その①、その②、その③の続き
この本の巻末にある「日本ゾロアスター教研究小史と参考文献」の章は実に興味深い。日本のゾロアスター教研究者について紹介された章であり、マイナーな分野だけに苦労があったことが偲ばれる。
著者によれば、日本におけるゾロアスター教研究の先駆者こそ荒木茂氏(1884-1932)で、今では知る人もない存在として埋もれているそうだ。荒木氏は現代の福井市に生まれ、摂津の戦国大名・荒木村重の子孫と伝わる荒木家の養子に入り、福井市内の小中学校を卒業。その後、青雲の志を抱いて1905年渡米し、コロンビア大学に入学、古代イラン学を専攻した。明治時代の日本人が、自発的にこのような奇特な学問を選んだのかは不明だが、青木氏は様々な事情や内面的葛藤があったのではないかと推測されている。
当時のコロンビア大学における古代イラン学教授A.V.W.ジャクソンは荒木氏を暖かく迎え入れたらしく、氏はここで文学修士号を取得して帰国する。その後女子学習院で英語教授を勤める傍ら、東京帝国大学文学部でイラン学を講じた。また、1922年からは財団法人啓明曾の援助を受け、当時欧米で興隆期を迎えていたイラン学研究書の請来に尽力している。
荒木氏は留学中の1919年、同じ日本人留学生の中條ユリと結婚した。だが、この結婚生活は順調ではなく、結婚6年後に破局に至る。中條ユリはこの結婚生活を自伝的長編小説『伸子』に描いて出版、文壇で名声を博した。荒木氏はこの作中で佃一郎として登場する甲斐性なしの夫のモデルとされている。この中條ユリこそ、後のプロレタリア文学作家・宮本百合子。彼女の小説により、皮肉にも荒木氏は日本文学史上に名を残すことになった。宮本は既に17歳時の作品『貧しき人々の群』で文壇に登場しているため、天性の文才があったのは事実だが、このプロレタリア女文士が20世紀初めアメリカ留学までしたブルジョワのお嬢様だったのは、さらに皮肉である。このお嬢様作家が後に再婚した9歳年下の男は宮本顕治、こちらも東京帝国大学で学んだ非プロレタリアートである。日本共産党査問リンチ事件での関与といい、ユリにとって2番目の夫はさぞ精力的で甲斐性のある男だったろう。
離婚後、荒木氏は持病の肺結核で48歳で夭折、氏の著書は『ペルシャ文学史考』(岩波書店・1923)一冊しかない。病魔に侵されつつ、荒木氏が最後の情熱を傾け蒐集した古代イラン学術研究書は、現代東京大学東洋文化研究所に収蔵されているそうだ。ネット検索をしてみたら、「荒木文庫」に関するサイトがヒットした。サイトに「文責:青木健」の結びが見える。
荒木氏逝去の後、東京方面では彼を継承する研究者は出なかったが、京都から足利惇氏氏が現れた。姓から知れるとおり、足利将軍家→鎌倉公方→古河公方→喜連川(きつれがわ)氏と分家した喜連川足利家の嫡男だった。足利将軍家が絶えた後、喜連川足利家が足利家の嫡流となっており、明治以降は代々子爵を受爵、氏自身も戦前まで子爵だった。
足利氏は同志社大学英文科在学中、京都帝国大学梵文科教授の叔父の弟子となり、京都帝国大学梵文科講師に採用された後、叔父の命で古代イラン学を専攻する。当時は主任教授の一存で弟子の研究対象などが決定されていたらしい。その後、京都大学教授、東海大学教授を歴任し、多くの弟子たちを育てた。20世紀後半の我国で活躍したゾロアスター教研究者の多くは、足利氏の系統を引いているそうだ。
足利氏のいる京大からは、伊藤義教氏も出現する。伊藤氏は京都帝国大学梵文科在学中にゾロアスター教研究を志し、研究環境も粗末な当時の日本で、パールシー(インドのゾロアスター教徒)が書いたグジャラート語文献を手がかりに研究を始めた。学部卒業後、彼は京都帝国大学大学院に進み、ゾロアスター教研究で文学博士号を取得、そのまま京大に残る。
ただ、ゾロアスター教研究ではポストがなく、60歳近くまで専任講師に留められ、大学内では長く不遇だった。また耳が不自由だったため、氏の外面的活動はなお制限された。しかし、その間黙々と書いた著書が、現代のゾロアスター教研究の基礎を成すことになる。氏が最も得意としたのが、パフラヴィー語の翻訳だったそうだ。
西欧で初めてゾロアスター教の聖典を翻訳したのは、フランス人学者アンクティル・デュペロン(1731-1805)である。彼も世俗的には殆ど恵まれず、赤貧状態でこの世を去る。日本人研究家の先駆者、荒木茂氏も私生活では不幸だったし、伊藤氏も学界では低い地位に留まる。ただ、彼らの研究史に軽く目を通してこれだけは言える。彼らこそ真の学究の徒であり、ひたすら学術研究に生涯を捧げた人生だった。このような真摯な姿勢の研究家は学界にどれだけいるのだろう?青木健氏を含め、現代日本のゾロアスター教研究者の今後の活躍と成果、発展を願いたいものだ。
◆関連記事:「ゾロアスター教の興亡」
「ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人」
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この本の巻末にある「日本ゾロアスター教研究小史と参考文献」の章は実に興味深い。日本のゾロアスター教研究者について紹介された章であり、マイナーな分野だけに苦労があったことが偲ばれる。
著者によれば、日本におけるゾロアスター教研究の先駆者こそ荒木茂氏(1884-1932)で、今では知る人もない存在として埋もれているそうだ。荒木氏は現代の福井市に生まれ、摂津の戦国大名・荒木村重の子孫と伝わる荒木家の養子に入り、福井市内の小中学校を卒業。その後、青雲の志を抱いて1905年渡米し、コロンビア大学に入学、古代イラン学を専攻した。明治時代の日本人が、自発的にこのような奇特な学問を選んだのかは不明だが、青木氏は様々な事情や内面的葛藤があったのではないかと推測されている。
当時のコロンビア大学における古代イラン学教授A.V.W.ジャクソンは荒木氏を暖かく迎え入れたらしく、氏はここで文学修士号を取得して帰国する。その後女子学習院で英語教授を勤める傍ら、東京帝国大学文学部でイラン学を講じた。また、1922年からは財団法人啓明曾の援助を受け、当時欧米で興隆期を迎えていたイラン学研究書の請来に尽力している。
荒木氏は留学中の1919年、同じ日本人留学生の中條ユリと結婚した。だが、この結婚生活は順調ではなく、結婚6年後に破局に至る。中條ユリはこの結婚生活を自伝的長編小説『伸子』に描いて出版、文壇で名声を博した。荒木氏はこの作中で佃一郎として登場する甲斐性なしの夫のモデルとされている。この中條ユリこそ、後のプロレタリア文学作家・宮本百合子。彼女の小説により、皮肉にも荒木氏は日本文学史上に名を残すことになった。宮本は既に17歳時の作品『貧しき人々の群』で文壇に登場しているため、天性の文才があったのは事実だが、このプロレタリア女文士が20世紀初めアメリカ留学までしたブルジョワのお嬢様だったのは、さらに皮肉である。このお嬢様作家が後に再婚した9歳年下の男は宮本顕治、こちらも東京帝国大学で学んだ非プロレタリアートである。日本共産党査問リンチ事件での関与といい、ユリにとって2番目の夫はさぞ精力的で甲斐性のある男だったろう。
離婚後、荒木氏は持病の肺結核で48歳で夭折、氏の著書は『ペルシャ文学史考』(岩波書店・1923)一冊しかない。病魔に侵されつつ、荒木氏が最後の情熱を傾け蒐集した古代イラン学術研究書は、現代東京大学東洋文化研究所に収蔵されているそうだ。ネット検索をしてみたら、「荒木文庫」に関するサイトがヒットした。サイトに「文責:青木健」の結びが見える。
荒木氏逝去の後、東京方面では彼を継承する研究者は出なかったが、京都から足利惇氏氏が現れた。姓から知れるとおり、足利将軍家→鎌倉公方→古河公方→喜連川(きつれがわ)氏と分家した喜連川足利家の嫡男だった。足利将軍家が絶えた後、喜連川足利家が足利家の嫡流となっており、明治以降は代々子爵を受爵、氏自身も戦前まで子爵だった。
足利氏は同志社大学英文科在学中、京都帝国大学梵文科教授の叔父の弟子となり、京都帝国大学梵文科講師に採用された後、叔父の命で古代イラン学を専攻する。当時は主任教授の一存で弟子の研究対象などが決定されていたらしい。その後、京都大学教授、東海大学教授を歴任し、多くの弟子たちを育てた。20世紀後半の我国で活躍したゾロアスター教研究者の多くは、足利氏の系統を引いているそうだ。
足利氏のいる京大からは、伊藤義教氏も出現する。伊藤氏は京都帝国大学梵文科在学中にゾロアスター教研究を志し、研究環境も粗末な当時の日本で、パールシー(インドのゾロアスター教徒)が書いたグジャラート語文献を手がかりに研究を始めた。学部卒業後、彼は京都帝国大学大学院に進み、ゾロアスター教研究で文学博士号を取得、そのまま京大に残る。
ただ、ゾロアスター教研究ではポストがなく、60歳近くまで専任講師に留められ、大学内では長く不遇だった。また耳が不自由だったため、氏の外面的活動はなお制限された。しかし、その間黙々と書いた著書が、現代のゾロアスター教研究の基礎を成すことになる。氏が最も得意としたのが、パフラヴィー語の翻訳だったそうだ。
西欧で初めてゾロアスター教の聖典を翻訳したのは、フランス人学者アンクティル・デュペロン(1731-1805)である。彼も世俗的には殆ど恵まれず、赤貧状態でこの世を去る。日本人研究家の先駆者、荒木茂氏も私生活では不幸だったし、伊藤氏も学界では低い地位に留まる。ただ、彼らの研究史に軽く目を通してこれだけは言える。彼らこそ真の学究の徒であり、ひたすら学術研究に生涯を捧げた人生だった。このような真摯な姿勢の研究家は学界にどれだけいるのだろう?青木健氏を含め、現代日本のゾロアスター教研究者の今後の活躍と成果、発展を願いたいものだ。
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「ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人」
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前者は、多くの者が目指す学問をするので、競争が激しく苦労が多いが、大物がそろっている。後者は、例えば自分自身しか所持しない、欧米の無名の学者の著書を一生研究していて、誰も他には、その著者について研究していないので、何を言っても平気、競争相手もゼロ、それでも学者面して食っていける!と述べた。
小生、結局南極探検型の「ブルガリア研究」専門家、などという方向に行ったのも、皆が研究する方向では面白くない、競争が少ないのも結構、という気持ちがあったと思う。
ゾロアスター教研究も、そういう感じが似ているけど、人類が生み出した色々な宗教、教義なども、研究、対比してみると、更に新しい視点が出てくるでしょう。
そういえば、パールシーの他に、インドにもアルメニア系の商人達がいると思うけど、彼らに関しては、良いブログ記事があるでしょうか?
学者のタイプを、エベレスト登山家と南極探検家の2種類に分類した解釈はとても面白いですね。確かに前者は競争者は多く、当然大物もいるため学界内では振るわずとも、一般人にはそれなりに敬意を払われる。米国留学帰りの英文学者なら、現代はありがたみが薄れたものの、今でもアメリカ通と見なされます。
一方マイナーな分野だと、競争相手もないし気楽な面もある。誰もやっていない分野だと、鶏口牛後よろしくその道の専門家になれるし、中心人物にもなれます。
ブロガーもまた同じで、歴史ブログのトップは日本史なら戦国、幕末、昭和、世界史なら欧米、中国が殆ど。それに対し東欧のブルガリアは一般にインド、中東より知られていないかもしれません。私がインド、中東のような日本ではマイナーな地域に関心を持つのも、他の多くの人がやっていることを調べてもツマラナイ、人と違うことをやりたいという将来のへそ曲がり根性がありました。「歴史ブログ村」に登録しているインド関連記事を書いた他のブロガーさんも、自嘲気味に「もっとも人気のないインドネタ」と言っていました。
インドにもアルメニア系商人がいて、数千人ほどと推定されています。彼らもまたパールシーと同じく西欧の商館のブローカーとして力を発揮、富を築きました。彼らに関するブログ記事は不明ですが、アルメニア史に関心を持つブロガーがいたら、彼らに関しても言及していると思います。
ところで、小生が見つけたアルメニア関係HP(http://armenia.hp.infoseek.co.jp/)では、アルメニア人達が極めて田舎根性丸出しの人々に描かれています:(1)なんでもアルメニア人が世界最高と言い張る(劣等感の裏返し)、(2)同族のアルメニア系でも、諸外国出身の元移民・亡命者を嫌う(韓国人が、在日を差別するように)、(3)特に、アゼルバイジャン(敵国)出身のアルメニア系を嫌う、中でもバクー出身のアルメニア系への差別感情が強い(この強い在外同族への反感は、ブルガリア人の場合には、ちょっと考えられない部分もあるのだが)(4)アジア人など、外国人が珍しいので、じろじろ見つめられてしまう(昔のバルカンでも、外国人が少ない田舎町などでは、そうでした)、など。
まあ、最近までソ連の一部で、国際的な接触が少なかったアルメニア本国では、ありそうな現象です。ブルガリアに関しても、昔は盛んに、ブルガリアこそ世界最高、アメリカ人で活躍している人も、マケドニア系を含めて、少しでもブル人の血が入っていると、彼はブル人だと言って、威張る傾向があった。
最近は、しかし、自国政府に対する失望感が強く、マフィアが牛耳る政治も経済も気に入らないという庶民感情らしい。そのくせ、7月の総選挙では、ボリーソフという元警察官僚・混乱期には自分自身マフィアだった人物が率いるGERB党が勝利を予想されている!
小国の国民感情、民族感情ほど、不思議に、しかも急激に変化します。
インドのユダヤ系で西欧商館のブローカーとして儲けた者もいるでしょうけど、彼らはアルメニアやペルシャ系に比べ、全く影の薄い存在です。おそらくアルメニア、ペルシャ系と違い食の細かいタブーが敬遠されたのかも。インドでユダヤ系は、ポルトガル支配下のゴアは例外ですが、迫害は受けていません。
アルメニア系はインド独立後、欧米に移住した者も多かったそうですが、これも迫害はなく、それへの恐怖からでもなく経済的な理由からでした。なお、ペルシャ系は列強の片棒を担いだのも事実ですが、面白いことに独立運動の中心となる者も輩出しています。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/bc69feacbd05621fa7e20760cfa75cdc
ご紹介されたアルメニア関係HPのご紹介、ありがとうございました!面白そうなサイトなので、じっくり読ませて頂きます。「ユダヤが3人いても、1人のアルメニア人には適わない」との諺もあるそうで、アルメニア人は有能とのイメージがありましたが、このHPに軽く目を通すと、排他性の強い人々の印象を受けました。この封建制は古代から大国に翻弄されてきた歴史もあるのではないでしょうか?古代はローマ、ペルシア、ビザンチン、時代が下るとトルコとペルシア(またも)、さらに近代はロシアが加わる。これでは劣等感が強く排他的になるのは止むを得ない。
イランの少数民族で最大なのはジョルファーと呼ばれるアルメニア系です。彼らはサファヴィー朝時代、イランに強制連行された人々の子孫ですが、彼らに対してもアルメニア本国人はどう見ているのでしょうね?昔見た旧ソ連の映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(アルメニア系)の作品で、結婚初夜の翌日、花嫁の母が鮮血に染まったシーツを皆の前で曝すシーンがあり、これは中東のイスラム圏の風習と同じだと感じさせられました。
とはいえ、小生、国内に少数民族の多いバルカンを見て、問題もあるけど、文化に多様性があって興味深いとも思った。例えば、ユーゴースラヴィア時代、セルビアでも菓子屋はだいたいアルバニア系の商売で、アルバニア人は甘すぎるお菓子(Halva、Baklava、Lokum、Boza、その他)類の名人だったし、トルコ系は、魚料理のレストランなどで腕前を賞賛されていた。
少数民族の村などは、観光面でも珍重されうると思ったし、そういう風に、平和と秩序さえ保ちうるならば、多民族も悪いことばかりとも言えない。
ところが、一神教の国では、やはり「多様性」を尊重し、喜ぶという心情には成りにくいので、多民族共存が成功しうるには、多神教国の方が、本当はうまくいくと思う。
民族主義運動を行ったパールシー女性もいます。カーマ夫人(1861-1936)は1909年頃からパリを根拠にインド独立に向け宣伝活動を開始、シュツットガルトで社会主義協議会の席上、インド独立旗を掲げた事件はインド史で知られています。それに対し、在日や華僑など比較するのも空しいほど。儒教圏の移民は東南アジアはもちろん欧米諸国でもトラブルメーカーなので、まして日本では絶望的でしょう。元から中華思想の彼らは、東夷が自分達に奉仕するのは当然と思っているのではないでしょうか。
バルカンでトルコ系がカバフならともかく、魚料理の腕前を称賛されていたとは意外でした。トルコのお菓子もかなり甘いそうで、バルカンの人々は甘いものを好むのでしょうか?
仰るとおり、一神教世界は全てキリスト若しくはイスラムに染め上げてしまい、「多様性」の尊重は難しいでしょうね。我国の軽薄な文化人は欧米の多様性を讃えますが、西欧でキリスト教が国教となっている国が幾つもあるという実態を無視しています。信仰の自由が保障されているにせよ、異教徒を見る目は厳しいはず。
昔(社会主義時代)、ソフィアの米国大使公邸のパーティーで、イランのアゼルバイジャン系の妻(米外交官の妻)という人が、ベリーダンスを見せてくれたことがあります。
トルコ人が魚料理:バルカンの人は、魚を扱うことをいやがる人が多いので、バルカンにとどまったトルコ系の人は、キリスト教徒と競合しない職種として、これを選んだのではないかと思う。小生は、マケドニアのドイラン湖近くの魚レストランに入ったら、トルコ系の主人で、鱒料理を作ってくれたのですが、焼き時間が最低限に制限されているというか、焼きすぎずに本当の食べ頃で、しかも塩とレモンだけで、実に美味で感激した。ほとんど客はないらしく、我々が行ったら子供を走らせて、パンを買ってこさせるというどたばただったけど、腕は確かでした。
アルバニア人の菓子職人、というのは、特に自分自身が経験はしていないけど、セルビアでは、菓子職人の多くはアルバニア系という定評でした。トルコ系の菓子類は、アラブもそうだと思うけど、日本人は、「脳天を突く甘さ!」というほど、砂糖が利いて、効き過ぎで、水砂糖の使いすぎと思う。だから、トルコ人も、アラブ人も、ブル人も、中年以降は劇的に太る!!バクラヴァーという植物油をふんだんに使ったパイ生地のお菓子に、水砂糖をかけまくったお菓子が典型で、フォークで上手に食べないと、油と砂糖で、手が汚れてしまいます。
ベラルーシは、ロシアの一部だったはずですが、一時は近くにまでオスマン帝国が進出してきていたせいか、文化にはトルコの影響もあり(Halvaというトルコ菓子が、今でも市場で売られている。ブルのハルヴァーに比べて、格段に不味いのだが)、コーヒーがトルココーヒーだったし、トルコ系のホテルが開店したときに、人々はバクラヴァーのお菓子に群がった!
(トルコ系のお菓子に関しては、07年6月の記事:http://79909040.at.webry.info/200706/article_9.html で紹介しました)。
まず、訂正させて頂きます。ジョルファーですが、正確には「イランにおける非ムスリム最大の少数民族」であり、ムスリム系を含めれば最大の少数民族はトルコ系でした。誤解を招く誤った書き込みで大変申し訳ありませんでした。
さて、アゼルバイジャンですが、イラン系からはトルコ系として見られているのかもしれません。トルコ系でも一致団結などしておらず、部族社会で遊牧民もいます。この地は元々イラン系が住んでおり、南下してきたトルコ系と混血が進んだところです。
バルカンの人々って、魚を扱うことをいやがる人が多かったとは意外でした。確かギリシア人は魚介類を豊富に取るはずでしたよね?キリスト教徒は食へのタプーはまずないはずなのに、魚は触れるのもいやがるのでしょうか?
トルコ菓子のハルヴァーですが、イランにも同じ名の甘いお菓子がありますよ。米粉、砂糖、油、サフランが主な材料で、イランの代表的なお菓子だそうですが、もしかするとルーツはこちら?一般にトルコがピラフ発祥と思われていますが、これも実はイランです。それにしても、油と砂糖こってりのお菓子を食べて、メタボにならないのでしょうか?
このへんの妄想(?)的な影響の解明もおもしろそうですねえ。
ロクムの場合は、「デンプン+砂糖+香料+クルミなどの細かく砕いた破片」で、油は入らない。そういう意味で、名前は同じでもイランのハルヴァーは別物かも。もちろん、トルコの食品は、アラブ世界、ペルシャ世界の影響を受けているはずですし、昔のギリシャ、ローマ料理の影響すら混ざっているはずですから、バルカンから中東まで、共通する料理とかお菓子が多く存在して不思議はない。
魚を扱うことを嫌う、というのは、言い過ぎかもしれませんが、基本的にバルカンは牧畜の盛んな社会で、魚との縁は少ない。魚は臭いがあるし、手で触るとぬるっとしたり、やはり臭いがなかなか抜けなかったりで、嫌う人も多い。結局、ブルガリアでは、魚は海岸部をのぞくと、淡水系の鯉、鱒、ナマズなどが主体で、これらは専門の魚レストランで調理される。もちろんキリスト教では、肉食禁止期間もあり、魚はその期間珍重される。
ギリシャでは、魚は確かによく食べると思う。もっとも意外に魚料理点は、肉料理より高価な場合が多く、特に鯛、スズキなどを一匹毎料理してもらうと、昔でも数千円(1万円に近い)とられて、まるで日本並みの料金だと驚いたモノです。エーゲ海は、澄んでいて、すなわち魚影が少ないのではないか、量は取れないのではないか、と思いました。肉は安いのですが。イスタンブールでも、魚の料理は高価らしい。要するに、肉は普通に安価な食物、魚は、特に大型魚は、希少で高価ということ。アドリア海(ドゥブローヴニック)でも、スズキを1匹丸ごと焼いてもらったのですが、結構高価でした!