による政策の一元化が図られ、ムハンマドの子孫でアラブきっての名家ハーシム家のファイサル擁立を軸とする新王国創設にベルは尽力することになる。このファイサルはT.E.ロレンスが戦時中の“アラブの反乱”で発見した貴種と思われているが、ハーシム家に元々英国は目をつけていた。
ベルはイラク統治政策の基本理念で、シーア派を登用しないことに決める。これは彼女の知己でもあるバグダードのスンナ派有力部族長の意見を踏襲したものだが、イラク人口のほぼ5割を占めるシーア派は統治から排除された。既に戦時中、公務に就いた時以来、ベルのアラブ人評価は「穏健派」「過激派」とか「親英的」「反英的」と区別しており、上司クローマー卿同様独立を求める民族主義者は容認しなかった。彼らにはまたも上司と同じく、「デマゴーク」「アジテーター」と見なした。
政治形態こそ固まったが、領土確定となるとまたも難航する。イラクはアラブ人のシーア派、スンニ派以外にクルド人やキリスト教徒もいる複雑な民族構成の国だが、北部クルド人、中部スンニ派アラブ人、南部シーア派アラブ人の3地域で一国を構成するのがベルの持案だった。ロレンスはこの案に反対、「クルド人地域のみトルコへの緩衝地帯としてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出す。だがベルは彼の意見に耳も貸さず、結局ベルの案が通り、イラク領土が確定する。ベルはロレンスを「しょうもない、腕白小僧」と誹っており、20歳年長の自分の方がキャリアでは比較にならないと自負していたのは確かだろう。ロレンスも年長者でも物怖じせず発言する人物だったが、腕白小僧の危惧が後に現実になった。ロレンスもまた、ユダヤ人のパレスチナ入植はアラブ支援に得策だと思っていたので、現代に至るイラクとパレスチナ問題は彼ら“アラブ通”英国人により発生したのだった。
1921年8月、ファイサルは正式に即位する。かくしてベルは英国のマスコミから「無冠のイラク女王」のあだ名を奉られることになる。ロレンスも「キングメーカー」「無冠の帝王」と謳われることになるが、ロレンスは賛辞が強いのに対し、ベルの場合は悪意や揶揄もこめられていた。記者の男たちには女だてらに、といった思いがあったのだろう。
その④に続く
◆関連記事:「イラクと空爆の力」
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男優位社会での偏見を体験しているにも係らず、面白いことにベルは当時の女性への束縛に全く関心を向けていない。それどころか、彼女は女性参政権に反対さえしたほどだった!第一次大戦前、活発化する一方の婦人参政権獲得運動に対抗し、婦人参政権反対連盟が結成されると、彼女は祖国で過ごした何回かの夏をその遊説に当てている。この連盟は有産夫人が中心となり設立されたものだが、ベルが敬愛するクローマー卿やカーゾン卿(インド総督1899-1905、外相1919-24)という、植民地総督中の大立者が後援していたのだ。連盟メンバーは、英国の政治的権力構造に女性が直接影響を及ぼすのは適当ではない、と主張する。
男女問わず、愚物を容赦しなかったベルだが、個人的に信頼する同性の友人や親類はあったにせよ、常に知的刺激を求めたのは男性に対してだった。アラブ旅行中も女部屋のテントに入ることが出来ながらも、中東の女に関する描写はいたって少ない。もっぱら男たちの中に賓客として談話を楽しんでいた。人間は概ね同性には厳しいものだが、彼女が女、特に同僚の夫人たちを語る時の言葉はかなり刺すように鋭く、軽蔑を隠そうともしなかった。夫の地位で立場が決まり、ゴシップとファッションしか関心のない外交官夫人と、相対的に自由と成功を得たベルのような女ならそりが合わなかったのも当然だろう。後に英国にも女首相が誕生することは、彼女は想像もつかなかったに違いない。この女首相も女権運動家からの評判は極めて悪かった。
ベルは英国高等弁務官の秘書役、顧問格として現地側との調整を一手に引き受け、また月2回、既に開設されていた定期航空便のメール日にあわせ、施政全般の報告書(閣僚会議、世論動向、地方情勢、周辺問題の4項目)を作成、イラク国内、本国、主要英植民地関係先に送付した。「メソポタミアの歴史を、2週間単位で書くようなもの」と彼女は表現していたが。
ベルも含め関係者の施政方針は揺れ動き、共和制国家を指向する向きとなることもあり、現地部族の中にはトルコ時代への復帰を望む声もあった。英国統治下の戦後イラクは部族暴動が頻発、鎮圧に駐留英軍は奔走する状態に置かれていた。
イラク情勢の推移と共に、チャーチルの殖民相就任(1921年)による政策の一元化が図られ、ムハンマドの子孫でアラブきっての名家ハーシム家のファイサル擁立を軸とする新王国創設にベルは尽力することになる。このファイサルはT.E.ロレンスが戦時中の“アラブの反乱”で発見した貴種と思われているが、ハーシム家に元々英国は目をつけていた。
ベルはイラク統治政策の基本理念で、シーア派を登用しないことに決める。これは彼女の知己でもあるバグダードのスンナ派有力部族長の意見を踏襲したものだが、イラク人口のほぼ5割を占めるシーア派は統治から排除された。既に戦時中、公務に就いた時以来、ベルのアラブ人評価は「穏健派」「過激派」とか「親英的」「反英的」と区別しており、上司クローマー卿同様独立を求める民族主義者は容認しなかった。彼らにはまたも上司と同じく、「デマゴーク」「アジテーター」と見なした。
政治形態こそ固まったが、領土確定となるとまたも難航する。イラクはアラブ人のシーア派、スンニ派以外にクルド人やキリスト教徒もいる複雑な民族構成の国だが、北部クルド人、中部スンニ派アラブ人、南部シーア派アラブ人の3地域で一国を構成するのがベルの持案だった。ロレンスはこの案に反対、「クルド人地域のみトルコへの緩衝地帯としてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出す。だがベルは彼の意見に耳も貸さず、結局ベルの案が通り、イラク領土が確定する。ベルはロレンスを「しょうもない、腕白小僧」と誹っており、20歳年長の自分の方がキャリアでは比較にならないと自負していたのは確かだろう。ロレンスも年長者でも物怖じせず発言する人物だったが、腕白小僧の危惧が後に現実になった。ロレンスもまた、ユダヤ人のパレスチナ入植はアラブ支援に得策だと思っていたので、現代に至るイラクとパレスチナ問題は彼ら“アラブ通”英国人により発生したのだった。
1921年8月、ファイサルは正式に即位する。かくしてベルは英国のマスコミから「無冠のイラク女王」のあだ名を奉られることになる。ロレンスも「キングメーカー」「無冠の帝王」と謳われることになるが、ロレンスは賛辞が強いのに対し、ベルの場合は悪意や揶揄もこめられていた。記者の男たちには女だてらに、といった思いがあったのだろう。
その④に続く
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『ペルシアの情景』と『シリア横断紀行』
どちらがおすすめですか?
『ペルシアの情景』は味読ですが、『シリア横断紀行』は東洋文庫から出ているので、図書館にでも置いてあると思います。
シリア~の方が後に書かれているので、もしすかるとこちらがより洗練されているのかも。