その①、その②、その③、その④の続き
オランダに順応するため、かなり努力したアヤーンだが、ソマリ人はそれを批難、「白人のように振る舞って、何様のつもりで自分たちを見下すのか」と言われる。その心境を彼女はこう記す。
「多くのソマリ人が福祉手当を受け取りながら、それを与える社会に背を向けていることに私は困惑し、失望さえした。私のなかには氏族の感覚がまだ残っていて、彼らの行為に責任を感じた。彼らが悪事を働きながら、それを認めようとしないことが嫌だった。大げさに自慢して、つくり話や明らかに偽りの共謀説を言いふらすのが嫌だった。
噂話が尽きず、自分たちは外的な原因の被害者だと愚痴をこぼしていることが嫌だった。ソマリ人は決して「ごめんなさい」「私がまちがえた」「わからない」とは言わない。必ず言い訳をする。現実を直視することを避ける集団的な戦略のすべてが、私を憂鬱にさせた……」(296-97頁)
オランダでは同性愛者も教職に就けるが、2001年にTVは、同性愛者の教師がモロッコ系の生徒に虐められている話題を取り上げる。その頃は似たようなニュースが頻繁にあり、新聞を開いては、「またモロッコの青年?」とアヤーンは思っていた。それも当然で、ТVに出たイマーム(宗教指導者)は、同性愛は伝染病だから生徒にうつる、同性愛は人間を脅かすのだ、と説明していた。これを見たアヤーンはもちろんオランダ人が衝撃を受けたのは書くまでもない。
それから間もなく9.11テロが起きる。当時アヤーンの住んでいたエーデの街で、二つの高層ビルに飛行機が突っ込んだ直後にたまたま街中を撮影していたテレビカメラが、ムスリムの子供たちが歓声をあげる場面を捉えたのだ。パレスチナならともかく、オランダでも同じことが起きていたのには驚いたが、その映像にオランダ中が震撼する。
9.11テロに対し、オランダのメディアでも多くの知識人たちが登場、様々な解析を行ったが、アヤーンは彼らを厳しくこう非難する。
「ひどく腹立たしい愚かなアナリストたち、とくにアラブ研究家を自称しているがイスラム世界の現実について何も知らない人たちが、大量のコメントを書いた。どの記事もイスラムの歴史をなぞるだけで、800年前のムスリム学者のほうがよほど詳しかった。イスラムは平和と寛容の宗教であり、暴力はほんの少しもない――それはおとぎ話にすぎず、私の知っている現実のイスラム世界とはまったく関係なかった」(359-360頁)
日本のメディアも姿勢は全く同じで、イスラムは平和と寛容の宗教であり、実行犯は狂った一部の暴徒といったおとぎ話を繰り返していた。イスラムの暴力性を指摘した研究者は、せいぜい池内恵氏くらいだろう。
アヤーンはエピローグでもこう述べている。
「イスラムの価値観は慈悲と寛容と自由だと言う人もいるが、現実を見て、現実の文化と政府を見れば、私にはそうは思えない。このような問題について、西洋の人は表面しか見ていない。彼らは人種差別主義と呼ばれることを恐れ、少数民族の宗教や文化をあまり批判的に検証してはいけないと教えられてきたからだ」(467頁)
アヤーンは調査を続けるにつれ、オランダの非西洋系の移民のなかで、最も社会に統合されていないのはムスリムであるというつらい現実を知ったという。失業者が最も高いのはモロッコ系とトルコ系で、彼らはオランダのムスリムのなかでも最大の民族グループだが、平均的な能力は他の移民グループと大体同じだった。
オランダのムスリムは、社会保障や障害者年金に関する要求が不釣り合いに多く、犯罪に関係する割合も不釣り合いに高かったというアヤーンだが、他の西欧諸国でも似たり寄ったりではないか?
2004年11月、モロッコ系オランダ市民(二重国籍者)によって殺害された映画監督テオ・ファン・ゴッホのことを憶えている人はどれだけいるだろう。彼は短編映画『Submission』を撮ったためにムスリム移民に惨殺されたが、その脚本を書いたのがアヤーン。当然アヤーンも命を狙われ、オランダ政府の厳重な保護下に置かれる。ファン・ゴッホ殺害事件を取り上げているブログ記事があり、オランダの深刻な移民問題の背景が描かれている。
アヤーンの自伝で興味深かったのは、その波乱万丈の半生だけではなく彼女を取り巻く環境や人々だった。そのため今回の記事の大半は、私が印象的だと感じた個所を紹介している。日本や欧米とは全く価値観や風習の違う世界が現実にあるということが改めて分る。
アヤーンには2歳年下の妹ハウェヤがいたが、実に対照的な姉妹だった。長女らしく親に従順で、一途に信仰を求めたこともあるアヤーンと、頭が切れ奔放で信仰や伝統を無視するハウェヤ。だが姉を追ってオランダに来た妹は、自由を手にしてもその重みに押しつぶされ、精神を病んでしまう。オランダの暮らしに耐え切れず、母のいるケニアに戻ったハウェヤだが、そこでも精神状態は回復せず、26歳の若さで病死した。
「不寛容に対する寛容は臆病だ」、アヤーンの言葉である。新しい人生を自らの手でつかみ取った女性に相応しい主張だが、彼女のような強さを持つ人は至って少ないのが人間社会なのだ。臆病のみならず欲からも人間は不寛容に対して寛容になる。「金貨が鳴れば悪口が静まる」という諺もあるのだから。
◆関連記事:「信仰の自由」
「神は妄想である」
「イスラム世界はなぜ没落したか?」
ttp://agora-web.jp/archives/2030491-3.html
で、すわ米仏対決かと思いきや、竹田恒泰が「日本のMe Tooはこれだ」と、ある意味茶化してます。1時間30分辺りから↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=187UzaIoCo0
ですが、相方の有本香が、女であるだけにかなりシビアにきちんとさばいているのは、ダレそうになったこの番組を引き締めています。
翌日の武田邦彦、須田慎一郎のときもとりあげられています(53分辺りから)が、こっちは特にブログ主様には冷たく突き放したくなるのではないでしょうか?
フランスの芸能人の反応は面白いですが、元々知識人からして左右共に反米で盛り上がる所がありますからね。尤も米仏共に「女性が虐げられる日本」叩きでは同じです。リンク先の「虎の門ニュース」で名の出ていたメリル・ストリープなどサウジは非難せず、アルジェやイエメン、スーダン、ナイジェリアと並び日本を女性差別とやり玉に挙げていました。オイルマネーにはハリウッドもダンマリなのです。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/adea46b1a4e1b1df041fa6adee2cddba
昨年発見し、毎回興味深く見ているブログ「無敵の太陽」でも、セクハラ問題を独自の視点で取り上げていました。タイトルは「セクハラの嵐が吹き荒れるアメリカ/リベラル派は女性の味方ではなかった!」「レイプしなかったことへの恨み/セクハラは平等に!」。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68686416.html
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691864.html
また武田邦彦氏は中国よりもアメリカが先に崩壊と放言していますが、「中国の世論操作を排してアメリカに賭けた方が確実に勝てる 」と断言する鈴木傾城氏の方が信用できます。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180106T1554340900.html
噂話が尽きず、自分たちは外的な原因の被害者だと愚痴をこぼしていることが嫌だった。ソマリ人は決して「ごめんなさい」「私がまちがえた」「わからない」とは言わない。必ず言い訳をする。現実を直視することを避ける集団的な戦略のすべてが、私を憂鬱にさせた……」(296-97頁)
まんまお困りの国のニダーさんたちのメンタリティ
でびっくり!
>姉を追ってオランダに来た妹は、自由を手にしてもその重みに押しつぶされ、精神を病んでしまう。オランダの暮らしに耐え切れず、母のいるケニアに戻ったハウェヤだが、そこでも精神状態は回復せず、26歳の若さで病死した。
これは素直に同情。たしかに今までのルールと違う環境に適合し努力を重ね成功できる人ばかりでは
ないものですしね。とはいえみんな「○○が悪い」
ではなあ。戦場で地を流し、仕事でも下層階級
の仕事から信用を積み上げて米社会に適応した
日系人は凄いと思いますよ。
優等生タイプの著者よりも妹の方が自由奔放で我が強い印象でしたが、オランダで適合できなかったのが妹だったのは意外でした。好き勝手に振る舞っていても、内心は情緒不安定だったのかもしれません。
日系人のような移民は至って少ないと思います。パールシーもインド社会に見事に適応しましたし、インド独立運動家を輩出したのは立派です。
但し日系人は協調性がありすぎて、現地に埋没してしまう傾向がありますよね。同教徒との結婚を原則とするパールシーも人口はじり貧。対照的にユダヤは実に強かです。