池辺晋一郎: 歌劇「鹿鳴館」

影山悠敏伯爵: 与那城敬
同夫人朝子: 腰越満美
大徳寺侯爵夫人季子: 谷口睦美
その娘顕子: 幸田浩子
清原栄之輔: 宮本益満
その息子久雄: 鈴木准 他

指揮: 飯森範親
演出・上演台本: 鵜山仁
管弦楽: 東京フィルハーモニー管弦楽団
(2014年6月22日、新国立劇場・中劇場)

 2010年に新国立劇場の委嘱で作曲された作品の再演。 原作は、それ自体が虚構の上に存在した鹿鳴館を舞台に、虚構の事件を契機として、虚構の理想を追い求めた自由主義運動と、それを取り巻く愛憎の人間関係が崩壊していく過程を描いた三島由紀夫の同名の戯曲。

オペラが、音楽なのか演劇なのかと問われて、演劇と答える現代の作曲家は多いと思う。池辺晋一郎も、オペラは演劇の一ジャンルという考えであることは、事前に知っていた。特段のアリアがないことも、事前に聞いていた。しかし今回初めて知ったのは、この人は演劇部に属していたというほどの相当な演劇人だということだ。
だから、この作品を観終えた現在、これを単純に「オペラ」と呼ぶことにいささかのためらいを感じる。これは「鹿鳴館」という演劇に、歌手に演じさせるための朗唱風のボーカル・ラインと、大オーケストラによる様々なスタイルの効果音を「実用音楽」として付けたもの、という方が作品の本質に近いと思う。
聴衆は、伝統的なオペラをこの作品から期待すると、満足感は高くはないと思う。しかし、演劇とそれに付随する実用音楽としてみれば、まさに熟練したプロによる第1級の作品ということになる。作曲者自身は、「エンターテインメント」と言っている。 

では、純粋に一エンターテインメントとしてみた場合、楽しかったかどうかと問われると、「うーん...」と考え込んでしまう。
後半(第3幕、第4幕)は、舞台や照明に変化があり、音楽も愛の二重唱風の歌があり、ワルツなどの舞曲が乱舞して、というスタイルでまだ良かったが、前半(第1幕、第2幕)は、説明風な会話が淡々とした朗唱で歌われるので、ストーリーを知っているためか、正直、緊張感を維持して観るのがしんどかった。これなら、ストレート・プレイで、リズムの効いた歯切れの良い科白を原作のフルテキストで聞いた方が、よほど面白いのではと思ってしまった。ボーカルパートの音符が、演技者の創意工夫や自発性を奪っているような気さえした。
ただ、後半で舞踏会が始まると、音楽の活躍の場が出てくる。ややひねった屈折したワルツというのは予想した通りとはいえ、手慣れた作曲家の手になる活気のある舞台が作り出されていた。

台本は、原作から科白の一部を削除しただけのものという。それはそれで、原作尊重の立派な見識と思う。ただ、歌舞伎の台本も、ワーグナーの台本も、基本的に韻文だ。語っただけで音楽になるように作られている。それに対し、この台本はもともとすべて散文だ。このあたりは、作曲者が、このオペラが演劇の一ジャンルと言っていることと符合するが、エンターテインメントと言っていることとは符合するだろうか。
村上春樹のように、文学なのに音楽が流れているような小説があるが、これは、音楽なのにまるで語っているだけのようなオペラだ。両作者とも、意図的にそうしているところが面白い。音楽なのだから、と私は思うが、現代とはそういう時代なのだろう。

飯森範親の指揮は無難なもので、後半の舞曲を盛り上げていた点はよかったが、全体に真面目すぎた感じも受けた。もう少し遊び心があって、プラスアルファのサービス心があってもよかったと思った。
東フィルは、始めはやや雑な響きも感じたが、全体を通じてはよく音が出ていたと思う。
歌手では、事実上の主人公である朝子を歌った腰越満美が、夫の政敵を愛する芸妓上がりの伯爵夫人という葛藤のある役柄を、凛として完璧に演じていた。この売れっ子歌手の歌唱力、演技力の実力を見せつけられたような気がした。しかし、一番印象に残ったのは、もっと売れっ子の幸田浩子。典型的なリリック・ソプラノの声そのものの美しさに聴き惚れた。このオペラで純粋な愛を歌う唯一の役だから、特に後半楽しめたのは、この華のある人の存在によるところが大きかったと思う。

今、私の頭の中には、ブリテンの「真夏の夜の夢」が鳴っている。これはシェークスピアの戯曲に何も加えずに、科白を削って場を並び替えただけの台本を使ったオペラだ。ほとんどジョークとも言えるようなブリテンの音楽から浮かび上がるのは、シェークスピアの原台詞の素晴らしさだ。かつて私は作曲者自身の指揮によるこのオペラのCDを、対訳とにらめっこしながら聴いて、シェークスピアのオリジナル古英語の持つリズムの素晴らしさに、それまで味わったことのないほどの感動を覚えた。外国人がシェークスピアの劇を、その原台詞によって味わう機会はほとんどない。ブリテンの「真夏の夜の夢」は、私が賛嘆して止まないオペラであり、20世紀に書かれたオペラの中で最も好きなものの一つだ。
今回感じたのは、「鹿鳴館」という戯曲は傑作だとしても、オペラとした場合、一つ一つの言葉にとてもそんな力はないということだった。

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