モーツァルト: 歌劇「イドメネオ」

イドメネオ: 与儀巧
イダマンテ: 山下牧子
イリア: 新垣有希子
エレットラ: 大隅智佳子 他

演出: ダミアーノ・ミキエレット
指揮: 準・メルクル
合唱: 二期会合唱団
管弦楽: 東京交響楽団
(2014年9月14日、新国立劇場、東京二期会公演) 

 モーツァルト24才の時に作曲したオペラ・セリア(正歌劇)の、元気いっぱい、現代風「読み替え」演出による、驚き連続の公演。演奏は、現代楽器による活気にあふれたもので、エンターテインメントとしては大変に楽しめた。
オペラ・セリアというのは、オペラ・ブッファに対置されるバロック・オペラの一形式で、主にギリシャ・ローマに題材をとり、時に生死を分けるほどのシリアスな状況を描くが、必ずしも悲劇というわけではなく、この「クレタの王イドメネオ、またはイリアとイダマンテ」も最後はハッピーエンドだ。
モーツァルトのオペラ・セリアとしては他に、「皇帝ティトの慈悲」などがあるが、「イドメネオ」はモーツァルトに限らず、あまり有名作品のないこのジャンル全体の代表作と言ってよい。モーツァルトの3大オペラにも、5大オペラにも含まれないが、7大オペラという時にはその一角を占める。

24才というのは、モーツァルトのザルツブルク時代の最末期で、交響曲やピアノ協奏曲の傑作群は次のウィーン時代を待たなければならないが、既に青春の息吹あふれる瑞々しい傑作「ポストホルン・セレナーデ」をものにしており、この「イドメネオ」も、覇気に富んで若々しく、オーケストラに対する要求度も高いなど、大変な意欲作だ。
ただオペラ・セリアの常道として、女声が多く、男声もテノールが中心というように、響きには独特なものがある。また、主役級のイダマンテを歌うカストラートが、現代では使えないことも演奏上、鑑賞上の障害となる。

オペラ・セリアという分野は、音楽史においては長い間顧みられなかった。今日、バロック・オペラの復活上演は世界的な流れになっており、それに伴ってこの「イドメネオ」の上演の機会も増えているという。
オペラ・セリアの依頼主や観客は、主に封建貴族であった。世襲制の封建貴族にとって最大の関心事は、王位の継承であり、そのための家族愛、特に父子の絆だったろう。 そして最大の試練は、この家族への愛と、国民の幸福が相反するような時にやってくる。
トロイ戦争に勝利したクレタの王イドメネオは、国民の平和のために、王子イダマンテを生贄として海神(ネプチューン)に差しださなければならない状況に置かれて深く苦しむ。しかし最後は、王子イダマンテを慕うかつての敵国トロイアの王女イリアの愛に天が動かされ、すべてがハッピーエンドとなる。(話はそれに、同じくイダマンテを慕い、イリアに嫉妬するエレットラが絡んで進行する)
こういう物語の構図は、ずいぶん現代人の関心から外れているように見えながらも、実は多くのパニック映画(例えば最新版の「ゴジラ」)に非常に良く似ていたりする。そこでは男女間の愛よりも、むしろ家族愛(特に夫婦愛や父子愛)が好まれている。
今回の鬼才ミキエレットによる海外で評判を呼んだという演出も、まさに海神をテロや感染病に見立て、父子愛をそれに対置させたパニック・オペラというに相応しいものだった。 

指揮は、とにかくテンポが快調で元気いっぱい。準・メルクルは、フランス物のイメージがあったが、実はミュンヘン生まれの日系ドイツ人だ。序曲が始まった瞬間から、東響からドイツ的な響きをよく引き出していたので、これはいけると思った。現代楽器の強みを徹底して追求し、レシタティーボ・セッコもチェンバロではなくピアノ伴奏という表現力重視の演奏だった。東響も、管楽器の表現力に加え、この日は弦も非常に雄弁だった。

歌手では、何といってもエレットラを歌った大隅智佳子の歌唱力と演技が印象的。もともと「イドメネオ」で真実の人間感情を歌っているのは、嫉妬のかたまりのようなエレットラだ。終幕の最後の方のアリアは、「魔笛」の夜の女王のアリアを思わせるほど迫力があった。あとはイドメネオを歌った与儀巧が、王の包容力と威厳をよく表していたと思う。イダマンテの山下牧子も、朗々とよく伸びる声で存在感があった。

そして今回の最大の話題が、ミキエレットによる神話を離れて、現代に読み替えた演出だ。私はこの手の読み替え演出は苦手だが、今回は現代人の関心に沿って場所・時代も古代ギリシャから離れて抽象化しており、非常によく考えられている演出だと思った。ただ、イリアが登場時から妊婦で、エレットラの嫉妬が愛情からよりは王位継承の妬みからくるように見えたり、最後にはパントマイムでイリアの出産シーンがありイドメネオ家系の繁栄が示唆されるなど、やはり封建時代の王位継承劇?と思わせるような場面もあった。私はせっかくここまでやったのなら、現代人には興味のない王位継承はもう表に出さなくていいのでは、と思った。しかし、スペクタル志向の指揮の演奏スタイルとは、よく合致していたと思う。最後のバレエはなかったが、バレエ音楽は演奏され、何かスペクタル映画のバック音楽のようにも聴こえた。
私自身としては、依然として古楽器による古典的な構成感を持った演奏に惹かれるが、今回のように現代楽器の可能性を切り開いて、時代に一石を投じるのも一つの方向としては十分に説得力のあるものだと再認識させられた。

私は、7大オペラ(フィガロ、ドン・ジョバンニ、魔笛、コシ、後宮、ティト、イドメネオ)では、この作品だけ舞台を観たことがなかったので、必修科目を修めるようなつもりで行ったが、思いのほか楽しめた。折しも、西アフリカでは謎の難病エボラ出血熱が広がり、医師団も感染するなど、ミキエレットの演出は物語を現代に置き換えて妙に生々しく感じられる部分もある。
この日は、4日公演の3日目。劇場はほぼ満席で、カーテンコールでは指揮者や歌手に対してブラボーが飛び交った。 「イドメネオ」は地味な作品だと思うが、日本のオペラ・ファンの層の厚さを感じるとともに、指揮、歌手、演出と三拍子揃えることのできる東京二期会のレベルの高さも感じる公演だった。
 

[付記]
日本におけるオペラ上演運動は、常に順調に来たわけではない。11月号の「MOSTLY Classic」誌の連載「横溝亮一の音楽千夜一夜物語」では、藤原義江のエピソードが紹介されている。
私はその昔、藤原歌劇団の公演で、ジャン・カルロ・メノッティの「領事」というオペラを観たことがある。 メノッティというのは、20世紀アメリカのブロードウェイを代表するオペラ作曲家だ。(その後私は、ウィーン国立歌劇場でもメノッティのオペラを観たことがある)。
砂原美智子が主役を歌い、ハワイ出身のアメリカ人が指揮をし、確かメノッティ自身が演出を行った。舞台上では窓のガラスを実際に割るなど、リアリズムあふれる本格的な演出による力の入った公演で、私自身は十二分に楽しんで満足した。カーテンコールには、藤原義江とともにメノッティ自身も姿を表した。しかし、2000人以上入る東京文化会館に、お客さんはざっと見て100人ほどはいたのだろうかというほどの入りだった。
当日のプログラムには藤原義江が巻頭に一文を寄せて、それは、「まさかメノッティさんが来てくれるとは思わなかった。」という文章で始まっていた。別の場所では、藤原義江が、「日本でオペラをやってきて、残ったのは借金だけだった。」と語っていた。
私はあまり有名でないオペラで満席の劇場を見ると、いつも「領事」の公演と藤原義江の言葉を思い出し、関係者に敬意を感じます。

 

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