その①の続き
永田と共に山岳ベースを仕切っていたのが森恒夫。森は果たして何度「総括」と言ったのだろう。常に仲間に自己反省と総括を命じるも、己自身は反省など殆ど口にせず、総括のあるべき具体的な定義は絶対示さない。メンバーから「総括とはどのようなものでしょう」と問われても、自分で考えろ、と怒鳴りつけるか、総括を求めさらに暴行を下すのみ。
映画を見て、共産圏で使われた仲間への呼びかけ「同志」の言葉が全くなかったのに初めて気付いた。森の仲間への呼びかけは軍隊調で威圧的であり、実に粗暴な口の利き方だった。彼らが忌み嫌う旧日本軍の封建的上下関係と酷似しており、リーダーへの絶対服従が求められるのも軍隊同様。森や永田が発言するや、他の者が一斉に「異議なし!」と異口同音に唱えるのも、全体主義体制をまざまざと見せ付けられる。命惜しさが背景にあったにせよ、兵卒クラスが上官に合わせていた旧日本軍そっくりで滑稽だった。あの場でもし「異議あり!」と口にしたら、総括していないと暴行して口を塞いだのは間違いない。結局幹部は「共産化」してなかったのだ。
そもそも、赤軍派は総括の本質は何か、いかなる言動が総括に当たるか、徹底して議論した様子が皆無なのだ。九官鳥のように総括の言葉を繰り返すだけであり、仲間に説得できる説明もない。もし幹部が総括を出来るだけ説得し、異議にも耳を傾ける姿勢があれば、あれ程凄惨なリンチ事件は起きなかっただろう。インド初代首相J.ネルーの著書『インドの発見』に、インド共産党員が飽くことなく革命や階級論争に熱中しているのに、ほとほと閉口したと記されていた。元から論争好きで形而上学、つまり哲学を発展させた国柄ゆえ、空理空論に走る傾向が伺えて興味深いが、同士殺しをするより机上の空論を交わしていた方がマシである。日本人の付和雷同型というか、その場の空気に支配されやすい性質が、最悪のかたちで表れた事件だと感じた。
「連合赤軍リンチ事件」というサイトがあり、詳細な経緯が描かれている。私がこの事件を惨いと思うのはリンチだけでなく、死亡に時間がかかっている点だ。『世界リンチ残酷史』(柳内伸作著、河出文庫)には処刑された2人を除き、死亡するまで平均3.7日要していることが記載されている。赤軍派全員が若者ということもあり、特に女性は4~5日もかかっている。全員で暴行を加え、厳寒の小屋の外に縛って放置、水や食糧もろくに与えず衰弱死するというパターンなのだ。仲間の死を「敗北死」と表現していることから、殺害したという意識を意図的に薄めたのだろう。これでは女は平均1時間程で死に至るイスラム圏の石打ち刑の方が、ずっと“安楽死”ではないか。
男性ゆえか若松孝二監督は、女性赤軍派の死をそれほど陰惨には撮っていない。私は遠山より妊娠8か月で惨殺された金子みちよ(享年24歳)の方を取り上げて欲しかった。妊婦を暴行・虐殺するなど鬼畜の極みだが、金子の死体を映すだけでは不十分な描き方だ。もし赤軍派の闇を描くのなら、惨い場面にせよ若松氏は金子の死に至る経過を撮るべきだった。これではぬる過ぎるし、国家権力に追い込まれた若者たちというスタンスで同調的に描いたと見なされても、仕方がない。
山岳ベースで辛うじて生き残った5名の若者たちは、間を置かずあさま山荘事件を引き起こす。子供時代、TV報道にクギ付けとなった中年世代の方なら憶えているはずで、私が見に行った映画館もこの世代の観客が大半だった。メンバーは人質にした管理人の若い妻に、一応インテリらしく敬語で話しかけていたが、「我々の味方になってほしいとは言いませんが、警察の側の味方にもならないで下さい」と要求する始末。銃を手にした男の言なら、武力による強要そのものであり、国家権力以上に人民を顧みない連中なのが知れる。
またメンバーの1人に未成年の若者もいて、彼の兄は先のリンチ殺人で惨殺されている。妊婦を殺害するほどだから、市民や少年を巻き込むことなど、大義のため当然視していたのだ。
この映画のチラシに、一般に新右翼とされる鈴木邦男氏のコメントが載っていたので紹介したい。
-監督は「闇」の中に飛び込んだ。地獄に光を当てた。「ほら、何処にでもいる普通の若者じゃないか」「夢や理想を持って社会を変えようとするひた向きな若者だ」と。その若者たちが何故、あそこまで行ったのか、それを執拗に追う。(中略)「目を見開いてしっかり見ろ。ここに真実がある。ここに歴史がある」と。
映画を見た感想は十人十色ゆえ、鈴木氏が上記のような意見を述べるのは自由である。ただし、私の見方は全く異なる。赤軍派メンバーは「何処にでもいる普通の若者」などではない。特異な状況下にある若者であり、その状況を作ったのも彼ら自身、国家権力に対する戦士を気取った暴力の輩。それを「ひた向きな若者」と、持ち上げる困った文化人もいるが、ひた向きさはあの事件の免罪符にもならない。ひた向きに同士を虐殺、ひた向きに言い逃れと自己正当化、自己憐憫に終始しているだけだ。
05年6月の拙ブログ記事にコメントされたブロガーさんが、「大学教授の悪口」と題し、背後で煽った者を書かれていた。
-誰かが、後の教授候補が戦死してくれた御蔭で繰り上がった連中が戦後の学会を支配したと言っていましたが、その為にも意地になって社会主義の看板が必要だったのでしょう。加えて、講義の中で革命を煽っておいて退官後には「昔のことですからね」と笑っている老学者がいるとか…。本気になってハイジャックまでやった連中がいたと言うのに…。
◆関連記事:「総括という名のリンチ殺人」「共産主義と私」
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永田と共に山岳ベースを仕切っていたのが森恒夫。森は果たして何度「総括」と言ったのだろう。常に仲間に自己反省と総括を命じるも、己自身は反省など殆ど口にせず、総括のあるべき具体的な定義は絶対示さない。メンバーから「総括とはどのようなものでしょう」と問われても、自分で考えろ、と怒鳴りつけるか、総括を求めさらに暴行を下すのみ。
映画を見て、共産圏で使われた仲間への呼びかけ「同志」の言葉が全くなかったのに初めて気付いた。森の仲間への呼びかけは軍隊調で威圧的であり、実に粗暴な口の利き方だった。彼らが忌み嫌う旧日本軍の封建的上下関係と酷似しており、リーダーへの絶対服従が求められるのも軍隊同様。森や永田が発言するや、他の者が一斉に「異議なし!」と異口同音に唱えるのも、全体主義体制をまざまざと見せ付けられる。命惜しさが背景にあったにせよ、兵卒クラスが上官に合わせていた旧日本軍そっくりで滑稽だった。あの場でもし「異議あり!」と口にしたら、総括していないと暴行して口を塞いだのは間違いない。結局幹部は「共産化」してなかったのだ。
そもそも、赤軍派は総括の本質は何か、いかなる言動が総括に当たるか、徹底して議論した様子が皆無なのだ。九官鳥のように総括の言葉を繰り返すだけであり、仲間に説得できる説明もない。もし幹部が総括を出来るだけ説得し、異議にも耳を傾ける姿勢があれば、あれ程凄惨なリンチ事件は起きなかっただろう。インド初代首相J.ネルーの著書『インドの発見』に、インド共産党員が飽くことなく革命や階級論争に熱中しているのに、ほとほと閉口したと記されていた。元から論争好きで形而上学、つまり哲学を発展させた国柄ゆえ、空理空論に走る傾向が伺えて興味深いが、同士殺しをするより机上の空論を交わしていた方がマシである。日本人の付和雷同型というか、その場の空気に支配されやすい性質が、最悪のかたちで表れた事件だと感じた。
「連合赤軍リンチ事件」というサイトがあり、詳細な経緯が描かれている。私がこの事件を惨いと思うのはリンチだけでなく、死亡に時間がかかっている点だ。『世界リンチ残酷史』(柳内伸作著、河出文庫)には処刑された2人を除き、死亡するまで平均3.7日要していることが記載されている。赤軍派全員が若者ということもあり、特に女性は4~5日もかかっている。全員で暴行を加え、厳寒の小屋の外に縛って放置、水や食糧もろくに与えず衰弱死するというパターンなのだ。仲間の死を「敗北死」と表現していることから、殺害したという意識を意図的に薄めたのだろう。これでは女は平均1時間程で死に至るイスラム圏の石打ち刑の方が、ずっと“安楽死”ではないか。
男性ゆえか若松孝二監督は、女性赤軍派の死をそれほど陰惨には撮っていない。私は遠山より妊娠8か月で惨殺された金子みちよ(享年24歳)の方を取り上げて欲しかった。妊婦を暴行・虐殺するなど鬼畜の極みだが、金子の死体を映すだけでは不十分な描き方だ。もし赤軍派の闇を描くのなら、惨い場面にせよ若松氏は金子の死に至る経過を撮るべきだった。これではぬる過ぎるし、国家権力に追い込まれた若者たちというスタンスで同調的に描いたと見なされても、仕方がない。
山岳ベースで辛うじて生き残った5名の若者たちは、間を置かずあさま山荘事件を引き起こす。子供時代、TV報道にクギ付けとなった中年世代の方なら憶えているはずで、私が見に行った映画館もこの世代の観客が大半だった。メンバーは人質にした管理人の若い妻に、一応インテリらしく敬語で話しかけていたが、「我々の味方になってほしいとは言いませんが、警察の側の味方にもならないで下さい」と要求する始末。銃を手にした男の言なら、武力による強要そのものであり、国家権力以上に人民を顧みない連中なのが知れる。
またメンバーの1人に未成年の若者もいて、彼の兄は先のリンチ殺人で惨殺されている。妊婦を殺害するほどだから、市民や少年を巻き込むことなど、大義のため当然視していたのだ。
この映画のチラシに、一般に新右翼とされる鈴木邦男氏のコメントが載っていたので紹介したい。
-監督は「闇」の中に飛び込んだ。地獄に光を当てた。「ほら、何処にでもいる普通の若者じゃないか」「夢や理想を持って社会を変えようとするひた向きな若者だ」と。その若者たちが何故、あそこまで行ったのか、それを執拗に追う。(中略)「目を見開いてしっかり見ろ。ここに真実がある。ここに歴史がある」と。
映画を見た感想は十人十色ゆえ、鈴木氏が上記のような意見を述べるのは自由である。ただし、私の見方は全く異なる。赤軍派メンバーは「何処にでもいる普通の若者」などではない。特異な状況下にある若者であり、その状況を作ったのも彼ら自身、国家権力に対する戦士を気取った暴力の輩。それを「ひた向きな若者」と、持ち上げる困った文化人もいるが、ひた向きさはあの事件の免罪符にもならない。ひた向きに同士を虐殺、ひた向きに言い逃れと自己正当化、自己憐憫に終始しているだけだ。
05年6月の拙ブログ記事にコメントされたブロガーさんが、「大学教授の悪口」と題し、背後で煽った者を書かれていた。
-誰かが、後の教授候補が戦死してくれた御蔭で繰り上がった連中が戦後の学会を支配したと言っていましたが、その為にも意地になって社会主義の看板が必要だったのでしょう。加えて、講義の中で革命を煽っておいて退官後には「昔のことですからね」と笑っている老学者がいるとか…。本気になってハイジャックまでやった連中がいたと言うのに…。
◆関連記事:「総括という名のリンチ殺人」「共産主義と私」
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いかに妥協点を見つけるかという政治の世界に原理主義的なイデオロギーを持ってくると内ゲバは必死です。
もっとも、いつでも上層部がやっているのはただの個人的な権力闘争なので妥協なぞなくイデオロギーを手段に使っているだけなのですが。
あと、軍隊の上下関係の厳しさは、部下が兵器を持つ(=いつでも後ろから上官を撃てる力を持つ)ことと対応しています。
リンチした人間に自分の背後をあずける覚悟がなければ殺すしかありません。
私は生まれていないので、当時の世相はわかりませんが、「革命ごっこ」に興じている者は、現実を理解せず、ただ、革命という名の美酒に酔っていただけかもしれませんね。
これは、日本中で一番有名な、ロボットアニメの中での台詞ですが、中々核心を得ているように思えます。
「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない」
「しかし革命のあとでは、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を退いて世捨て人になる。」
少なからず血が流れたものの、明治維新という名の革命を、比較的平和裏に行った我が国・国民は、そんなにも残虐にはなりえないのかもしれませんね。
(軍隊内で、教育という名のイジメは、確かに、旧日本軍にもあったでしょうけど。現在も徴兵制がある、某近隣国家に比べれば、まだ、マシなのかもしれませんね)
仰るように、中国やフランスと異なり日本の一般国民がひいてしまったのは、時代ばかりでなく民族性もあるのかもしれませんね。
名は忘れましたがある文化人は、安保闘争で死亡した東大生の樺美智子さんの例を挙げ、女子学生1人の犠牲で騒ぐ日本人には革命は出来ないと言っていました。
子供の頃、何故赤軍派仲間で殺しあったのか不可解でならず、この映画を見ても分りませんでしたが、やっと原因が分りかけました。
赤軍派も革命を目指すため武器を所持しており、その点では軍隊と同じです。
>こんばんは、Marsさん。
事件が起きた当時、私はまだ小学生だったので当然理解は出来ませんでしたが、それでも山荘の管理人の若い妻を人質にした赤軍派にはすごい嫌悪感を覚えました。あれが日本の学生運動への決定的なイメージダウンだったはず。
アニメの台詞といえ、バカに出来ませんね。名は忘れましたが、「インテリは革命家にはなれない。過激派になるのが関の山だ」と言った人もいます。確かに赤軍派は革命家ではなく、過激派となりました。
以前、コメントやTBを送ってきた元左翼のブログを見たら、活動期間が1980-82年の間で、殆どサロン的な雰囲気だったにも係らず内ゲバはあったと記されていたのに、ゾッとしました。 共産主義の暴力的本質を見た思いですが、仲間に暴力を振るう行為の何処に知性があるのでしょう?クズそのものですよ。
軍隊内のイジメなら、どの国にもあると思います。映画『フルメタル・ジャケット』にも気の弱そうな新兵がイジメに遭い、上官や仲間を射殺、自分も自殺するシーンがありました。ソ連邦崩壊直後、軍隊内でリンチが頻発し、多くの新兵が死亡したとか。
全体主義や粛清なんてのは許されないことだけど、右にせよ左にせよ、傾き過ぎたら同じ道をたどるんでしょうね~
どちらかというと左向きの俺かもしれないけど、イデオロギーの議論以前に人の命の尊さを議論する人がいないことに呆れてしまいましたよ。最初は反戦運動から始まったはずなのに・・・
イタリア元首相モロ誘拐殺人を行った極左集団「赤い旅団」を描いた映画『夜よ、こんにちは』に、「革命の為なら、自分の母親も殺す」と叫んだメンバーもいました。たとえスローガンにせよ、あまりにも物騒です。
反戦運動も今となっては、平和主義を装うフリをしていたとしか思えませんね。本当に人道主義者なら、「銃による殲滅戦」など、口にしないはずですよ。「敵を殺すのはまだ人だけど、仲間や同胞を平然と殺すのなら、もう人ではない」と以前コメントされた方がいました。
体制側が警察、軍事力を抑えているため、どうしても革命は暴力的になるのでしょうね。この先も革命家は暴力を必要とするでしょう。
だからこそ人間は懲りもせず同じような過ちを繰り返すのですが・・・
なんにしろこの映画だけで全体を理解するのは不可能です
当事者の書いた本がいくつか出ているので読んでみてください
もちろん、この映画だけであの事件の全てが理解出来るとは私も思っておりません。
あの上映時間内では到底描ききれる内容のものではないし、監督の意向もあり、スタンスにより解釈はかなり異なってくる。そう仰るあなた自身、あの事件をどれだけ把握されているのでしょうね。
当事者の書いた本にせよ、赤軍派に限らず人間は自己正当化と弁護が強く働くので、それが全てを物語るとは到底言えません。総括や反省したフリをしつつ、少しでも己に有利な証言やプロパガンダを図る目的もあると私は睨んでいます。それを赤軍派シンパは針小棒大に拡大解釈、“不通の若者”による善意あふれる反国家闘争とでもこじ付ける。当事者の本を鵜呑みにするのは単純極まる見方ですが、どうもあなたは当事者の書いた作品をそっくり信用したいようですね。
>>だからこそ人間は懲りもせず同じような過ちを繰り返すのですが・・・
それは赤軍派のような連中も全く同じでしょう。いや、むしろ彼らの方こそ、市民革命も暴力革命を未だに夢想しているのではないでしょうか。共産圏では“赤い貴族”以外味わえなかった美味いビールでも飲みながら。