「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

勝利を確信

2007-08-27 00:17:58 | 日本文学の革命
最後の本丸を攻め落とそうと攻撃を続けている
たいへん苦しい
何度もあえなく撃退され、そのたびにひどく落ち込んでしまう
今日も朝からガツンとやられて、半日くらいぶっ倒れるように寝ていた

それから気力をふり起こして机に向かうと『罪と罰』の分析に取りかかった
前から何度も読んでいた本だが、ドストエフスキーの“会話”の秘密を探りたくて、あらためて読み返したのだ

午後の6時ころ全部分析できて、疲れたのでひっくり返って寝た
2時間ほど寝て、目を覚ましたあと、どうすればこの本丸を攻め落とすことができるか、突破口はどこか、どこに新しい文体が眠っているのか
そんなことをぼんやり考えていた
朝からの絶望的な思いが続いていた

そのようにして1時間2時間考え続けていると、だんだんと見えてきた
突破口が見えてきたのである
最後の本丸を攻め落とせる、具体的な文体に通じている、決定的な突破口である!

すべてが一つに結ばれた
すべてがこの一点を指し示してる
これなら出来るぞ
突破できる!

どうやら勝てそうだ(笑

今 テレビでやってる桑田佳祐のライブを見ながらこれを書いている
桑田佳祐も今でも元気に闘っているなあ(実に94年から13年も闘い続けている)

彼からどれだけ鼓舞されてきたか分からない
僕も見習って闘い続けよう

外堀突破! 残すは本丸のみ

2007-08-14 16:21:08 | 日本文学の革命
最後の城に向けて総攻撃をかけたが、予想していた通りたいへんな苦戦となった
何度攻め寄せても撃退ばかり
歯が立たないというか、城に取りつくこともできない有様だった

「これはもうダメだ」「もう諦めよう」「このまま死ぬのはご免だ。もう降参しよう」
そう思うこともしばしばだったが、そのたびに懸命に自分を奮い立たせて攻撃を続けてきた
「今ここで諦めたら漱石の文学事業は永遠に未完成に終わってしまうぞ」「日本文学もこのまま衰亡してゆくだろう」
「せっかく起こった反外国主義運動も虚しく消えてゆく」「古い日本が(しかも時代遅れの!)いつまでも続くことになり、それがまた日本を新たな破滅へと導くかもしれない」
「おまえのちっぽけな命などすべて捧げてかまわないから、なんとしても成し遂げるんだ!」

ともすると逃げ出そうとする自分をそう叱咤激励して、辛抱強くがんばってきた
そしてなんとか目途がついてきた


具体的には三方向から攻めていたのだが、一つは「日本の韻律文学」だ

和歌―能―歌舞伎―俳句(さらには現代の演歌まで)と続く韻律文学の流れを第一の韻律文学と呼んでいる
この韻律文学は古代の大和言葉の音律構造をもとにして形成されたものだが、それぞれが歴史的にどのように形成されたか、どのような文化的内容を持っているか、それを明らかにしようとしてきた

日本の韻律文学にはもう一つ、平家物語―太平記―南総里見八犬伝と続く流れがある
これは漢文読み下し文と漢字音をもとにして形成されたもので、これを第二の韻律文学と呼んでいる

この第一と第二の韻律文学―それぞれ公家の伝統と武士の伝統を体現しているもの―、それが日本の歴史の中でどのように対立・共存し、一つの構造を成して発展してきたか、これが主要な研究テーマだった(よく僕が口にしている「自然随順の体制」とはこの構造のことに他ならない)

そして最も重要なことは、この二つの対立する伝統が融合できないかということだ

この公家と武士の二つの伝統― 実にしばしば敵対し、相手を押し潰さなければやまないという骨肉の関係にあるもの(これは現代でも相変わらず行われている。たとえば外国主義は公家の伝統が武士の伝統を押し潰そうとするものであり、先ごろの太平洋戦争は武士の伝統が公家の伝統を押し潰そうとしたものである)
この二つの伝統、二つの韻律と生命の流れが融合したところに「則天去私」が開けると考えているのだ
対立や押し潰しあいではなく、融合と協調の道を開きたい。それを可能にするような第三の韻律文学を築きたいのである


もう一方向は「シェイクスピア―ゲーテ―ドストエフスキー路線」と呼んでいるものだ
なんだか無関係な作家を並べ立てたように見えるが、この三人の文体には非常に興味深い類似性が見られるのである
シェイクスピアが伝統を築き、それをゲーテ、ドストエフスキーがそれぞれに変容させながら受け継いでいった流れで、これが西洋の韻律文学の主要な流れを形成しているのである

シェイクスピアは人間の生きた会話のうちに韻律を見い出し、ゲーテは人間の自然の声ともいうべき民謡のうちに、ドストエフスキーは驚くなかれ精神異常者の支離滅裂な言動のうちに韻律を見い出して、それぞれに立場の違いがあるのだが、本質的なところに共通した流れがある
ドストエフスキーなどはある意味シェイクスピアの文体にそっくりと言ってもいいほどだ

こういう流れがあるのならば、こういう多様な文学を生み出してきた流れがあるのならば、あと「もう一つ」ぐらいここから引き出すことができるかもしれない
それを期待しているのである


最後に最大の攻撃ポイントは、なんども言うように漱石の『文学論』である
『文学論』の中心テーマである「仏教と文学の融合」を成し遂げたいのである

東洋の最も深遠な思想である仏教と西洋文明の華ともいうべき西洋近代文学
この二つを融合したところに開ける新しい言語観、新しい文学

漱石がやろうとしていたこの事業を継承して、なんとか実現したい

則天去私は「仏教と文学の融合」という側面を持っている
先に述べた公家の伝統と武士の伝統、和文と漢文の融合と並んで、これこそが則天去私を生み出すと考えているのだ

いずれ劣らぬ難しい課題だが、粘り強く続けてきたおかげで、もうすでに大半ができている
あとはたった一つの“決定的な発想”さえ訪れてくれたなら、一挙にすべてが解決する、という所まで来ることができた
いわば城の外堀を突破して城内に入り込み、残るは本丸を攻め落とすだけ、という状態なのだ

あと残すは本丸のみ
たった一つの発想、決定的なインスピレーション、それさえ訪れてくれたなら
落とすことができるのである