その①、その②の続き
諸行無常という仏教用語がある。仏教の根本思想をなす言葉だが、少なからぬクリスチャンなら偶像崇拝者の戯言と一蹴するであろう。しかし、徳川政権が誕生した17世紀に入るとキリシタンや日本在住ポルトガル人の環境は一変、まさに諸行無常としか言いようがない。諸行無常はクリスチャンには不適切な言葉なので、キリシタンが迫害を受けたのは神の摂理が相応しい。
文面からクリスチャンらしき人物による、「神の摂理とは何のことですか?」という記事がある。此処での主張の大半は全く同意できないが、クリスチャンならキリシタン迫害も神の摂理として素直に受け入れるべきなのだ。
17世紀にはイギリス人やオランダ人などの“紅毛人”が新たに来日、前者は早々に日本市場から撤退するも、後者はまもなく南蛮人を駆逐、日本での貿易独占権を獲得する。昔読んだ『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳注、岩波書店)には、キリシタン迫害の様子も描かれている。これまで非常に高慢だったポルトガル人が、一転して卑屈になったことも日記には載っている。
日本人だけでなくオランダ人もポルトガル人への虐めに加わり、「何故これ程苛められても日本にいるのか」と嘲る始末。「我らの子供たちにパンを食べさせるため」というのがポルトガル人の返答だった。
人種や宗派は違っていたが、オランダ人は迫害されるキリシタンには同情的な記述もしている。そして日本とスペインの迫害の違いをこう指摘していた。スペイン人は宗教的情熱から行うが、日本人の場合、生理的嫌悪感から迫害をしている、と。
確かに異教徒日本人にとって、キリシタンは既に得体のしれぬ妖術使いのような存在と見られており、弾圧する江戸幕府も彼らの不気味さを強調していた。元から寺社や仏像が破壊したり、ポルトガル人による日本人奴隷貿易に協力したキリシタンにいい感情を持てるはずもなく、迫害を冷ややかに見ていたのは想像に難くない。尤も為政者が反体制側を悪しき存在と喧伝するのは、今も昔も変わりないが。
キリシタン迫害を実行した日本人側だが、クリスチャンが願望的解釈をするようにキリスト教に無知な輩や偽りの神々を信じる狂信的邪教徒とは限らなかった。むしろキリスト教への並々ならぬ知識があり、それ故に危険性を察知したのだ。面白いことに彼らの中には鶏の丸焼きやワインなどの洋食を好み、オランダ人に届けさせた者もいたという。
いくら洋食を口にしても、キリシタン迫害には疑問や罪悪感はなかったようで、多くの日本人と同じく食べ物と信仰は別だったらしい。そして迫害の協力者には転びキリシタンもいた。彼らが迫害に協力した動機は様々あろうが、転んでも容易には信用されず、6代まで(女の場合は3代)監視対象とされた。
こう書くと、世界に類を見ない迫害と非難する者もいるだろう。彼ら彼女らにはイベリア半島におけるモリスコ(カトリックに改宗したムスリム)の例を見よ、と言いたい。モリスコは常に偽装棄教を疑われ、幾ら恭順の姿勢を示しても、結局は1609年から5年にかけてスペインから強制追放された(モリスコ追放)。
モリスコは侵略者の子孫ということもあり、かつての支配階層への報復感情がなかったはずはない。ユダヤ人はイベリア半島がイスラムの支配下にあった頃、支配者に協力的でキリスト教徒より優遇されていたこともあり、彼らはムスリム以上に憎まれた。
インド初代首相ネルーは娘にあてた手紙の中で、鎖国そのものは批判しながらも日本が鎖国に至った気持ちは理解できる、と書いていた。さらに、さして欧州との付き合いがなかったにも係らず、宗教の衣をまとった帝国主義を見抜いていたのは驚くべきことだ、とも付け加えている。ヒンドゥー教もクリスチャンに邪教として弾圧された過去がある。
日本にキリスト教を宣教したため、日本では文句なしに聖人視されるザビエルだが、来日前ゴア(インド)で異端審問所の設立を提言、ゴアに居住していた数多くのユダヤ人が火炙りにされる原因をつくった人物でもあった。迫害はユダヤ人ばかりか、キリスト教徒にも及んでいたことを2012-8-8付で頂いたコメントで初めて知った。
「ゴアではさらに、インドに古くからいたトマス派キリスト教徒が異端として弾圧され典礼が焚書にされたりもしています。主導したのはポルトガル人のゴア大司教Aleixo de Menezes という人です。ポルトガルが来るまでは残っていた貴重な文献がだいぶ失われたらしい」
ポルトガル支配前のゴアで君主はヒンドゥー、ムスリム問わず異端審問が行われたことなどなかった。そして1933年に書かれたネルーの手紙には、未だにネストリウス派キリスト教徒がインドにいたことが記されている。ネルー自身、ネストリウス派などとうに他のキリスト教宗派に吸収され消滅したと思っていたそうで、ネストリウス派がいたことに驚いていた。
その④に続く
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