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明治の日本人が見たイラン その①

2007-04-24 21:26:17 | 読書/中東史
 先日の記事「イラン人が見た明治の日本」でも書いたが、日露戦争前夜に来日したイラン人がいたように、その20年ほど前に逆にイランに行った日本人使節団がいる。彼らの記録に描かれたイランは現代の異教徒から見てもワンダーランドだが、同時にイランその他のアジア諸国と日本との違いも浮かび上がってくる。

 明治13(1880)年、明治政府は外務省御用掛、吉田正春を団長とする使節団をイランに派遣する。前年ガージャール朝のシャー(王)ナーセロッディーン(在位1849-96年)と会見した海軍卿榎本武揚の献策によるものだった。参謀本部からは古川宣譽(のぶよし)工兵大尉、大蔵省商務局からは大倉組商会副頭取・横山孫一郎に出張命令が出され、他に4人の商人が随行することになった。
 この使節の目的は、未知の国イランの軍事も含む国情及び商況調査、さらに同国における英露の角逐の実態の調査にあった。使節団の帰国後吉田は「波斯之旅」、古川は「波斯紀行」を著しており、書に描かれているガージャール朝イラン社会は興味深い。

  一行は船でイランに向かい、着いたのがペルシア湾の港ブーシェフル。ブーシェフルを発ったのが7月25日で、テヘランに着いたのが9月10日だった。ペル シア湾沿岸地方はイランでも最も気候の厳しい所であり、夏の日中は40~50度、湿度は70%を越す。一行は蚊とハエに悩まされ、油っこく匂いの強い羊料 理は喉を通らなかった。旅装も様々で、洋服を着る者、インド服を着る者がいる一方、大小を差す者までいた。

 真夏の旅は彼らの想像を絶 し、道は険しく、夜間旅行も余儀なくされた。この時代のイランでは道路の安全は保たれず、追剥ぎが隊商を襲うこともしばしばだった。最後尾にいた商人の一 人は、砂嵐でラバから落ちて怪我をし動けなくなる。助けを求めても誰も気付かず、段々砂に埋もれ死を覚悟したが、たまたま通りかかった農民に助けられた。 イラン人農民は西瓜やパン、ヨーグルトを与え、嵐が静まるのを待って、一行が泊まっているはずの隊商宿に送り届けた。この商人は貰ったパンを日本に持ち帰 り、神棚に供えて毎日拝んだという。一行はこの農民の心温まる行為に感激するが、異教徒に警戒心の強いとされるイラン人にも親切な人間がいたのだ。

  先に外務省は駐日英国代理公使を通し、英国外務省に協力を依頼していたが、イラン駐在英国外交当局は日本人使節団に冷淡だった。そこで一行が頼ったのは外 商だった。当時のブーシェフル最大の外商はオランダ系ホッツ商会であり、吉田たちは彼らから旅のノウハウを得る。一行の中に、大倉組の副頭取である横山が 加わっているのも、大倉組がロンドンにも支店を持つ緑茶の代表的商社であり、大量の茶を輸入していたイランが茶の市場として有望か見極めるためだった。

  使節団はテヘランに9月10日から12月30日まで滞在する。シャーとの謁見は直ちに行われず、交渉に交渉を重ねた末、やっと9月27日に実現した。 シャーは会見で最初に尋ねたのは、日本の鉄道だった。外国に利権を与え、自国の力では為しえなかったシャーにとって、日本がどのように鉄道を建設したの か、大きな関心を寄せた。次いでシャーは日本の国体と憲法、軍制、使節の目的について質した。
 使節団は12月30日テヘランを発ち、その後イスタンブールに入り、トルコ皇帝に拝謁。同地に40日ほど滞在してウィーンに渡り、ここで解散した。

  吉田ら一行の見たイランは「近代」と余りにもかけ離れた世界だった。特に彼らに大きなショックを与えたのが、「近代」に対する宗教界その他の拒絶反応とそ の強さだった。当時のイランでは旧来の医術が広く行われており、刺絡と潅腸が最も重要な治療手段であった。シャーの訪欧後(1873年)、西洋医学を広め るため様々な試みもなされたが、宗教界には洋医排斥の傾向が強く、西洋医学の普及ははかばかしくなかった。

 だが、民衆の中には西洋医学の効用を知る者が多く、特に西洋人旅行者と接触のあった幹線道路沿いの地方はそうだった。彼らは外国人は全て医術を心得ていると信じており、外国人はしばしば施療させられた。吉田も方々の村で「ハサンキブ(お医者さん)」と呼ばれ、薬を乞われたり治療を求められる。また、舌を噛み血を流している幼児の治療を母親から懇願され、窮余の策として砂糖を熱湯にとかし、冷やして蜂蜜状になったものを与えたら出血は止まった。この時、村民たちは吉田の足に口づけして感謝したという。
 地方の住民にとって、外国人旅行者は無料で診てくれる医者であり、外国人はまさに救いの神であった。一行は医学知識の貧困さにただ驚くだけだったが、かつてのイスラムを代表する大科学者イブン=スィーナー(980-1037年)はイラン(ペルシア)人である。
その②に続く

■参考:「中東世界」世界思想社

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