トーキング・マイノリティ

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信仰の自由

2006-01-06 21:57:29 | 世相(日本)
 日本や先進国では個人の信仰の自由が保障されている。かつての宗教迫害の反省の念に立って制定された法であるが、信仰・思想の自由を認める国は世界でも 数少ない。しかし、信仰の自由はカルトの自由とも繋がる負の面もあるのだ。カルトばかりでなく、教条主義的宗教も我が物顔に振るようになる。

  例えば彼方がAという宗教の信者とする。これに対しB宗教がある。彼方はBの宗教を信じないが存在は認めたとしても、B宗教信徒がAを認めるとは限らな い。むしろ、B宗教は他宗教は全て似非宗教であり、己の宗教に帰依させるのが信者の功徳と妄信してる事もあり得るのだ。だが、信仰の自由を保障されてる国 では排外的なB宗教も公然と活動を認められる。信仰の自由の認められない国から来たB宗教信者が、受け入れ国の宗教や習慣を尊重どころか、侮辱することも できるのだ。

 43 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/03/01 20:36 ID:DS/LK0Hv
 言論の自由とは何でも言える言葉ではない。「自由」と「放縦」の違いを知らなければならない。イスラム教徒は、基本的に神の法に基づいて発言している宗教者である事を忘れてはならない。
 日本の発言は、「責任」のある発言ではなく「放縦」の発言が多い。何でも話せば良いと考えているのでは。イスラム教の掟は「血の掟」ではない。秘密結社の「血の掟」ではなく、神の愛の」である事を忘れてはならない。唯、一部のイスラム教徒は血迷って、兄弟宗教である「基督教」に対して攻撃する不謹慎なイスラム教徒が原理と名付けているから問題になる。
 言論に対しても「責任」のある言論活動が必要でしょう。「不遜」と「不謹慎」な言葉を話せば、「名誉毀損」の問題が出るでしょう。神に対しても名誉毀損の問題もある事を忘れてはならない。其れに対する処罰(
悪魔の詩事件を指す)が厳しかっただけでしょう。
 今の日本は「神の権威」を否定する唯物論者が多い。「嘘」を話せば、再検討しなければ「名誉毀損」と「詐欺」と「不信義」の問題が出るでしょう。昔から宗教の戒めの大きい内容の中に「言論の戒めが一番大きな戒めである事を忘れてはならない」
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news5/1046082541/43

  これは以前2ちゃんねる掲示板にあった書き込みだ。何かと評判の悪い2ちゃんであり、偽ムスリムもコメントしたりするが、上記は本物の信者の可能性が高い と思われる。この人物は「信仰の自由」は満喫しながら、神に対する「名誉毀損」と見なせば「言論の自由」を踏みにじるのも躊躇しないのは明らかだ。「神の 愛の掟」とは、「神の権威」を否定する唯物論者を弾圧することらしい。
 己の宗教の為には「言論の戒め」を実践する一方、他宗教攻撃には「言論の自由」を平然と利用する腹なのだ。異教徒の国で「自由」を享受しながら、異教徒の「言論の自由」は省みない。いずれにせよ、イスラム圏で「言論の自由」が保障されない背景が分かる。

  かつての西欧が典型で一神教が非寛容に陥るのは当然だが、多神教風カルトも日本で大手を振ってまかり通っている。「日本は悪魔の国、悪魔の日本人を救うた めに」などと、ナチズム同然の民族差別をスローガンを叫ぶカルトもあるという。このような敵性宗教団体も「信仰の自由」に守られているのだ。この類は「宗教弾圧!」と被害者を装うことで厚かましい要求を通す。しかも、泡沫団体ではない。霊感商法で悪名高い“統一教会”は本家キリスト教とは無関係だが、多額の金は韓国人犯罪者教祖の懐を脹らませた。

 「信仰の自由」の基本は少数派異教徒であれ、迫害から守られるという理念から成り立つ。だが、他宗教を侮辱する自由はない。これは他宗教を認める代わりに、異教徒も多数派を尊重するケース・バイ・ケース精神が崩れれば、存続は極めて危うい。
 所詮、「信仰の自由」とはこちらが相手を認めれば、相手もこちらを認めるだろうとの性善説に立脚しているのではないだろうか?「信仰の自由」で得をするのは少数派であり、多数派は不利益を被る事も珍しくない。そのような自由などなくとも、多数派は不便、不都合とは無縁なのだから。そして社会が混乱に陥れば、「信仰の自由」など砂上の楼蘭同然に崩壊するのだ。

 「寛容と無関心は表裏一体であり、人間は関心のあるものには寛容でいられない」-J.ネルー

 ◆関連記事:『宗教の衣をまとった帝国主義』『イスラムの寛容

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2 コメント

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自由の範囲 (Mars)
2006-01-23 00:30:30
こんばんは、mugiさん。



本当に、自由の意味を履き違えている者が多いですよね。そして、そういう輩に限って、自分の自由や権利は主張しても義務や他者の自由・権利の侵害はお構いなし。本当に、手に負えません。

宗教にしても、信じる・信じないは自由ですが、その前提となる日本国憲法、およびその他の法を遵守できない者には権利を主張することはできないと思います。

例えそれが教義に反しても、日本にいる以上は、国内法を守ってもらわない困ります。それが嫌なら、合法的な手段で、どこの国にでも行ってもらっても、一向に構わないのですが。



こういう意見は当たり前だと思いますが。それすらも、危険な考え方なのでしょうか?



危険 (mugi)
2006-01-23 22:14:20
こんばんは、Marsさん。



彼らは自由の意味を履き違えているよりも、最大限の自己都合で捻じ曲げ、自分たちのルールに従うよう画策してるとしか思えません。

相手側の“自由”に付け入って、相手側の母屋を乗っ取る可能性もあると思いますね。教条的宗教がアニミズムと多神教風土の日本と敵対するのは当然だと思います。かつてのキリシタンがそうだったように、排斥したからこそ300年の平和が保てました。



>危険な考え方なのでしょうか?

狂信の輩は自分たちの宗教法を守るのが第一で、異教徒の作った日本の国内法など遵守するつもりはないでしょう。この種の連中を野放しにするのこそ、国にとって極めて危険だと思いますが。