トーキング・マイノリティ

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神は妄想である その一

2015-03-03 21:40:24 | 読書/ノンフィクション

 図書館から借りてきた『神は妄想である』(リチャード・ドーキンス著、早川書房)を先日読んだ。ドーキンスは英国の進化生物学者・動物行動学者であり、知名度の高い科学者の1人でもあるが、彼の著作を見たのはこれが初めて。この本の表紙裏には以下の解説があり、アマゾンの内容紹介とほぼ同じ文章である。

人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか?物事は宗教が絡むとフリーパスになることがままあるが、なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか?「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか…
利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっているドーキンスは、かねてから宗教への違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、このテーマについて1冊本を書かずにはいられなくなった。「もう宗教はいいじゃないか」と。ドーキンスは科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために。

 古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を学校で教えることに反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。

 原題は The God Delusion。著者によればペンギン英語辞典は Delusion を、「誤った信念或いは印象」と定義しているそうだ。マイクロソフト・ワードに付いている辞書に至っては Delusion とは、「矛盾する強力な証拠があるにも拘らず誤った信念をずっと持ち続けること。特に精神障害の一症候として」となっている。
 ドーキンスはこれらの定義を踏まえ、あえて Delusion の言葉を使っているのだ。キリスト教圏では極めて挑発的なタイトルだし、日本版の副題は「宗教との決別」である。翻訳者があとがきで述べているように、「本書はドーキンスの著作の中でも、いろんな意味で極めて過激なものとして受け止められるであろう」。

 あとがきで翻訳者も指摘しているようにこの書は無神論者宣言なのだが、欧米諸国、殊に米国で無神論者を宣言することがいかに難しいのか、「はじめに」には興味深い例が幾つも載っている。米国人は信心深い者が多く、この国で宗教をからかうことは、米国在郷軍人会館の中で国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べた人物もいる。
 1999年に行われたギャラップ調査は特に意味深い。十分な資格を持つならばどんな候補者に投票するか、米国人に質問した結果はこうだった。女性95%、カトリック94%、ユダヤ人92%、黒人92%、モルモン教徒79%、同性愛者79%、無神論者49%。

 この結果では米国内で無神論者とは、同性愛者よりも支持されない少数派となるが、別の世論調査では無神論者と不可知論者は敬虔なユダヤ教徒よりも遥かに数が多く、他の殆どの特定宗派より数が多いというものまである。特に高い教育を受けたエリートの間では。
 だが、米国で最も影響力のある政治圧力団体のひとつとして有名なユダヤ人協会や、さらに大きな政治力を持つ福音派キリスト教徒と違い、無神論者や不可知論者は組織化されておらず、従って全く影響力を及ぼすことが出来ない、と著者はいう。実際のところ、無神論者を組織するというのは、言ってみれば猫の群を作ろうとするようなものだ、何故なら彼らはそれぞれ独自に考える傾向があり、権威に従おうとしないからだ…ともドーキンスは述べている。

 とすれば、適切な第一歩は進んで無神論者であることを「カミングアウト」し、それにより他の人々がそうするのを後押しすることだろう。たとえ群れをつくることが出来ずとも、十分な数の猫が集まれば大きな声を出せるし、無視は出来なくなるだろうと予測する著者。しかし、米国で「カミングアウト」が如何に殆ど致命的な行為であるか、第2章にはその実例が載っている。
その二に続く
 
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 「私がクリスチャンを非難する理由

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