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福沢諭吉たちの見たエジプト その②

2008-12-21 20:10:55 | 読書/中東史
その①の続き
 福沢ら使節団はピラミッドを「三角山」「石塚」、スフィンクスは「石首」「巨大首塚」と呼んだそうだ。安易に横文字を使いたがる現代と違う、この表現もよい。平成の御世の日本人観光客同様、これらの遺跡には圧倒されただろう。カイロ城やムハンマド・アリー・モスクも見学、豪華な装飾に感動し、「精巧華美爛々燦々(さんさん)人ヲシテ眩目自失セシムルニ到ル」と記録している。しかし、あまりにも対照的なその周囲の人民や街区の風情に、凄まじい社会格差と不正がもたらす悲劇に間もなく知るようになる。団員の中にはエジプトの気風の悪さは政治の無策と深く関係しているのではないか、と推論した。そして、次の様に記す。
-依テ憶(おも)フニ如此(かくのごとき)王城及仏堂ノ壮麗ハ、即市民戸衰頽(すいたい)ノ由ル所カ。アア、人君タル者深ク此(ここ)ニ鑑(かんがみる)無カルベケンヤ。
-寧(むし)ろエジプト亜王驕奢(きょうしゃ)の国政公平ならず不政の故なるべし。可懼(おそるべき)は暗国澆政(ぎょうせい)季国ならん事見ゆ(澆季/ぎょうき:世の乱れた末の世)。

 幕末使節団はイスラム専制下の富と政治の不平等に、亡国のしるしを見たのだ。このような悲観的な観察は、欧州から帰国の折、再びアレクサンドリアに滞在した時にも繰り返される。
 アレクサンドリアの風俗を見れば、「上は奢(おご)り下は貧しき様子」だが、「上たる者は奢侈(しゃし)増長し、下たる者は苛政(かせい)にて苦しみを請け候」ためである。貧しい者たちの住居は、僅かに「土中に穴を掘り其(その)上へ凡(およそ)高さ六尺余に土を積みて雨露をしのぎ候」。対照的に上の者は、「石又は煉化石を以畳(もってたた)み三四階の高楼を築き家飾りは金銀錦繍(きんしゅう)の類をなし奢侈の甚だしきなり」と、泥の家と石造りの館の落差に驚愕する。

 また、団員はエジプト王に到っては召し使う「官女」は2百人以上にも上る、と後宮に関心を示すのは同性のやっかみもあろう。だが、国民が次第に困窮を極め、多数が没落するのに触れた箇所では語調は厳しい。下層の者を使うやり方はあたかも犬馬のようだ、貴人が馬車に乗って市街を往来する際、馬前に狼藉があれば相手を鞭で打つのも不憫だ…
 気候ゆえ、エジプトは降雨が少なく日照り続き、埃っぽく住居の手当てもよくない為か、「眼病を煩(わずら)い候者多く、故に盲目許多あり」の状態。そのためか、現代もエジプトの医術では特に眼科学の水準が高いそうだ。

 使節団の1人、市川渡はアレクサンドリアについて、こう結論付けている。昔は繁栄を極めた土地だったので、今でも人家が密集する地区がいくつかある。しかし、狭く汚い待ちの悪臭と不潔さはカイロと殆ど変わらない。遊び怠けるのが住民の気風であり、人柄もこぞって愚かなので、今ではトルコに隷属している。市内でも清潔なたたずまいで家具調度がある人家は、いずれも欧州人が移り住んでいる所である、と。
 繁華街で日本人使節団は欧州人経営のホテルやレストランで食事を取っていたそうだ。地元エジプト人の店が例外なく不潔で飲食できる店がないからだ、とも書いている。ならば、幕末でも日本国内の食事所の衛生水準の高さが伺える。

 慶応3(1967)年、徳川昭武もアレクサンドリアを訪問する。まだ十代半ばの公子は、神の前の平等を金科玉条のスローガンとするイスラム社会の正反対な惨状を鋭く描写している。
此地、上海香港以来の繁華なり。ロバ多し。田舎の貧民は土を高さ一間余りたたみ上げ、入り口一、二ヵ所付け、其内に居住す。遠方より是を見れば(アリ)也。土蜂(つちばち)の穴居するが如し…

 蟻や土蜂になぞらえる日本人少年の感性から、エジプトの下層民の暮らしぶりを的確に素描しているのだろう。福沢ら使節団の時と違い、支配者はイスマーイール・パシャとなっていたが、彼の時代には近代化の一方、多額の負債を抱えるに到る。在位中、彼はこう述べたと言う。「我が国はもはやアフリカではなく、欧州の一部である」。

 エジプトを支配しているにせよ、ムハンマド・アリー朝王族はエジプト人ではなく、アルバニア系(トルコ系の説もあり)の出の外来者である。宮廷で話されるのもアラビア語よりトルコ語が主だった。国家主権を容易に欧州列強に売り渡すのも、寄生王朝の面目躍如といったところか。
 財政破綻後の1879年、エジプト生まれのアラブ人将校による「アラービー革命」が起きたのも当然である。指導者アフマド・アラービー大佐と会った明治の日本人の1人に東海散士がいる。アラービーは特に忠告したいこととして語った言葉は実に意味深い。「外国人を国家の顧問にして、高位にあげてはならない」!
■参考:『世界の歴史20巻-近代イスラームの挑戦』山内昌之著、中央公論社

◆関連記事:「四海は兄弟なり
 「明治の日本人が見たイラン

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2 コメント

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結局昔と同じ? (スポンジ頭)
2008-12-22 20:29:47
こんばんは。

昨日の続きです。こんなこともありました。

1.モスク見物
私が行ったツアーもモスク見物があり、確かに天井まで豪華絢爛な装飾がありました。床は絨毯で靴を脱いで入る場所です。首が痛いからか、装飾を見るために床に仰向けになっている人がいました。私も真似しましたが(さすがにメッカの方向に足を向けないようにしつつ)、注意されなかったので世俗的な国家だと思いました。街でもチャドルなしで歩く女性もいました。

2.ベリーダンス
夜のディナーにベリーダンス見物がありました。後宮のダンスだそうですが、薄物の女性が腰を細かく振りながら踊るさまを使節一行が見たらどういう感想を示したか興味があります。インド映画のように腰つきが豊かで均整が取れた女性がダンサーでした。2回見ましたが、普通のエジプト人より色白だったので、アラブでも北の方から来た人かもしれません。
日本でダンス発表会を見物した際、日本人でベリーダンスを踊るチームを見ましたが、体型の点で日本人には向かないダンスかもしれません。

3.砂嵐
冬場に行ったのに、砂漠の遺跡で通常発生しないと言う砂嵐に遭遇しました。晴れ上がっていた空も一気に曇り、太陽を直視できる状態です。砂が異常に細かく、鼻にも口にも入り込み、顔面にべったりくっつきます。
ホテルでシャワーをして洗い落としたのですが、髪を拭いたら大量に出てきて洗い直し。こんな環境なら眼も悪くなろうと言うものです。貴重な体験でした。

4.治安関係
私自身は怖い目には会いませんでしたが、こんな光景を見にしました。
まだルクソール射殺事件の前だったのですが、カイロでは街の角々に自動小銃を持った兵士が数人ずつ立っていました。談笑しながら警備していたので緊迫感はないものの、日本は見たことのない光景です。
また、道で6、7人の兵士が一人を取り囲みながら頭を平手で叩きつつ連行して行く様子を目撃しました。現行犯でもなく、無抵抗の相手に暴力を振るうとは異常です。
他、ガイドさんから聞いた話では手続きを踏まず牢屋に入れるとしか思えない事例もあり、世俗的な国家と言っても日本より緊張した社会だと思いました。
まだ「イスラム原理主義」と言う言葉を聞いたことのない時代でしたが、何かの芽はあったのでしょう。
ルクソールの射殺事件の舞台となったハトシェプスト女王葬祭殿も行きました。全く死角のない場所で、あの場所で襲われたら逃げ切れません。死体の間で死人の振りをするしかないでしょう。事件後、自分に置き換えて考えたらぞっとしました。

エジプトは壮大な遺跡が多く、それこそスペクタクル映画の舞台にそのまま使えそうなものがあるので、安心して観光客が大勢行けるようになって欲しいものです。
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最高の観光地 (mugi)
2008-12-22 22:50:13
>こんばんは、スポンジ頭さん。

昨日に続き、面白い観光話をありがとうございました!
私はまだ未見ですが、東京の一等地にもモスクができましたね。映像を見ただけですごいと思いましたが、本場のモスクならさぞ壮麗でしょう。一方、民衆の家がウサギ小屋より劣るというのが何とも…

エジプト以外のアラブの国々を旅行した日本人も、あちらの砂は本当にきめが細かく、下着の中にも入り込んでくる…と旅行記で書いていたのを見たことがありますが、改めてそれを知らされました。冬でも砂嵐があるというのなら、夏場ならよくあるのでしょうか。このような環境で生き抜くベドウィンなど、やわな日本人は敵いません。

エジプト以外の世俗的なアラブ諸国を訪れた日本人も、現地の警察はとかく横柄、暴力を振るうことも少なくない上、「疑わしきは逮捕」状態と言ってましたね。まして、サウジのような脱世俗的な国だと、宗教警察が目を光らせています。日本や欧米のような人権主義はかなり薄いのでしょう。
ルクソール事件ですが、死んだフリする者への対策、とばかり犯人たちは死体を殊更傷付けたそうです。死体損壊はイスラムだと死者への最大級の侮辱となるのに、それを行う原理主義者の冷酷が表れています。過激派たちはベリーダンサーも襲撃することもあるとか。

お話を伺っただけで、やはり観光地としての素晴らしさが感じられました。「イスラム原理主義」に遭遇しなければ、中東の観光地として最高かもしれません。エジプトに限らず、中東は他にも見所が沢山あります。
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