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アラブの売国奴 その①

2010-10-04 21:12:33 | 読書/中東史
 題名からイスラエル軍やモサドに協力、金銭のため同胞を裏切るパレスチナ人を連想された方が殆どだろう。もちろんその類のパレスチナ人は現代も不足しないし、彼らに限らず同胞を裏切る輩は古今東珍しくない。ただ、これから書くのはパレスチナ人が故郷を追われることになった背景である。アラブにはユダヤ人と協力した者やユダヤ人にパレスチナの土地を売った地主もおり、それがユダヤ人の大量移住とイスラエル建国に繋がった。結果からすればまさに国を売る行為となったのだ。

 アラブ人による民族主義の形成はイランやトルコに比べても遅く、民族意識に目覚めたのは西欧に留学した体験を持つ都市部の一部知識人に過ぎなかった。20世紀初頭、パレスチナに住むアラブ人の間では、まだ「パレスチナ人」との自覚はなく、エルサレム直轄州とその周辺に住むオスマン帝国の臣民という認識を持ち、イスタンブールに住むトルコ皇帝(カリフでもある)に忠誠心を捧げていた。
 当時、この地は「ファラスティン」(パレスチナのアラビア語名)と呼ばれ、地勢的境界すら明確に規定されていなかったため、アラブ系住民の土地への執着はかなり稀薄なものだったと言われる。現にパレスチナの農耕地の多くは、ベイルート(現レバノンの首都)など非パレスチナの大都市に住む不在地主が所有していた。そのため、小作人として彼らに雇われるアラブ人には、その土地は余所者の「親方」の所有地であり、自らを主体的な「パレスチナの民」と考えていなかった。

 19世紀末、欧州で生まれたシオニズムにより、パレスチナを自らの新天地と考えるユダヤ人も出てくる。彼らにとって上記のようなアラブ人のパレスチナに対する帰属意識の希薄さは、自分たちの移住計画を進める上で非常に好都合だった。1901年6月、シオニズムの提唱者テーオドール・ヘルツルはイスタンブールに赴き、皇帝アブデュルハミト2世との謁見を許された。だが、皇帝はユダヤ人国家の創設を許可するはずもなく、ユダヤ移民の帝国領各地への分散型移住なら受け入れてもよいとの条件を提示しただけだったので、ヘルツルの目論見は崩れた。
 トルコ皇帝への懐柔を諦めたヘルツルは、次いでドイツ皇帝やイギリス首相にもシオニズムへの理解を働きかけたが、実りのある返答を得られなかった。

 ヘルツルはトルコ訪問3年後に急死、シオニスト機構の影響力も一旦低下するが、欧州に住むユダヤ人の一部は独自に資金を調達し、パレスチナへの移住を開始していた。ヘブライ語の「上昇する」という意味から転じて、「パレスチナへ昇り来る者」を表す言葉になった「アリヤー」と呼ばれる移民たちがそれに当たる。
 1901年、彼らはシオニスト会議で設立されたパレスチナでの土地購入機関「ユダヤ民族基金」や、大富豪ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ人富豪層からの寄付を元手にパレスチナの土地を購入、合法的にパレスチナへの侵入を図る。

 かくして20世紀初頭だけでも約1万人のユダヤ人が、新天地パレスチナへの移住を果たす。当然、遠慮会釈のないユダヤ人の一方的な流入は現地のアラブ人社会に感情的な反発を呼び起こすことになる。前記したように、パレスチナの農地の大部分はダマスカス(現シリア)やベイルート、カイロ等の不在地主が所有していたが、ユダヤ人による土地の買収が活発になると、アラブ人大地主は金と引き換えにパレスチナの土地を次々とユダヤ人勢力に売り渡していった。その結果、この地で代々暮らしてきた貧しい小作人は耕作地を失い、家族を養うための収入減を断たれてしまうという事態が続出する。後のアラブ民族主義者は、この時のアラブ人地主による土地売却を非難しているが、これは歴史で禁句とされる「たら、れば」の類なのだ。

 ユダヤ人たちは移住前の国でもそうしてきたように、パレスチナに入植しても現地の社会習慣を受け入れず自らの生活様式を頑なに貫き通す。このような移民を乗せた船が次々とパレスチナの港に到着、自らの故郷に異質な文化を持ち込み勢力を拡大していくのを目の当たりにした現地人が、不安と反感を抱いたのは当然の帰結だった。この時点ではアラブ人の反感はまだ漠然としていたが、これ以降パレスチナを舞台にしたアラブ人とユダヤ人入植者の民衆レベルでの摩擦は、年を経るにつれ先鋭化していく。
その②に続く

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4 コメント

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不在地主 (室長)
2010-10-08 17:08:25
mugiさん、
 パレスチナの土地を売ったのが、現地の農民ではなく、遠くの大都市に住む不在地主だったという話は、小生も気づかなかった。
 そうすると、今パレスチナのキャンプで、土地を返せと叫んでいるアラブ人達も、実態は、彼らの祖先は、小作人で、地主ではなかったから、経済的には、「返せ」と叫ぶ権利はない、と言うことになりますね。
 歴史には、詳しく見ないと分からない、また、論理的に言うとおかしい、そういう部分が色々あると言うことかも。なかなか、よく考えると、複雑さが増すばかりで、イヤーーーな気分になります。英国は、一時的には、石油資本の憲兵として、イスラエルを利用できたけど、今ではとてつもない大きな負の遺産を残したとも言えますね。
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RE:不在地主 (mugi)
2010-10-08 22:22:58
>室長さん、

 イスラエル側ではアラブ人地主が土地を売ったので、これは合法だと主張しています。ただ、その後の凄まじい入植ラッシュでアラブと衝突するようになりました。第二次大戦前、既に双方で武力衝突とテロが起きています。ユダヤ人側も入植早々、武装民兵を結成しているし、端から将来的に土地を強奪する腹積もりだったとしか思えません。目先の経済効果にくらんで、外国人に土地を売ったアラブ人地主の対応は、アラブ民族主義者から後に非難されていますが、後の祭りです。

 ただ、パレスチナのキャンプで土地を返せと叫んでいるアラブ人達は、必ずしも小作人の子孫ばかりとは限らず、中東戦争で身の危険を感じ、故郷から逃れた人々も多いのです。最も難民申請ではかなり水増しもあったようで、正確な難民数は不明ですけど。
 本当にイギリスは場当たり外交で大変な負の遺産を残しました。シオニストもイギリスはあてにならないと見なし、アメリカに接近するのです。パレスチナ地域の土地譲渡制限を撤廃させ、ユダヤ人(個人以外に組織も含む)が自由にパレスチナ国内の土地を購入できるように働きかけました。
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カナンの地 (ハハサウルス)
2010-10-09 20:04:33
カナンの地は日本であるという説もあったと聞いたことがあります。日猶同祖説もあり、もし、日本が狙われていたら…などと想像したこともありますが、そうはならなかったでしょうね。

詳しい歴史については知りませんでしたが、不在地主が土地を売ったというのは、何とも…。合法的に、そして用意周到に豊富な資金を背景に徐々に侵攻していくやり方は、恐ろしいですね。異文化を持つ人々がどんどん入植していくのを目の当たりにした当時の人々の困惑と恐れはいかばかりだったかと…。正攻法でいっても建国はできなかったでしょうが、もし自身に降りかかったならばと思うと、やはり憤りを禁じ得なかったでしょう。

いまだ紛争の絶えないあの地域に平和が来る事はないのでしょう。歴史にもしもは禁句ですが、やるせない思いがします。ユダヤ人の絡む陰謀説はいろいろありますが、真偽の程はともかく油断ならない存在ですね。

日本も今外交上の問題を多々抱えていますが、後々「もしもあの時…」などと思う日が来ないことを願うばかりです。
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RE:カナンの地 (mugi)
2010-10-09 21:36:29
>ハハサウルスさん、

 ユダヤ人の入植地としては、パレスチナ以外にも東アフリカや南米も候補に挙げられていましたが、結局は縁の地であるパレスチナに固執する者が大半だったそうです。それが現代に至るまでのパレスチナ人の悲劇となりました。2千年も前に住んでいたのを、「約束の地」として経済力に任せて強引に入植、「全く野蛮」な現地人を駆逐していくのも選民思想の表われですね。新大陸と同じ経過でイスラエルは誕生したのです。

 中東に紛争が絶えないのは昔からですが、それでも古代ローマやイスラム帝国、オスマン帝国の時代は長く平和が続きました。力のある大国が支配した時、秩序と平和がもたらされるのです。

 不在地主が外国人に土地を売ったのは、遠い国の遠い時代の出来事ばかりではありません。日本の土地を買い占めていると言われる他国人の例もあり、パレスチナの二の舞にならぬことを願うばかりですね。
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