バッハ: 「マタイ受難曲」

福音史家、テノール: マルティン・ペッツォオルト
イエス: マティアス・ヴァイヒェルト
アルト: シュテファン・カーレ、他

指揮: ゲオルグ・クリストフ・ビラー
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
(2012年2月28日 東京オペラシティ、タケミツ・メモリアル・ホール) 

 最近では珍しくなったロマンティック、ドラマティックなマタイ受難曲の演奏で、非常に説得力のある名演奏だったと思う。
マタイ受難曲は1727年、ライプツィヒの聖トーマス教会で聖トーマス教会合唱団により初演されたから、これは当時の響きを現在に伝える非常にオーセンティックな演奏。私の手元にある同じ合唱団・管弦楽団によるヨハネ受難曲のCDでも、やはり同じドラマティックなスタイルを持っている。
合唱指揮者(バッハ自身もその地位にあった)が全体の指揮を取るのもここの伝統のようだが、オーケストラはバッハを演奏させては世界最高のオケの一つだから、 そもそもこれは夢の様な組み合わせだ。

マタイ受難曲は、バッハの最高傑作であり、どの曲も全部素晴らしいが、音楽的なクライマックスは「ペテロの否認」にあるだろう。今回の演奏で私は、この「ペテロの否認」が、音楽だけにとどまらず、イエス・キリストの受難と死のドラマ全体のクライマックスでもあるということを強く感じた。
このイエスから最も信頼され、イエスの死後は初期キリスト教団で指導的な役割を果たし、最後には殉教した人は、 イエスが捕らえられたその瞬間にイエスを見棄てる。ペテロにとどまらない。ユダはイエスを裏切り、他の使徒もすべてイエスを見棄てて逃げ出す。イエスの処刑を決めたのは形式的には総督ピラトだが、群衆に迫られてやむなくしたとマタイ伝には書かれており、その群衆は扇動されていたとも書かれている。それに対して、ペテロに対しては「激しく泣いた」とは書かかれてはいるが、何ら擁護はしていない。これはやはり悔恨のドラマなのだ。
マタイ受難曲の構成は、そういうことを感じさせる。 

独唱者は地元の歌手で固められているが、特徴的だったのはイエスで、非常に雄弁であり、神々しいというよりは生身の人間イエスを感じさせるもので、宗教的と言うよりはドラマ的、更に言えばオペラ的でさえあった。また福音史家も当然に雄弁で、ペテロが「激しく泣いた」という所では十分に心が込められていた。
そして今回の公演で最も素晴らしかったのは、アルトを歌った、カウンターテナーのシュテファン・カーレだ(ずいぶん長身の人)。この人の声は、女声のアルトにはない抑制の効いたもので、中性的で深みのある情感の表現は、終始オーラを放っていた。 
合唱は男性のみで、力強く迫力のあるもの。
ゲヴァントハウスのオケは、血の通った弦、音色のくっきりとした管、どれをとっても伴奏と言うにはとんでもない高水準で、日本のオケと比べたら明確に異文化ということを感じた。

総体としての印象は、神性の少ない、人間ドラマとしてのマタイ受難曲だ。ある意味で健康的な演奏であり、元気の出るマタイだった。

(追記) 「ペテロの否認」の意味すること
「ペテロの否認」は新約聖書上の一大事件だ。
これについて遠藤周作氏は、「イエスの生涯」の中で、ペテロに問いただしたのは女中ではなく司祭、すなわちペテロもイエスとともに裁判にかけられ、その場でイエスを否認し、その見返りとして命を助けられたと推測している。 根拠として、イエスに死刑が下った時にペテロ以下の使徒が捕まっていないのが不自然だからという。そして、それに対してイエスが処刑の場で何ら咎めることなかったことがペテロには衝撃で、その後のイエスの神格化、原始キリスト教団による布教の動機に繋がったとしている。
素晴らしい想像力だ。しかし、まだ不自然だ。衆目の中でイエスを否定したら、あとはモヌケのカラになる。どんな事情があったにせよ、人々はもうその人にはついて行けない。 
だから私は、そこまで想像したらもう一歩想像力を前へ進めたい。つまり、裁判でのペテロの否認の後に「イエスの否認」があったとするのだ。ペテロが死の恐怖からイエスを知らないと言った時、司祭は当然にイエスにペテロを知っているか問うただろう。イエスはペテロを知らないと言った。ペテロは衝撃を受ける。しかしその意味するところは、「私は死ぬ。あなたは生きて布教に努めよ」だ。そしてペテロは、裁判の後「激しく泣いた」。
イエスの教えは、圧制者(ローマ)を力で倒せば、我々もいつかは力で倒される。愛の国を実現すれば、圧制者は永遠に地上からいなくなる、というものだったろう。 
イエスの処刑後、ペテロはイエスの復活を自分自身の中に感じ、生存した自分にただ一つ残されたことを実行したのだ。
(勝手な想像です) 

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松村禎三: 歌劇「沈黙」

ロドリゴ: 小原啓楼
フェレイラ: 与那城 敬
キチジロー: 桝 貴志
オハル: 石橋栄実
井上筑後守: 水戸大久、他 

指揮: 下野竜也
演出: 宮田慶子
合唱: 新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団
管弦楽: 東京交響楽団 
(2012年2月16日 新国立劇場・中劇場) 

 1993年に初演された、松村禎三の代表作の何度目かの再演。原作は、史実をベースにした、幕府による禁教下において捕らえられ踏み絵を迫られたポルトガル人宣教師と、そのような状況下における神の沈黙を描いた遠藤周作の同名の小説。
東京文化会館プロデュースの「古事記」の失望が大きかった後だけに、 新国立の底力を見せつけられたような公演で感動した。そもそも「古事記」とは、文化を作り出そうという志の高さが違う。音楽、演奏と、現時点での日本の音楽文化の水準を示すに十分なものと思う。

恩師フェレイラの棄教が伝えられる中で、宣教師ロドリゴは、マカオにいたキチジローの助けを借りて密かに日本に入るが、ほどなく幕府に捕らえられ、キリシタンが拷問の果てに殺される様子を目の当たりにする。そして井上筑後守によりフェレイラに会わされるが、フェレイラは日本にはすでに古来の神仏がいてキリスト教は根付かない、とロドリゴに確固とした思いを語る。そして井上筑後守から、自分さえ踏み絵を踏めば、他のキリシタンも生命が助けられると言われて、ロドリゴは深く悩む。

全体は2幕仕立てだが、場が通しで14場まで付けられていて、一つ一つの場を音楽的なまとまりを持った番号と考えると、番号オペラのように見えて鑑賞しやすい。それぞれの場で人間感情を表すような工夫がなされており、中にはアリアのように思える場もある。オーケストラも感情に沿って十分な盛り上がりを見せる。
台本も作曲者自身によるため、音楽的な意図とはぴったり合っており、ドラマを見るのと音楽を聴くのが、最後の踏み絵のシーンに向けて、違和感なく一体化される。

東京交響楽団は、いくらか荒削りな感じもあったが、十分にメリハリのあるもの。重要なシーンでしばしばソロを受け持つフルートが印象的。下野竜也も、全体を実に周到に構成しており、最後のシーンでクライマックスに達していたのは見事というよりない。
歌手の中では、豊かな声量の水戸大久、情感をよく歌い上げていた石橋栄実などが印象に残った。

最後に全体を通じて気がついたこと2つ。
① 水準は高い。しかしオペラは、多くの人が時間・空間を共有する芸術だ。成功するためには、当然にテーマは普遍性を持っていることが必要だ。原作は、壮絶に殉教した宣教師の英雄譚などではなく、人間の弱さを冷徹なまでに客観的な筆致で描いた特異な小説だ。もともとオペラ化には向かない。台本は主人公の踏み絵に焦点を当てることでこの点を単純化し、それはそれで音楽的には成功しているが、幕府によるキリシタン弾圧だけの話になってしまい、人間の弱さという普遍的なテーマは見えなくなってしまった。

② 日本が国費を投じてまでオペラを振興するのは、それが世界芸術だという認識からだろう。だとすれば、登場する3人のポルトガル人のうち、せめて1人か2人(理想をいえば全員)を、外国人が歌うことは出来なかったのだろうかと思った。 そのためにも、テーマを普遍的な見地から解釈しなければ、「沈黙」がオペラという芸術形式をとり、それを新国立が上演する意味がないと思った。
「夕鶴」は何度も海外公演をしてる。「蝶々夫人」は海外で多くの日本人歌手が歌ってきた。大劇場も中劇場もグローバルでいってほしいものだ。

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