トーキング・マイノリティ

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宗教の復讐 その②

2016-10-27 21:40:11 | 読書/ノンフィクション

その①の続き
「アメリカを扱った章は、特に読み物としても面白い」と言った翻訳者だが、私には読み物として最も面白かったのは、イスラエルを扱った第4章「イスラエルの贖罪」だった。イスラムやアメリカを扱った章よりも面白く感じられたのは、これら地域よりもイスラエルにおける宗教と政治の関係は、本書で初めて知った内容ばかりだったから。おそらく大半の日本人も、唯一のユダヤ人国家における宗教と政治の結びつきをあまり知らないだろう。
 それに対し、イスラム諸国やアメリカの場合は割と知られているのではないか?別にアメリカ政治を専攻しなくとも、アメリカはキリスト教原理主義が根強く、教条的宗教団体が活躍するお国柄なのは、河北新報のような地方紙国際面にも載っている。扱いこそ小さめだが、記事を見ていれば奇異には感じられないはず。

 案外知られていないが、ユダヤ教は政教一体が大原則であり、神権政治こそ本来あるべき統治なのだ。もちろん現代イスラエルは完全な民主主義体制の世俗国家であり、ラビ(ユダヤ教聖職者)による支配は考えられない。それまでは世俗国家のイメージが強かったイスラエルだったゆえ、本書に描かれたイスラエル情勢は実に興味深かった。
 70年代はユダヤ世界全体の中で、「テシュヴァ」運動が見られるようになったという。「テシュヴァ」とはヘブライ語で「帰る戻る」の意があり、ユダヤ教への回帰や悔悛を意味している。ユダヤ教に回帰したユダヤ人等が、ハラハー(ユダヤ法)の全面的な遵守を目指したのは書くまでもない。罪を悔い改めた者は世俗主義の誘惑を断ち切り、ユダヤ教の聖なるテクストから出発して練り上げられた戒律や禁忌だけに基づき、自らの存在を組織し直そうとした。

「テシュヴァ」活動家は当然周囲と断絶しがちだが、彼等はさらに選民を永続させるにあたり最大の脅威である同化に対抗するため、ユダヤ人とゴイ(異教徒の意、非ユダヤ教徒への蔑称)との厳密な区別さえ要求する。「テシュヴァ」はまた、本来のユダヤ民族内部において、アイデンティティの再定義も意味していた。
 この回帰運動は、アメリカ、ソ連邦、フランス、イスラエル等の様々の国で、それぞれ異なる多様な発展を見せる。共産主義者やシオニスト、ユダヤ教とは漠然とした帰属意識を保っていただけの者、イスラエルが体現する世俗的シオニズム構想のために戦っていた者など、実に様々な感性を持つユダヤ人に衝撃を与えたという。

 この現象が色々なかたちで目につくようになり始めたのは、70年代半ばになってからだそうだ。グーシュ・エムニーム(信者の陣営)はその代表例であり、運動の創設は1974年。エルサレムに大きな「イェシュバ」(タルムード学院)が開校されたのも同年だった。
 この時代、かつては世俗化した一般信者、または無神論者でさえあったユダヤ人たちによって書かれた話が出版され始めたという。彼等は自分たちのユダヤ教発見を引き合いに出し、読者にもユダヤ法の戒律に従うよう強く促していた。自分たちの経験を語り出版した宗教活動家たちは、信仰への非妥協性や典礼への細心なる遵守が、最新、最先端の知や技術をマスターすることと完璧に両立することを明らかにしようと、大いに心を砕く。

 1978年、ユダヤ系アメリカ人シモン・フルヴィッツは『ユダヤ人であること』という本を出し、その中で彼はタルムード学院の教えに従うことでユダヤ人とは何かを発見したと述べていたそうだ。そのことは彼に西欧社会とその価値体系の行き詰まりを意識させ、「真正なユダヤ文化と西欧社会や文化は真っ向から対立する」という。
 彼によれば、西欧社会と文化の特徴は完全な無内容性と無償性であり、その唯一の目的は際限を知らぬ物質主義の中で個人の欲望を満足させることにあるそうだ。神を知らぬ同化ユダヤ人は、倫理にまるで無関心なまま、自らの自由意思に任させる。トーラーを再発見し戒律を遵守することによってのみ、生に意味を与え直すことが出来る、と説いていたそうだ。ゴイの1人(一匹?)である私には、これぞユダヤ原理主義の御託宣にしか思えないが。
その③に続く

◆関連記事:「ユダヤ人テロ組織
 「アラブの売国奴
 「イスラエル・ロビー

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