「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 79

2016-10-29 23:49:04 | 日本文学の革命
インターネットは情報のメディアだと言われているが、情報とはいったい何なのだろうと考えてみると、それは「生き方のデジタル化」だと言えるように思える。一人の人間が右か左かの岐路に差しかかり、その際どちらに行った方がより「合理的」か、それを教えてくれるものが情報なのである。今この株を買った方が得か損か、どちらが「合理的」なのか。この製品を生産した方がいいのか悪いのか、どちらが経営的に「合理的」なのか。この商品とあの商品どちらを購入した方がお得なのか(つまり生活的に「合理的」なのか)。今日は傘を持っていけばいいのかどうか、どちらが「合理的」なのか(これなどはまさにお天気「情報」が教えてくれるものである)。
このような様々な情報から的確な情報をつかみ出し、より「合理的」「合目的」な選択をし、「生き方のデジタル化」を行ってゆくことができる。特に事情通などは、誰もが見過ごしてしまう情報の切れ端からでも全体の状況をつかみ、株価を操作したり、政権の行く末を見抜いたりして、的確な行動をするものである。

しかし「合理的」「合目的」な「デジタル」的生き方は、決して人間のすべてではないのである。むしろ表層的なものだと言ってもいい。
たとえば人生の岐路に差しかかり、自分はこれからどういう生き方をすべきか、たとえば会社員として生きるかそれとも芸術家を目指すべきか、などという問いは、決して合理的合目的に答えられるものではなく、その人の「人生の決断」でありその選択なのである。あるいは結婚前の女性が、誰と結婚した方がよりお得で幸せになれるのか、この人かあの人かそれともまだ現われていない誰かなのか、と合理的に判断を下そうとしてもおそらく無駄で、それを決定するのは運命の力であり、また彼女自身の内なる声「人生の決断」なのである。そもそもこのような人生の深部においては合理主義的な尺度自体存在しないのである。幸せな喜劇を生きるよりも不幸せな悲劇を生きる方が、しばしばより深く人生を生きることにもなるからである。
インターネットの情報的読み物が、情報的には有益なのだろうが、どうしても表層的で、切れ端的で、こちらの魂に応えてくれるものがないのも、その「生き方のデジタル化」的性格が反映しているからなのかも知れない。

とここまで来て思いついたのだが、インターネットは合理主義的情報のメディアとしての性格を持っているのだが、事実上は必ずしもそうなっていないということである。つまり先に述べたネット上の情報の混乱、混沌、無秩序さとデタラメさと猥雑さである。つまり2チャンネル的なものである(素の人間どもの表れだと言ってもいい)。こういうものがネット上で氾濫している事実があり、合理主義的な情報を嘲笑うかのように跋扈しており、理性的な判断など低俗な情念で押し流してやろうとしている現実である。インターネットは合理主義的メディアとしての性格を持っている半面、それに反抗するような非合理主義的な混沌さも合わせ持っているのである。そうなると先ほど述べた「2チャンネルはメディアとして機能していない」という発言は撤回しなければならず、インターネットのそういう混沌とした面、非合理主義的な面を共有し合う一つのメディアとして機能していると言うべきだろう。(ただこれも浅薄という性格は共通しているが)


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