about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2016-10-02 10:30:45 | ムサシ
・第二幕、黄昏時のシーン。寺の庭を皆でゆっくり勝手な方向にゆっくり歩いている(そういう行?と思ったらあとで「歩行禅」だと明かされた)。
うろうろ移動するなかで、それぞれの形で二人が組になって(沢庵と宗矩、武蔵と乙女、小次郎とまい)会話を交わすあたり、先にタンゴを見たばかりなのでソシアルダンス─ホール内を移動しながらパートナーを選びダンスを申し込む姿を連想してしまいました。

・足下がよく見えないために沢庵が宗矩の足を踏む。この痛みで心が決まったと宗矩は声をひそめて内緒話を始める。
「世の中の枠組みを決める話」だといって秀吉の刀狩りによって民はもはや一揆を起こせなくなった、しかし全国の武士たちがそろって刀を抜き将軍に逆らえば大問題なので、侍どもに刀を抜かせぬ工夫はないかと尋ねる。やはり能狂いを装って油断させるだけじゃ心もとなかったわけだ。
この「侍どもに刀を抜かせぬ工夫」は実際家光の将軍時代にさまざま行なわれています(※18)

・武蔵は乙女にあの時なぜ自分自身に刃を向けたのかと尋ねる。探るような不安そうな様子ながら優しげな声で武蔵は話す。自分の常識を超えた行動を取った彼女に対する関心と一種の畏敬の念を感じます。

・恨みの鎖を切ったからとてもすっきりしたいい気分だと幸せそうに笑う乙女はこの気分を「武蔵さまにも分けてさしあげたい」と言う。「小次郎さまとの恨みの鎖、思い切って断っておしまいになっては」と乙女は提案するが、「試合は明後日の朝、それが終われば、わたしも今の乙女どののように、すっきりしているはずです」と武蔵はぼそぼそ言い捨てる。
乙女が再度自分たちの勝負を止めようとしている、しかも今度は自ら恨みを断ち切る経験を経たうえでのことだから当事者としての重みが一応はある、自分を曲げるつもりはないが彼女の善意を否定することに対してすまなさも感じる、そんな思いがこの態度に表れています。しかし死んだらすっきりできないわけだから、当然ながら勝つ気満々ですね。

・沢庵が宗矩に打ち明け話。江戸の幕閣に自分たち大徳寺を目の敵にする者がいる。これまで大徳寺の住持はかつて住持をつとめた長老たちが決めて帝の許しを得てきた。それが後醍醐天皇によって作られた大徳寺の伝統なのに、江戸に許可なく決めるのはけしからんと横槍を入れてきたという。
これは慶長十八年(1613年)制定の「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」および慶長二十年(=元和元年、1615年)の「禁中並公家諸法度」のことですね(※19)
『ムサシ』の主な時間軸が元和四年(1618年)なのは巌流島の決闘の六年後を舞台にしたかったのが一番でしょうが(その理由については後述)、沢庵や宗矩をめぐる歴史的事件や伝聞を物語世界に生かすためという部分もあったのかもしれません。

・「その差出口にペタッと膏薬を貼りたい?」と沢庵の言葉を先取りする宗矩。巧みかつユーモラスな比喩表現で、固い台詞が続くところに話の流れを切ることなく上手く笑いを差し挟んで観客をリラックスさせている。
加えて「ペタッ」と言う前後で宗矩が後ろから沢庵の禿頭を手のひらでぺちっと叩くと沢庵が恨めしそうに舌を出した顔で振り向く。これは蜷川さんの演出なのか吉田さんと六平さんのアドリブか。表情の面白さといい間の取り方といい、さすがの手練れっぷりです。

・ふたたび真顔に戻った沢庵が歩きながら、その差出口を止めるために秀忠と家光にとりなしてほしい、そうすれば武士に刀を抜かせぬ工夫を考えてみようと持ちかける。
この陰謀話の最初の方で小次郎が、中盤で武蔵が彼らの近くを歩いている。距離的に内緒話が耳に入っているだろう。彼らに聴かせるための会話だったとすれば納得できる、というか彼らが聞いてないところで沢庵と宗矩らしい会話を装う必要はないわけだからそうでしかありえないはずだが、このお芝居〈幽霊たちが本物らしすぎる〉場面がてんこ盛りだからなあ。

・小次郎がまいに突き当たる。武蔵の無策の策にどう立ち向かうか考えてたせいだといい、考え事に気を取られて回りが見えなくなっていた自分を「甘いぞ、小次郎!」とつい大声で叱咤してしまう。そして回りを驚かせたことにまた慌てて一礼したり。
反省したそばから今度は反省に気を取られてまた回りが見えないという・・・。ちょっと間抜けなところが小次郎の可愛気ですね。

・明後日はやはり刀を交えるのかと問われた小次郎は、武蔵の無策の策を見たとき心底嬉しかった、この敵とまた戦えると思うと剣客冥利に尽きると思ったと語る。
このとき彼は血に飢えた獣のような危険な笑顔を浮かべているが、しかしもうこれは憎しみとは呼べないんじゃないのかなあ。武蔵憎しで凝り固まっているなら「小次郎はつくづく幸せ者です」なんて感慨は出てこないだろうし。

・小次郎の言葉にまいは悲しげに首を横に振って、「恨みを断ち切ったときの乙女どののあの清々しい姿に、なにかお感じになりませんでしたか」と呆れたような試すような上から目線な声色で横目で見つつ語る。その様子に「なにがいいたいのです?」と小次郎も緊張感をもって答える。
それに対してまいは、乙女の姿を見ていたら「ささいな事を悪く育てて、鉢巻きしめて醜く意気込んでいた自分が、いまは恥ずかしくてなりませぬ」と至近距離で見上げながら話す。この距離感と口調が母が息子を諭すがごとくで、後の展開の伏線になっています。
しかし乙女の父親であり自分にとっても恩人である人が殺されたことが「ささいな事」なのか。これは彼女の本当の過去─静御前と舞の手を競って敗れた悔しさで身を投げたことを指してるんじゃないかとも思えます。

・参籠禅も半ば、疲れが出る頃だから月を見ながら雑談でもしようと沢庵が穏やかに話しだす。このうえ禅を強いて禅病にでもなられたら困るという言葉に乙女たちは「禅病?」と聞き返す。
禅病とは禅に打ち込むものがかかる、心をひたすら見つめるうちに何が何だかわからなくなるという恐ろしい病だと説明する沢庵。具体的には頭の中がカッカと燃えて、手足や腰は凍るように冷え、耳鳴り、悪夢、食欲不振、口が渇き、そして周りのことが見えなくなる、と締めくくられる。
てっきり井上さんの創作した病気かと思ったら、調べてみると実在する病(一種のノイローゼらしい)だった。臨済宗の高僧・白隠の例が有名なようです(※20)

・沢庵は武蔵と小次郎に初試合時の年齢や勝ち数を聞く。小次郎が「九十九連勝中」と答えたのに武蔵が反論し口喧嘩に。最終的には「・・・口達者なやつよ」と呆れたような武蔵に小次郎が「きさまに学んだのよ」と答えて終わる。
つい前日に言葉に関しては「おのれ」と「だまれ」しかない、三歳の子供にも劣ると揶揄された小次郎が一日にして腕を上げたものです(笑)。しかし禅病を避けるための月を愛でての雑談のはずが、いつのまにか武蔵と小次郎へのお説教に発展してしまうんだよなあ。

・「そこまで剣にこだわる、そのわけはなにか」と沢庵は二人に問いただす。 だいぶ間があってから小次郎が「・・・・・・隠すことなく正直に申し上げる」と前置きしたうえで、諸国の強者と試合をして腕をみがき、「そのすべてに打ち勝ち、天下一を誇ること。次に、その天下一の功名手柄によって百姓、町人の上に立つ栄誉を受けること」、その栄誉を手がかりに巌流を天下に広めること、以上が自分の道であり、そのために死ぬことは覚悟のうえという。
天下一、誇る、栄誉といった言葉が繰り返し出てくるところに小次郎の名誉欲の強い(名誉に弱い)性格があらわで、少し後で「皇位継承権第十八位」にころっとやられる布石になっています。
この名誉に弱い性格はおそらく、孤児だったために自分の出自がわからないという、いわばアイデンティティの不安定さの裏返しなんじゃないか。「・・・・・・隠すことなく正直に申し上げる」という言い回しも、剣にこだわる理由を話すことに内心恥ずかしさがある─それが自身の出自にまつわるコンプレックスゆえだとわかっている─のを示しているのでは。
井上さんはかつて武蔵について集めた資料から、武蔵を「母の愛が薄く、父を憎んでもいた」「他人と共感できない出世主義者の体力だけが頼りの青年・・・・・・これはもう武芸者として生きるしかないだろう」と分析したそう(※21)ですが、親の愛に薄い「出世主義者」という部分は今回むしろ小次郎の設定に生かされたように思えます。

・武蔵はどうかとの問いに武蔵は「武士の一人としてつい先ごろまでの大乱を忘れず、この先の戦乱に常に備える、これがわが志です。」「常に生死の間に身をおくこと。いまそれがしは佐々木小次郎というすぐれた剣客と膝を接して向き合っております。するともう、生きるか、死ぬかしかない。(ここで小次郎がうなずいている)このように毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行くならば、やがて人格そのものも磨き上げられて、ついには全き人間になることができるでしょう。剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」。
この武蔵の言葉を沢庵は愚かだと一蹴するが、この考え方はそれほど間違っているだろうか。「先ごろまでの大乱を忘れず、この先の戦乱に常に備える」とは要は危機管理の心構えであって、過去の悲劇に学んで新たな悲劇を回避しようということだ。後半も常に自分を厳しく律していこうという生き方の姿勢であって、正直凛と背筋が伸びていて立派だなあと感服してしまう。
剣一筋に凝り固まって人生の他の可能性を切り捨てている、視野が極端に狭いかというとそうでもなくて、導入部で述べられているように武蔵は宝蓮寺の作事奉行をつとめ、「剣術を究め、茶の湯を、仏像彫りを、水墨画を究め、そしてこんどは寺の作事まで究めおったか」と評されている。剣術以外の芸術の分野にも彼の視野は広がっている。
そしてそれらを気楽な趣味としてでなく「究める」ことで、「心と技をたえず鍛えて行く」手段としている。「剣を唯一の友」とすると言うが、彼は剣以外のものも己の人格を築き上げて行くために利用している。むしろ彼自身がさまざまな技術を「究める」ことで磨かれてゆく剣であると言っていいだろう。
自身を剣になぞらえ日々の修練を通じて人格を陶冶し全き人間として完成させる─それが自分の生き方だと自負している(「全き人間」というのがどんな状態を指すのか明確なイメージは掴めないが。おそらく武蔵自身にも本当はわかってないのではあるまいか。ただ常により正しいと思える方向に向けて前進し続ける、そのモチベーションとして漠とした幻想を設えたというだけで)。つまりは根っからの求道者なのである。
武蔵の書き遺した『五輪書』が刀を持たない現代の人間にも広く読まれているのは、ひたすら自己の研鑽に励んだ武蔵の生き様が現代人にとっても理解可能な、むしろ人生の指針となりうるものと捉えられているからだろう。
そんな彼の生き方に問題があるならそれは2点、一つは沢庵が彼を「馬鹿」扱いしたように、武蔵の得物が剣であるゆえに剣の道を究めることが必然的に人殺しに繋がってしまうこと。これについては後ほど詳述する予定です。問題点のもう一つについてもラストで武蔵がそれを解消した(するつもりになった)場面と合わせて改めて取り上げたいと思います。

・二人の「剣にこだわる、そのわけ」を聞いた沢庵は、「おろか」「馬鹿」「阿呆」とこれを強く批判する。「人を殺しても出世したいというところが、まことにおろかじゃ。人の命を踏みつけにした出世にどんな値打ちがあるのか、ましてや、人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちもあるまい。」
これはたしかに正論である。特に後者については、井上さんは明確に否定を表明しています(※22)

・武蔵と小次郎のみならず、二人の試合相手から観客まで全てが「鈍」だと決めつける沢庵に武蔵と小次郎が揃って反発。「これがあの大徳寺の長老か」と小次郎が叫ぶ時の語尾の「か」の音の響きと消え方が綺麗です。
ちなみに「あの大徳寺」の「あの」とは帝じきじきの勅命で開かれた寺で由緒正しい寺であることを指している。ここでいちいち寺の名前を持ち出してくるあたりに権威に弱い小次郎の性格が表れている気がします。「全発言の撤回を求める」という言い回しもなんか現代の社会活動家みたいで笑ってしまう。

・激しく反論する武蔵と小次郎を平心が「お年寄りの言葉に耳を傾けておあげなさい。お年寄りはみなさん冥土に近いところにおいでです。(中略)お年寄りはまさに冥土からの智慧を伝えようとなさっているのかもしれませんよ」と腰が引けがちながらも取りなす。
高僧の有難い言葉だから聞くべきだというのでなく、老い先短い老人呼ばわり。ここで沢庵がギロッと平心をにらむのも無理からぬところ。緊迫した、そして平和思想について語る大事なだけに固くなりがちなくだりに笑いをはさむ、上手い緩急の付け方です。

・「それがしの三十五年間の努力はむだですか。そんなばかな・・・・・・」という武蔵。武蔵が長らく敬愛してきた師である沢庵に否定されてショックを受けているのがわかります。本物の沢庵なら武蔵が己の人格を陶冶するために他人を斬ることをどう評したでしょうか。

・続いて「小次郎の二十九年間には、血と汗と涙が詰まっている。むだではない!」と叫ぶ。本当に武蔵と気が合ってるんですよねえ。真に尊敬できる剣客と命を賭して戦いたいという点において気が合ってるからこそ沢庵に責められてるわけですが。

・激昂する武蔵と小次郎を「落ち着いて、これもお説法なのですよ」となだめる平心。月を眺めながら雑談する予定はどこへ行ってしまったんだ。

・沢庵は、自分としては〈衆生はみんな仏であり仏が仏を殺すことがありえない〉と信じているが、俗世間では二つの場合人殺しが許されるとしているという。
うちの一つ「三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してもよい」を沢庵が認めていないのは「滑稽な理屈」という表現からも明らかですが、もう一つの「悪人を一人切れば、千人、万人が救われるときは、その悪人は殺すべし」に対する見解は宗矩が活人剣の話を始めたためにそちらへ会話が流れてしまい、はっきり示されることはなかった。
ただ「俗世間では様子が違う」という言い回しからして、どんな理屈にもせよ人が人を殺すことは肯定されるべきではないという信念に照らして当然否定しているのが分かります。これも本物の沢庵だったら何と言っただろうかと考えてしまうところ。

・沢庵が三種の神器の話を始めたのを受けて、まいが「三種の神器といいますものは・・・・・・あの鏡と剣と曲玉のことでございますね」と具体的説明を加える。沢庵の言う三種の神器が何かの比喩ではなく天皇家の宝である「三種の神器」そのものであることを念押しした格好です。
武蔵が三種の神器を持っていたなら官軍となり賊軍の小次郎を殺してもよい、小次郎が三種の神器を持てばそれが逆転するという例え話は、小次郎が天皇の血筋だという(虚偽の)事実が明かされる場面に繋がっていきます。

・ここで宗矩が、柳生新陰流は「争いごと無用」を金看板にしているがただ一つ例外があって、まさに一人を殺すことによって万人が助かる場合のことであり、それを活人剣と呼んでいると語り出す(※23)
そして活人剣はなにか奥義のようなものがあるかと聞かれて「秘伝中の秘伝、柳生新陰流の当主であるわしにも、口には出せぬ」と一度は断ったものの沢庵に「そこをあえて」と強く言われるとあっさり〈三毒を殺すこと〉だと口を割ってしまう(※24)
さらには「いったん口に出してしまったのだ、このさい、なにもかもいってしまおうか」と聞かれないうちから全部べらべら喋ってしまう。喋りたくてたまらないんじゃないか(笑)。

・三毒とは「欲ばること、怒ること、おろかなこと」だと説明する宗矩に、仏教でもそれを三毒というぞ、と話す沢庵。
いにしえの剣豪は人を斬る前にまず自分の中の三毒を斬ろうと努めたと語る宗矩は「しかしおのれの心をどうやって斬るのですか」という沢庵の問いに咳払いし、閉じた扇子を体の前で構えてからさっと向きを返してみせる。
乙女がいまやっと朝の仇討ちのとき自分が自分に刃を向けた意味がわかったという。知らずして三毒を克服してしまったらしい乙女。新陰流の奥義を究めたと宗矩が称賛するのもわかります。刀の持ち方はまるでなっちゃいなかったけど。
もっとも実際に彼女が〈殺した〉のは復讐心だけで「欲ばること、怒ること、おろかなこと」まで切り捨てたかどうかはわからない。確かにこれ以降、乙女が欲張ったり怒ったり愚かだったりする場面ってないけれども。

・宗矩と乙女のやりとりを聞くうちに、沢庵は侍に刀を抜かせぬ工夫ができたという。刀を抜いていいのは自分の中に三毒のない人間だけ、しかしそんな人間はそういない、だから結局刀を抜けないとなる。平心も加わりなるほどと喜ぶ面々。
しかし「刀を抜かせぬ工夫」というが、結局〈自分は三毒がありません〉と自己申告すれば刀を抜いてもOK、逆にそうした図々しい人間を処罰できなくなるわけで、抑止力にならないどころか彼らに刀を抜く口実を与えることにならないか。そうやって刀を抜かせたうえで、〈刀を抜くこと自体が三毒のある証〉とこじつけて処罰する腹づもりならまだわかるが、沢庵はこれを「刀を抜かせぬ工夫」として提案している。
つまりはいつ刀を振り回すかもしれぬ(と宗矩が警戒してきた)血の気の多い侍たちが、自分は三毒があるからとバカ正直に刀を抜くのを自主規制する、刀を抜く資格を得るために大真面目に自分の中の三毒を絶とうと格闘するものと信じているらしい。そんなお人好しな。
宗教や道徳教育としてならよいが、こんな侍たちの良心頼みの計画が「徳川幕藩体勢の基礎」を固めるための政策たりうるのか?史実においても幕府が全国の武士たちに刀を抜かせないために行った政策は※18のようなものだったわけで、まあ普通そうするでしょう。武蔵と小次郎が納得できない顔でうろうろしてるのも当然です。

・三毒を斬ろうと己の心を見つめに見つめればいずれ禅病にかかる、そうして皆禅坊主になればよいと盛り上がる宗矩と沢庵。
〈刀を抜く資格を得ようと自分の心を見つめているうちに回りのことが見えなくなる、まつりごとに異を唱えるどころではなくなる〉と沢庵が言えば〈これで徳川幕藩体制の基礎が定まったぞ〉と宗矩が答え、そこへ「大徳寺の件なにとぞよろしく」と沢庵が耳打ちする。
この人たちは何を言い出すのか。ここまでは理想論すぎるなりにあらゆる形の殺人を否定し、そのために武士に刀を抜かせず平和な社会を作りあげようとしているかのような流れだったのに、結局は自分たちが所属している組織の権益を守りたいだけじゃないか。しかもそのために日本中の武士をノイローゼに陥れようとは何たる恐怖政治。耳打ちする沢庵の声もいかにも悪巧みしてる感じだしなあ。
まあこれはあくまでも幽霊たちの勝手な妄想にすぎないわけで、実際幕府が取った政策は上で書いた通り、大徳寺の住持決定に幕閣が横槍を入れてくる件が秀忠家光に取りなされることもなく、この件の延長線上で起きた「紫衣事件」によって沢庵は出羽国への流罪となります。
もっとも実際には権力や富貴に関心のない人であったらしい沢庵は、出羽で厚遇されて悠々と生活を楽しんでいたらしい。復権後に宗矩たちの後押しで将軍家光に謁見し、すっかり気に入られてたびたび江戸城に召されるようになった。山で静かに暮らしたい沢庵にとっては有難迷惑だったそうだが、おかげで寛永十八年に大徳寺の住持は以前通り帝の綸旨によって幕府の介入なく決めてよいことになり、こればかりは心底喜んだそうです(※25)



※18-「徳川将軍家は、侍たちが勝手に刀を振り回すことを抑え込もうとしていた。別の言い方をすれば、関ヶ原や大坂の戦いを境に、刀を抜かない主義が時流になりつつあった。上下とも長い戦乱に閉口していたのだ。 たとえば、島原の乱がおさまった後の正保二年(一六四五)、三代将軍家光は、刀身の長さを決めた。大刀の刃渡りは二尺八寸(約八五センチ)、小刀(脇差)のそれは一尺七寸(約五十二センチ)と、それ以上長くしてはいけないと制限したのである。仇討ちも免許制になった。 〈侍たちにできるだけ刀を抜かせないようにする。それが新しい体制の基礎になる〉 三代将軍のこの考え方のうしろには、おそらく彼の兵法指南役柳生宗矩をはじめとする柳生新陰流の思想があったはずである。」「戦わずに勝つことが最高の兵法であるという考え方は、西国外様大名の反乱をいつもおそれていた将軍家にとってはまことにありがたいものであったから、柳生家の思想がそのまま幕府の思想となった。 しかしながら、戦わずに勝つには情報収集やその分析、そしてそれにもとづいた謀略が必要になる。それがたとえば武家諸法度であり、参勤交代制だった。軍役や改易なども謀略の一つ。寛永十年(一六三三)には諸大名を監視、監督する目付や巡見使の制度が始まるが、宗矩はその総監ともいうべき総目付に任じられている。こうして柳生新陰流の思想が幕藩体制の骨組みの一部になった。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収)

※19-「初め徳川家康は、元和元年七月各宗の法度を制定した時に、大徳寺妙心寺両派の法度の中に於て、その寺の住持となる為めには、参禅修行三十年綿密の工夫を積み(中略)幕府に言上するに於ては、入院開堂を許可すべし、近年猥りに綸旨を申降し、僧臘高からず、或は修行未熟の者が出世するに依り、啻に官寺を汚すのみならず、衆人の嘲を蒙る、今後かくの如きの輩あらば、其身を追却すべしといふ箇條を載せておいた。」(「書簡によつて見たる沢庵和尚」、辻善之助編註『沢庵和尚書簡集』、岩波文庫、1942年。原文旧字)

※20-「「白隠年譜」(「滝沢開祖神機独〓(玄に少)禅師年譜」)によると、その症状は十二種の凶相を示したという。第一に、頭が火のように熱い(頭脳暖如レ火)。第二に、足腰が氷のようにひえる(腰脚冷如レ水)。第三に、涙が出てとまらない(両眼常帯レ涙)。第四に、耳鳴りがする(双耳交作レ声)。第五に、明るさに恐怖する(向レ陽自然生レ怖)。第六に、暗がりに接するとますます憂鬱になる(向レ陰不レ覚生レ鬱)。第七に、いろいろなことを考えすぎて疲れる(労二思想一)。第八に、悪夢にうなされる(疲二悪夢一)。第九に、夢精する(睡則漏精)。第十に、眠るとますます気力がなくなる(寤則気耗)。第十一に、消化不良(食不二消化一)。第十二に、寒気がする(衣無二暖気一)。以上が「白陰年譜」にみられる禅病の症状である。」(船岡誠「禅病について」、大隅和雄編『中世の仏教と社会』、吉川弘文館、2000年)

※21-井上ひさし「武蔵考」、『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収。

※22-(「記者会見で、「人を斬って自己成長していくなんて、間違っている」と言われたのが、目から鱗でした。」というインタビュアーの言葉を受けて)小さい頃から吉川さんの『宮本武蔵』が大好きで、何回読んだかわからない。(笑)でも、武蔵が人を斬りながら人格を磨くというところだけは理解できなかった。殺人鬼をそんなに尊敬していいのか。なぜ人を殺せば殺すほど人格を磨くことになるのか。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」(『すばる』2009年6月号)

※23-「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきにや。」(『兵法家伝書』、柳生宗矩著・渡辺一郎校注『兵法家伝書 付・新陰流兵法目録事』、岩波文庫、1985年)。ちなみにこの文が出てくるのは「殺人刀 上」の章。『兵法家伝書』には「活人剣 下」という章もあるが、こちらには「一人の悪をころして万人をいかす」ことについての話はない。

※24-実際にはこれは柳生新陰流ではなく別の流派の教えらしい。「天明元年(1781)に示現流の久保七兵衛紀之英が著した『示現流聞書喫緊録』には、「太刀は敵を斬り殺すものであるが、敵を殺すより先に自分の心の中にある三毒を殺して、心を強明正光にしてから太刀をとり、敵を殺しなさい」といった内容の記述がされています。この場合の「三毒」というのは、仏教でいう煩悩のことで、具体的には貪(むさぼること、欲深いこと)・嗔(怒り)・痴(おろかなこと)のことですが、一般的には邪念・雑念といった程度に理解してよいでしょう。つまり、刀(太刀)をもって斬るべき対象は、もちろん対峙する敵ですが、それ以前に自分の内面にある邪念であり、これを斬らなくてはならないということです。同様の意味をもつものとして、新当流の所作で「冤剣」というものがあります。具体的には、構えた状態から太刀を胸の前に立て、右手首を返して刃を自分の方に向ける動作をいい、自己の内にある穢れを斬るという意味があるようです。自分の中をきれいにしてから敵に向かうのだといいます。」(『武道ワールドへようこそ』内「身体・心・剣 精神文化の入口」(http://www.budo-world.org/japanese/high_level_info/token_no_shiso/index_03.html)

※25-「土岐山城守頼行は和尚を厚遇し、注意周到に至れり盡せりの款待振りであった。」「自分は枯木の様にして居るものであるから、たべものにも着物にもかまひ無いのであるから、何の苦もない。」「今の世間にかやうに身を捨てたものが公方様などへ召出されるべきものではない。自分の事を御存知なくて、長老といへば誰でも同じもののやうに思はれるのが迷惑である。」「近年入院の儀は押へてあつたが、仏法興隆の為めを思ふに依つて、今後は修行全備し、年齢恰合の時分に入院すべし、尚一々江戸へ言上の儀は遠路でもあり、幕府に於ても御用繁きことであるから、京の所司代に相談して綸旨を申し降し、先規の如く入院すべしとの事であつた。和尚の喜びは察するに余ある。」(「書簡によつて見たる沢庵和尚」、辻善之助編註『沢庵和尚書簡集』、岩波文庫、1942年。原文旧字)



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