ウィーン国立歌劇場: ワーグナー「ワルキューレ」

ジークムント: クリストファー・ヴェントリス
ジークリンデ: ペトラ・ラング
フンディンク: アイン・アンガー
ヴォータン: トマス・コニエチュニー
ブリュンヒルデ: ニーナ・シュテンメ
フリッカ: ミヒャエラ・シュースター、他

演出: スヴェン=エリック・ベヒトルフ
指揮: アダム・フィッシャー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場舞台オーケストラ
(2016年11月12日 東京文化会館)

 ウィーン国立歌劇場は、世界のオペラハウスの頂点に位置する。その歌劇場が、9度目の来日で初めて「ニーベルンクの指輪」中の作品を取り上げるのだという。
ワーグナーの「指輪」は、その普遍的なテーマ性から、近年は様々な解釈上の工夫がなされている。ただウィーンは、比較的保守的であり、大きな冒険は期待できない。また指揮者のアダム・フィッシャーは、日本ではあまり知られておらず、私は実演はおろか録音でも聴いたことがない。まさかウィーンが日本にまで来て、交通整理的な演出と指揮で、ファンが心待ちにしている「ワルキューレ」の公演をしてみせる、とは考えられない。しかし、それがどういう個性を打ち出したものになるのか、チケットは買ってはみたものの、私は正直、想像もつかなかった。
結果的には、世界最高のオペラハウスという名にふさわしい、素晴らしいものだった。ウィーン国立歌劇場はこのオペラを、登場人物、特に主神ヴォータンの支配者としての立場と改革者としての立場からくる相克のドラマとして描き出した。それも苦悩する感情をえぐりだすほどのレベルで、オーケストラの表現力を最大限に使った圧倒的とも言えるものだった。それにより、私自身まだよく分かっていない「ワルキューレ」というオペラに対する理解を、格段に深めることが出来たような気がした。

アメリカで、次期大統領としてトランプ氏が選出された。反対派の中には、ポピュリズムに流されやすい民主主義というものの欠点にまで言及する人々がいる。今後どうなるかは分からないが、人間が自分たちの支配者、指導者をどう選ぶのかは、どの時代にあっても大問題だ。ワーグナーが「指輪」全体でテーマとしたのは、このようなことだ。

旧社会では、支配者は、家柄、門地で決められた。それを支えたのは、「婚姻」だ。支配者の婚姻は、愛ではなく、特別な政治的配慮から決められた。ワーグナーはこのような婚姻のことを「指輪」では、「愛のない結婚」と表現している。それが次第に、自由な意思を持った人々による自由な恋愛、すなわち「愛のある結婚」により取って代わられ、旧社会の多くが自由な意思を持つ人々の集合である共和制などの新社会システムに取って代わらていく...
「ワルキューレ」に登場する人物はヴォータンを除いて13人だが、このうち11人までがヴォータンの子、それも婚外子だ。残りは、ヴォータンの正妻のフリッカと、ジークリンデを力づくで正式の妻としているフンディンクだ。「ワルキューレ」のドラマは、まずこの婚姻関係を巡る2つのグループの対立軸を基底としている。
ヴォータンは、「愛のない結婚」に基づく神々の支配がやがて没落を迎えると感じており、自由な意思を持って行動し、愛を持って女性を妻とする英雄(つまりは、主神としての自分の後継者)の出現を待望している。そしてそのようなものとして、人間女性との間にジークムントを生み出した。しかし妻のフリッカから、いかにジークムントが自由に見えようとも、しょせんは神々の庇護に守られている奴隷に過ぎない(つまり、いかに傑出していようとも、婚外子には王位継承権がない)と指摘される。ヴォータンは深く絶望し、神々には未来はなく、フリッカの言うように、神々の奴隷に過ぎないジークムントに生きながらえるよりは死を与え、愛を諦め指輪を狙っているアルベリヒの一族(ニーベルンク族)に世界が支配されたほうがよいと言い出す。
しかし、これがヴォータンの真意ではないと感じたブリュンヒルデは、父親の命令に反し、ジークムントを生かそうとする。これはヴォータンの逆鱗に触れ、ヴォータンは、神性を剝奪したうえブリュンヒルデを家柄も門地もない通りすがりの男に任せるという罰則を与える。ブリュンヒルデは、せめて通りすがりの男は勇敢であるよう、自分を炎で囲んで欲しいと嘆願し、ヴォータンはブリュンヒルデを炎で囲んで別れる。

「ワルキューレ」の主人公は誰だろう?
この長い公演を通じて格段の表現力を持つオーケストラが渾身の大音響を出した場面は2つで、第1幕のフィナーレでもワルキューレの騎行でもなく、1つはヴォータンが神々の没落を覚悟して深く絶望する場面、もう1つはヴォータンがブリュンヒルデに最後の別れを告げる場面だ。そうでなくとも、オーケストラの表現力はすべてのヴォータンの出番において傑出していた。
ヴォータンがフリッカに言われてジークムントの死に同意する場面の解釈として2つあると思う。1つは、ヴォータンは神々の世界における正式な婚姻関係の重要性に改めて気づかされて、フリッカの側に寝返った、というものだ。台本を見る限り、この解釈に無理はない。フリッカに約束したジークムントの死はやむを得なくとも、ブリュンヒルデに対する罰則がどう考えても厳しすぎるからだ。この場合は、ヴォータンの当初の意図は劇の途中でブリュンヒルデに引き継がれるのであり、その時点で主役は、無力なヴォータンから強い意志を持ったブリュンヒルデに移ると考える。これは「ワルキューレ」というタイトル通りの解釈であり、事実そう解釈している人も多い。
もう一つの、そしてこの公演がとっている解釈は、ヴォータンがフリッカに屈したのは表面上だけで、ヴォータンはジークムントを最後まで愛おしかったし、ブリュンヒルデも最後まで愛していた、というものだ。この場合は、台本の読み方はかなり凄まじいものとなり、ヴォータンは本心と言っていることがまるで正反対、ということになる。 ヴォータンは、内面の葛藤の塊のような人物であり、王者の苦しみを体現している。(ブリュンヒルデに対する厳しい罰則の真意は依然としてよく分からない)
この公演では、第2幕でジークムントが殺されたたあと、ヴォータンはその亡骸の前に膝まづき、悲しみを表現する。そして第3幕では、仰向けに寝るブリュンヒルデに対し抱きかかえるように体を重ね、まるで性愛を表現しているかのようだ。最後、「その唇に口づけをしよう」と歌うところでは、本当に口づけをするかと思った。そして大きく手を広げて、ブリュンヒルデを抱擁した。私はそこに、ジークムントとブリュンヒルデの2人の子に対する愛情を最後まで持ち続ける神々の長ヴォータンの姿を見る思いがして、「これがウィーンの『ワルキューレ』であり、アダム・フィッシャーの『ワルキューレ』だ」と思った。

ちなみに、ウィーンにとって「指輪」は、他人事とは思えないだろう。ここに描かれた神々とは、ウィーンにとってみればオーストリア帝国でありハプスブルク家だ。当時の皇帝、フランツ=ヨーゼフ1世(在位1848-1916年)は、国父とも言われるほど国民に人気があった。しかし唯一の直系の世継ぎ、ルドルフ皇太子は、精神が不安定なうえ女性関係が華やかで、そのうちの1人と心中まがいの変死を遂げる。政略結婚で勢力を拡大してきたハプスブルク家は、その末期に世継ぎの問題と自由恋愛をコントロールできずに崩壊の危機に立たされていた。

歌手の中では、何といってもヴォータンを歌ったコニエチュニー。この人は春祭の「ジークフリート」ではアルベリヒを歌い、その時にも悪の性格描写と恵まれた声に感心したが、今回は、悪人のほうが似合いそうな声質で、愛情あふれる本心をなかなか垣間見せない王者ヴォータンの苦渋を見事に歌ってみせた。オーケストラが全開でも決して負けない声量は、見事の一言だった。
アダム・フィッシャーの指揮は、1幕では全く意図不明でイライラしたが、2幕以降では次第にこの人のドラマと感情表現に重きを置いた解釈に引き込まれ、感動した。2幕はシュースターのフリッカが、目の覚めるような切れ味を見せてよかった。また8人のワルキューレは、それぞれがハリと伸びのある声で、重唱となる部分では特に迫力があった。

舞台は、情けなるほどの簡素な舞台。本場の大道具を全部持ってくるのは無理だったのだろう。オーケストラも、オーラは今一つだったように思う。そのためか、聴衆の反応も熱気がこもらない。
しかしながら私自身は、豊かな響きの弦楽器を聴くだけでもウィーンを堪能し、2度のクライマックスの大音響では忘れえぬ感動を覚えた。

 

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