トーキング・マイノリティ

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マタ・ハリの純真

2020-12-22 22:10:29 | 音楽、TV、観劇

 スパイ小説を読んだことのない方でも伝説の女スパイ、マタ・ハリの名は知っているかもしれない。現代でもマタ・ハリは美女スパイの代名詞となっており、彼女が登場する小説や映画も多い。先日のNHK BS『ザ・プロファイラー』ではマタ・ハリ特集があり、番組サイトではこう紹介されている。

1917年、第1次世界大戦下のフランスで、1人の女性が銃殺された。暗号名「H21」ドイツのスパイ、マタ・ハリだ。ベル・エポックと言われた華やかなパリで、高級娼婦から成り上がり一世を風靡した人気ダンサー。「東洋の踊り子」という触れ込みだったが、実はバツイチの貧しいオランダ人。各国の軍人・外交官・芸術家と交際し、その援助を受けて優雅な暮らしを続けた。だが戦争が始まると、ドイツからスパイとして雇われ、さらにフランスからも依頼を引き受ける。なぜ彼女はスパイになったのか?その裏には、彼女が人生で唯一愛した男がいた。
 死後100年で公開された資料も紹介し、伝説のスパイ マタ・ハリの真実をプロファイル!ゲスト:西村和彦(俳優)近藤サト(フリーアナウンサー)大宮エリー(脚本家 画家)

 番組でのタイトルは「美しきスパイ マタ・ハリの純真」。多くの男たちを虜にした彼女の知られざる晩年も紹介していた。トップ画像は番組サイトに使われているが、これだけで彼女の美貌が分かる。マタ・ハリで検索すると多くの画像がヒットするが、どれも美しい。特に東洋風の衣装をつけた姿は、同性でも美しさに息をのむほど。

 私が初めてマタ・ハリの名を知ったのは二十歳前後だった。父が買ってきた牧逸馬(まき いつま)短編集の古本『浴室の花嫁』で、彼女を描いた『戦雲を駆る女怪』が収められていたから。便利なことにこの作品は青空文庫にもなっている。執筆時が戦前にせよ、“女怪”の言葉が使われているタイトルだけでおどろおどろしい。“女怪”という言葉自体が今では死語になりつつあり、時代が感じられる。
『戦雲を駆る女怪』発表時よりも現代の方がマタ・ハリの実態が知られており、凄腕の女スパイどころか、スパイにはまるで向かない女だったことが判明している。ただ、美貌のダンサーだったため、牧逸馬のいう通り「大戦にともなう挿話中の白眉」となった。
 
 今回の特集は死後100年で公開された資料が紹介されているので期待したが、特に新情報はなかった。マタ・ハリの名は自選自称だったにせよ、フランスのギメ東洋美術館創設者エミール・ギメの助言があった。アカデミックなはずの場で東洋風の衣装を着けた半裸体の美女が踊るのは、現代人から見れば何とも違和感を覚えるが、当時はそれが当たり前だったらしい。
 ギメがマタ・ハリの崇拝者のひとりだったのは書くまでもないが、彼女は制服軍人がお気に入りだったという。実業家の金持ちよりも軍人に惹かれたのは興味深い。

 当時はオリエンタリズム全盛の時代であり、東洋の血を引く(マタ・ハリは実はそうではない)美女が躍るだけでウケたのだ。今なら生粋の東洋人女性ダンサーを見る機会も増え、エドワード・サイードのように東洋への偏見を批判する知識人も少なくない。
 それにしても、死後100年で公開された資料があったとは驚く。フランスでも情報公開は遅いようで、特に軍事機密が含まれる戦時情報となると公開は遅くなるようだ。普段、政府へ声高に情報公開を求める連中がいるが、フランスでも早々には公開しないことを知っているのやら。

 マタ・ハリは最晩年に二十歳も年下の若いロシア軍人と恋に落ちている。彼からはプロポーズを受けたというが、彼女がフランス官憲に逮捕された時、この若者は何もせず離れていった。こうなると逆玉狙いだった?と疑いたくなる。
 実際は大したスパイ活動をしていなかったにも関らず、フランスの軍事的失態を逸らすためのスケープゴートにされたのだ。銃殺刑で41歳の生涯を終える。



 上の画像はマタ・ハリ逮捕時の写真。“暁の眼”として踊っていた頃には比べようもないが、それでも往年の美貌と存在感が感じられる。
 ハニートラップで大勢の男たちを虜にしたと言われたマタ・ハリだが、男運が良くない人生でもあった。もし幼稚園の先生になろうとしていた15歳の時、学長が彼女に手を出さなければ?或いは19で結婚したオランダ人将校の夫と夫婦仲が良かったら?彼女は違う人生を歩んでいたかもしれない。

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