日本語として定着したフランス語のひとつにノブレス・オブリージュがある。wikiには「高貴な義務」と解説されており、語源はルカによる福音書の「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(12章48節)に由来する。今まで私はこの言葉を何となく、社会的地位のある者が公共への無償の奉仕、つまり慈善事業や福祉活動を行うことをイメージしていた。おそらく多くの日本人も似たような捉え方をしていると思う。しかし、欧米人の考えるノブレス・オブリージュとは、私のイメージも含むにせよ意味合いが異なるらしい。
1991年に出版された塩野七生氏のエッセイ集『再び男たちへ』(文春文庫)の28章は「ノーブレス・オブリージュ」であり、欧米人が考えるそれが述べられている。はっきり言えば、ノブレス・オブリージュの基本は体を張ることであると考えているそうだ。単に体を張るならばヤクザも同じだが、他者を守るために体を張る行為を指している。それ故に尊き責務なのである。義務ではなくあくまでも責務だ。やらねばならぬ行為としての義務よりも、道義的により高いとされる責務であって、欧米語ではこの2つをちゃんと区別しているという。
では、他者のために体を張ることを具体的に言えば、武力を持って敵から味方を守ることだと塩野氏は書く。欧州の歴史を見れば貴族や騎士階級が尊敬され、支配階級を占めてきた。エリートは他の人々より優れた資質や社会的立場を占めているから尊敬を受けるのではなく、その資質や地位を活用し、それらを持っていない人々を守るから敬意を払われたのだという。欧米では日本のように、エリートという言葉はマイナスのイメージを持たず、権利を享受すると同時にちゃんと責務の方も果たしている人間をエリートと呼ぶからだ。
そして、この責務の第一が、必要とあれば武力さえ行使して人々を守ることだった。敵が攻めてくれば市壁の上に陣取り闘うのが、エリートたちの責務である。ゆえに彼らは敬意を払われてきた。この伝統は今でも立派に生きており、アメリカが大国と認められた理由も経済力だけでなく、世界中に張り巡らした軍事力のためである、と塩野氏は断定されている。
一方、ユダヤ民族はあらゆる面に優秀でも、他者を守るために体を張ることだけはしなかった。中世の欧州でユダヤ人はキリスト教徒の2倍の税金を支払わされたが、軍務からは免れていた。これはインドでも同じであり、以前の記事「インドのユダヤ人」でも、体を張った少数民族パールシー(※インドのゾロアスター教徒)と比較をして書いた。不都合があれば金で解決する他ユダヤ人にはなく、この姿勢はイスラエル建国まで続いたと塩野氏は言う。
誤解されるかもしれないが、塩野氏は欧米のようにノブレス・オブリージュ精神で再軍備を奨励しているのではない。ただ、この言葉の背後には欧州三千年の歴史があることを忘れる訳にはいかない、と諭す。同じ言葉を使っても、意味する内容が違うならば、言語摩擦を起こす恐れもあると見ている。
個人的感想として氏は、軍事力を使わないノブレス・オブリージュを実現するのは可能だという。それは経済と技術であり、日本人がもっとも得意とする分野である。この分野で我々は、欧米的でもユダヤ的でもないやり方で、体を張ってみてはどうだろうか。あくまでもそれは「体を張る」のであり、途上国援助額がアメリカ並になったから、にわかに大きな顔をする程度のものではない…と提言している。
末尾に塩野氏は欧州人が三千年を費やし培ってきた西欧の論理、つまり力とはイコール軍事力という倫理以外のところにしかないのを痛感するだろう、とまで結んでいる。以上のようなことを主張するので、氏は2ちゃんねるなどで塩婆はウヨ(右翼)と書かれるのだが、軍事を伴わない共産主義ならば、あれほど世界規模に拡張できず、机上の空論で終わっていたことだろう。
それにしても、ノブレス・オブリージュの最も重要な責務が「他者を守るために体を張る行為」だったとは、日本と欧米の思想、習慣のギャップを改めて思い知らされた。単に欧米の傲慢で片付けられるものではなく、このような考え方をする人々だということを認識しておいた方が無難だと思う。もちろん欧米人の責務精神を鵜呑みにする必要はないし、経済と技術で体を張ったとしても途上国の人間が必ずしも感謝するとは限らないことも、頭の片隅に入れておいた方がよいだろう。
◆関連記事:「海外援助について」
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1991年に出版された塩野七生氏のエッセイ集『再び男たちへ』(文春文庫)の28章は「ノーブレス・オブリージュ」であり、欧米人が考えるそれが述べられている。はっきり言えば、ノブレス・オブリージュの基本は体を張ることであると考えているそうだ。単に体を張るならばヤクザも同じだが、他者を守るために体を張る行為を指している。それ故に尊き責務なのである。義務ではなくあくまでも責務だ。やらねばならぬ行為としての義務よりも、道義的により高いとされる責務であって、欧米語ではこの2つをちゃんと区別しているという。
では、他者のために体を張ることを具体的に言えば、武力を持って敵から味方を守ることだと塩野氏は書く。欧州の歴史を見れば貴族や騎士階級が尊敬され、支配階級を占めてきた。エリートは他の人々より優れた資質や社会的立場を占めているから尊敬を受けるのではなく、その資質や地位を活用し、それらを持っていない人々を守るから敬意を払われたのだという。欧米では日本のように、エリートという言葉はマイナスのイメージを持たず、権利を享受すると同時にちゃんと責務の方も果たしている人間をエリートと呼ぶからだ。
そして、この責務の第一が、必要とあれば武力さえ行使して人々を守ることだった。敵が攻めてくれば市壁の上に陣取り闘うのが、エリートたちの責務である。ゆえに彼らは敬意を払われてきた。この伝統は今でも立派に生きており、アメリカが大国と認められた理由も経済力だけでなく、世界中に張り巡らした軍事力のためである、と塩野氏は断定されている。
一方、ユダヤ民族はあらゆる面に優秀でも、他者を守るために体を張ることだけはしなかった。中世の欧州でユダヤ人はキリスト教徒の2倍の税金を支払わされたが、軍務からは免れていた。これはインドでも同じであり、以前の記事「インドのユダヤ人」でも、体を張った少数民族パールシー(※インドのゾロアスター教徒)と比較をして書いた。不都合があれば金で解決する他ユダヤ人にはなく、この姿勢はイスラエル建国まで続いたと塩野氏は言う。
誤解されるかもしれないが、塩野氏は欧米のようにノブレス・オブリージュ精神で再軍備を奨励しているのではない。ただ、この言葉の背後には欧州三千年の歴史があることを忘れる訳にはいかない、と諭す。同じ言葉を使っても、意味する内容が違うならば、言語摩擦を起こす恐れもあると見ている。
個人的感想として氏は、軍事力を使わないノブレス・オブリージュを実現するのは可能だという。それは経済と技術であり、日本人がもっとも得意とする分野である。この分野で我々は、欧米的でもユダヤ的でもないやり方で、体を張ってみてはどうだろうか。あくまでもそれは「体を張る」のであり、途上国援助額がアメリカ並になったから、にわかに大きな顔をする程度のものではない…と提言している。
末尾に塩野氏は欧州人が三千年を費やし培ってきた西欧の論理、つまり力とはイコール軍事力という倫理以外のところにしかないのを痛感するだろう、とまで結んでいる。以上のようなことを主張するので、氏は2ちゃんねるなどで塩婆はウヨ(右翼)と書かれるのだが、軍事を伴わない共産主義ならば、あれほど世界規模に拡張できず、机上の空論で終わっていたことだろう。
それにしても、ノブレス・オブリージュの最も重要な責務が「他者を守るために体を張る行為」だったとは、日本と欧米の思想、習慣のギャップを改めて思い知らされた。単に欧米の傲慢で片付けられるものではなく、このような考え方をする人々だということを認識しておいた方が無難だと思う。もちろん欧米人の責務精神を鵜呑みにする必要はないし、経済と技術で体を張ったとしても途上国の人間が必ずしも感謝するとは限らないことも、頭の片隅に入れておいた方がよいだろう。
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しかし、フランスのナポレオンは、国民軍の強さ(すなわち、エリートの貴族とか、騎士階級などではない、平民出身の徴兵兵士から成る軍隊の強さ、愛国心で団結した兵士の強さ)を証明し、仏革命とナショナリズムが欧州における最先進思想となって、欧州全体に民族主義、民族自決主義という、ある意味民族分布が混在して、民族自決など難しい欧州において、よからぬ動き、新たな戦争の火種を作ったのです。
すなわち、西欧でも、ドイツ(プロイセン)は近代にユンカーという地主貴族中心の軍部、英国は貴族層が将校団を形成するという階級主義で、ノブレス・オブリージの思想だったのです。
他方、フランスは、平民中心の徴兵制国民軍という形で、強力かつ大規模な軍部を作ることに成功しました。仏軍では、従って、ノブレス・オブリージという思想は希薄だったと思うし、もしあっても将校達という軍部内の地位・階級としての「ノブレス・オブリージ」ということで、英、独とは、少しニュアンスが違うように思います。(仏革命で、王族、貴族を排除した後の平民軍ですから)。
また、バルカンにこだわる小生の感じでは、バルカン半島では、あまりノブレス・オブリージの用語とか、これにこだわる思想は、聞かないように思う。オスマン時代には、キリスト教徒らは、やはり被統治市民=臣民感情が強く、闘うべきはムスリム兵士達だったし、独立後はフランスがモデルで、平民軍=国民軍思想だったからではないかと思う。
フランス語が語源ですが、どうも革命以降は状況が変わっていったようですね。ただ、革命後のフランスで貴族階級が根絶されてはおらず、その精神はブルジョワの市民に受け継がれていったのでしょうか。あの革命は市民革命と呼ばれても、中心となったブルジョワ市民も少なくなかった。階級社会なきところで、ノブレス・オブリージェは成立しえないのかも。
一方、先の「能力主義の落とし穴」でも書きましたが、世襲貴族というものが成立せず能力主義が原則のオスマン朝となれば、この思想や精神は稀薄であり、バルカンの被支配者キリスト教徒も実力があれば帝国のエリートになれた。その弊害もかなりありましたが、実力主義が発揮されるところなら、“高貴なる責務”は難しいでしょうね。
日本でも、本当はオタクという言葉は、皆が軽蔑しているとも思わないけど、日本人は何しろ勤勉(肉体労働をいとわない)思想が強く、そこが西欧とか中国との大きな差になっている。中国人の士大夫階級は、肉体労働を西欧以上に軽蔑していた。
昔見た香港映画で、中国人の金持ちが、そもそも歩くことすら拒んで、使用人二人に手を組ませて自分を座らせて、促成の輿のようにして運ばせようとする風景があって驚いた。自分は頭を使って商売して金儲けをするのが役目、使用人は、あらゆる力仕事をするべきで、輿になって当然という態度です。ご主人様を徒歩で歩かせるなど、言語道断!
そうはいっても、中国では、ノブレス・オブリージュの思想もなく、負け戦と分かったら、さっさと先に逃げるのが上の階層の常識。下の階級が先に死ぬのが当たり前で、将軍達は必ず生き延びる・・・これは最近見ている韓国時代劇でも同じようです。韓国時代劇は、現代化しているストーリーですから、部下達を消耗品とは考えていないことになってはいるのですが、過去の史書に筋立てを依存するので、やはり将軍達は、戦争で死なない。死ぬのは兵卒達!
とはいえ、ブッシュなどは、兵役を州兵というpart time soldierですませた(しかも国内勤務のみ)ようだし、クリントンの兵役も聞いたことがないように思う。米国にはあまりこの思想は浸透していないのかも(一応平等主義の国是だから?)。
ノブレス・オブリージュ思想が、どの国家でどの程度発揮されているのか、英国を除くと少し怪しいように小生には思えるけど。戦前の日本でも、宮様は建前兵役に就き、時には前線にも行くけど、いつも危ないところには行かないように徹底的に配慮されていました。その代わり、宮様以外の場合、華族、ブルジョア子弟といえども、農民の徴兵と全く同じ待遇で、なんらえこひいきされなかったらしいです(司馬遼太郎説)。
ともかく、武士道精神があった日本の場合、意外とノブレス・オブリージュに近い、尊敬すべき人々もいたように思う。今でも日本人は女性のためにさっとドアを開けたり、重い荷物を持ってやったりというところで格好付けること(これが欧州では一番大切な男性の心得です、小生もある程度やります)は下手だけど、いざというときに義侠心を発揮する人は、依然として多いと思う(そう思いたいし)。
オタクという言葉は結構侮蔑や揶揄が含まれていますよね。妙な趣味に拘っている変人と見られがちのような。映画『電車男』のように、日本ではちゃんと職に就いている人さえオタクと見なされると、ちょっと外れた人間の評価が下される。ただ、最近の洋画を見ていると、オタク的人間は欧米にもいることが分り、妙に安心させられました。
仰るとおり儒教圏の士大夫階級の肉体労働蔑視はすごいですよね。アヘン戦争での英国との交渉でも、英国人が自分の座っている椅子の位置を少しずらしたら、清朝の官吏はこの者は身分が低いと侮蔑したというエピソードもあります。現代は不明ですが、かつての金持ちの屋敷で第一夫人は何ひとつ家事をしなかったそうです。夫にお茶を入れることもしなかった!
おそらく朝鮮半島も似たようなものだったのでしょう。「一将功成りて万骨枯る」の諺もあり、功が成り立たなければ、さらに悲惨といえます。
宮様以外の華族の子弟といえども、庶民と同じ待遇とは知りませんでした。金持ちのお坊ちゃんが兵隊に行くと苦労したという話は、昭和一桁生まれの母から聞きましたが。
レディ・ファーストが通るのは欧米くらいで、日本人はこれがつとに苦手ですが、これは他のアジア諸国も似たような状況のようです。義侠心の方は、いざという時に揮する人は依然として多いなら結構ですが、最近はどうなのでしょうね。いささか危ないような…
何かの本で読んだんですが、イギリスの貴族階級は、教育、経済力があるだけでなく、実際に体格の上でも庶民を凌駕していたそうで、文字通り腕っ節においても、庶民はかなわなかったそうです。
武力じゃないですが、戦前朝鮮併合時に、日本の皇室から李王朝に輿入れした皇女がおいででしたよね。なんでも自分の縁談を新聞で知ったとか。この方などは、自分の人生にプライベートなど存在せず、日韓友好のために生きるのが皇女としての使命みたいな記事を雑誌でみたことがあるのですが、日本でも高貴な人が身体張ってましたよね(と感じるのは私だけか?)。
日本の経済・技術援助の方が、ユダヤ人の金で解決に近い感じがしちゃうんですが、すみません。(でも、実はユダヤ人とのほうが、アングロサクソンにくらべると、日本人の価値観と共有する点が多いと思ったりもするんですが・・・)
私も何かの本でイギリス貴族は体格でも庶民を圧倒、喧嘩すれば後者は負けてしまうことを知りましたので、もしかすると同じ本を見ていたのかも。何しろ日頃から訓練して、いい食事をとっているから当然でしょうね。
映画「ラストエンペラー」にも登場しましたが、溥儀皇帝の弟に嫁いだ華族の女性もいました。こちらも政略結婚であり、国の使命をそのまま受け入れる他無かった。庶民と違い生活には不自由しなくとも、人生での自由な選択やプライベートなどありません。どちらが幸福なのかは庶民の私には不明ですけど。
ユダヤ人といえ様々な人がいますが、華僑と同じく彼らは周囲の異民族への還元に後ろ向きであり、生き残るためせよあの強かさは日本人はとても敵わないと感じますね。私はユダヤ人との引き合いに出したパールシーの方が、日本人の価値観と共有するところがあると思いました。