ちいさな学校(岬の分校と呼ばれて)・小豆島

小説「二十四の瞳」のラストから間もない昭和二十三年から三十二年までの分校物語。亡き両親と孫のミナとユリに贈ります。

ままかりで味醂干し?

2009年03月23日 03時01分02秒 | Weblog
 ずっと「ままかり」と「このしろ」の区別がつかないまま還暦を過ぎてしまった。「ままかり」は(さっぱ)ともいい、「このしろ」は(しんこ)((こはだ)(つなし)と大きく出世するごとに名前が変わるというが、どちらも魚類ニシン目、ニシン科に属している。図鑑にそう書いてある。
 五十年以上前の春のこと。誰かのお父さんが、二斗樽一杯の小魚を持ってきたことがある。学校に住む私たち家族に届けてくださったにしては多すぎる量だった。
我が父なるおとこせんせは「うーん」とうなって考え込んでいたが、
 「よし、全校体育を中止にしよう」
 こんなことしょっちゅうだからだれも驚かない。生徒の誰かが畑で咲いた花を持ってきたりすると絵を描く時間になったり、特別なニュースのある日はラジオ放送を聞く時間になったりする。
 たくさんのお魚を前にして
 「みんなで味醂干しを作ろう」
 と、言ったのだ。
 このときの魚が「ままかり」だったか「このしろ」だったかが私には分からずじまいになっている。このとき、おとこせんせは瀬戸内海で獲れる小魚について話をした。「ままかり」はご飯が足りなくなるほど美味しい。「まま」「飯(まんま)」をよそに借りに行くほどに、と。そして、「このしろ」は、縁起が悪いから武士は食べない。「このしろを食う」ことは自分のお城を食うことになるからだと。この二つの話ばかりを覚えていて、この日の魚がどちらだかは記憶に無いのだ。「つなし」と言っていたような気もするから、それなら「このしろ」だったことになる。
 とにかく、小魚は味醂干しにされることになった。校庭と職員住宅の間に井戸があり、その横にコンクリートで作った長い洗い場があったので、そこが調理場となった。長い杉の板を渡して、五、六年生が小刀で魚のあたまを落としおなかを開いて腸を出して行くと三、四年がきれいに水洗いをする。
 「おい、誰かおなごせんせに醤油と砂糖出してもらえ」
 「ほな、ミーちゃんいっしょにいてもろてこ」
 と、私は台所へ行った。
 「おかあちゃん。あっ。いかん。おなごせんせ、お醤油とお砂糖ください」
 「のりちゃん、おかあちゃんでええやん」
 と、みーちゃんが言いながらおかしそうに言った。
 「区別せんといかん言われとんやもん」
 「ふーん」
 「ほんとは、お砂糖じゃなくて味醂を使うから味醂干しなんだけどね。味醂がないのよね。」
 と、母。当時村には味醂は売っていなかったらしい。そう言いながら鍋ににお醤油とお砂糖、
 「少しお酒を入れましょう」
と、お酒も入れてくれた。二人はそれぞれ鍋を抱えてそろそろと歩いた。
 流し場ではどんどん魚が開きになっていた。簾をごしごし洗っている子もいる。
開いて洗われた魚をどんぶりに投げ込む子。
 「ちょとく間、漬けとった方がええんとちがう?」
と、物知りのせーちゃんが声をかけてきた。
 「そやね」
 しばらくして、
 「ほら、みんなで並べて」
 上級生が、一、二年の子に声をかけると、我先にと簾の上に並べ始めた。
 「いかんいかん。ちゃんと並べないかん」
 開きがあっちこっちにむいて並べられているのを見て、せーちゃんは
 「こやって並べるんやで」
 と、きちんと整列させた。
 「きをつけ。前へならえやな」
 「そやそや」
 そのまま食べても美味しそうな少しお醤油の色が付いた小さな開きはきちんと並んだ。簾三枚分はあった。猫に狙われそうなので校庭の真ん中にある小鳥小屋の上に簾を並べた。
 数日後、味醂干しは完成したはずなのだが、記憶はここまで。
 お魚の名前のことも味醂干しのこともすべてが尻切れとんぼで、なつかしい思い出なのに消化不良でもある。

おとき店

2009年03月20日 00時52分54秒 | Weblog
           現在の「おとき店」場所も変わった


 田浦のスーパー兼パブ。おとき店はそんな役割だった。あと二軒お店があったけれどそちらは子どもを相手の駄菓子と文房具をあつかう店とタバコ屋さんだった。
小学生の私は、おときさんを「おばあさん」だと思っていた。いつもかすりのような地味な着物を着て手ぬぐいの姉さん頭だった。田浦の子どもも大人も彼女のことを「おときさん」と呼んでいた。今思えば五十代だったのではないか。
 学校から三十歩くらいのところにお店はあった。
間口は一間の引き戸で、出入りは半間(約90cm)。建物は5~6坪ほどで、店に入ると広いタタキになっていた。床几(たたみ一枚分大の簡素な広椅子。涼み台などに使われていた)が一台と壁際には小さな木の椅子がいくつか置かれていた。土間の先はそのままの幅で小上がりにしつらえてあり、広く畳が敷かれていた。
 スーパーのようなとはいっても衣類や文房具は無く、野菜と魚は家庭ごとに自給自足なのでこれもなく、保存が出来ないので肉類もなかった。豆腐と油揚げ、茹でうどんなどはあったから、毎日通ってきた渡し舟で運んでいたのだろう。乾物、日用品、調味料、お菓子、お酒類が主な品揃えで色んなものが雑然と置いてあった。
「おとき店」に買い物に行くのは私のしごとだった。なんでもばら売り、量り売りで、必ず容器を持っていった。
 夕方や海が荒れている日は「おとき店」に行くのは苦手だった。そこには誰かのお父さんやお兄さんが必ずいるからだ。お店は村でたった一軒の居酒屋のようなもので、竹輪や油揚げ、瀬戸内では「てんぷら」と呼ぶさつま揚げのような練り物、いりこなど酒の肴にもってこいの食料品が揃っていたので、それをつまみにして酒盛りをするご常連が、土間の床机や椅子にどんと腰掛けて飲んでいる。大きな声で笑いながら楽しそうに酔っ払っている人の中に入っていくのは勇気がいる。
 「のりちゃん大きんったなぁ。なんぼになった?」
 だいたいみんな挨拶みたいにこう聞くのだ。私がもじもじしていると
 「田浦に初めて来たときはこんまかったのにな。もうええ娘や」
 酔っ払った声でこんな風に言われると、なぜか無性に腹が立つ。それでも言い返すほどの根性は無くてちょっと怒った顔になって黙っていると
 「ほんまに。よう伸びたもんや」
 と、続く。
 「ええかげんにしときよ。のりちゃん何がいるん?」
 おときさんはいつも助け舟を出してくれる。
 「うん。こんにゃくとおあげさんと・・・・と・・・とおくれ」
 と、言うとおときさんは手早く新聞にくるんで渡してくれる。
 「おおきに」
 と、言いながらお店を飛んで出る。
 後ろから、どっと笑う声が聞こえる。いつも大きなため息が出た。
 けれどもおときさんのお店は好き。床に何があるのか雑然としたものの山から苦もなく、欲しいものを慌てず騒がずひょいとだしてくれる。この店のお店番を一度でもいいからやってみたいなとずっと思っていた。お客さんがいないときその座敷にあげてもらったことがあるが、おときさんの居場所は村中が見渡せるような特別の空間に思えた。
 ちょっとしたものを「おまけやで」と私の手に乗せてにっこり笑うおときさん。今のお店には似ているけど洋服を着たお孫さんがお店を守っている。もう、お酒を飲みに立ち寄る人はない。畑や海で生活する働き盛りの人が今はいないのだ。

 

荒神さんにはむくろじがありました。

2009年03月15日 03時16分55秒 | Weblog
             拾ってきたむくろじ 

一週間小豆島に帰ってきました。誰もいないふるさとの小さな家は静かに迎えてくれました。ちらちらと小雪が舞って深々と寒い夜遅くでした。家の中は去年母の新盆のときのまま時は止まったままのようです。
 ぬくぬくと胸が熱くなって寒いはずの部屋の中がほんのりと暖かいのです。母が迎えてくれているのがわかりました。
 母がいつも座ってテレビを観ていたリクライニングの椅子には母のちいさなお座布団があります。疲れると横になっていたソファも深夜便を聞いていたラジオもオルガンもピアノも父の模写したモナリザの絵もそのままです。

次の日、近くのスーパーでバッテラと巻き寿司を買って岬行きのバスに乗りました。乗り合わせたのは古江で降りたおばあさんが一人で、それから田浦までは私だけになりました。
 一年三ヶ月前に母と訪れたときはレンタカーで、それまでも歩行がままならない母とは車を利用していましたのでバスに乗ったのは久しぶりのことでした。
 田浦の一つ手前の停留所「切り谷」で降りるとそこには懐かしい桐山先生が待っていてくださいました。
 「せんせ、ここまで坂を降りてきて下さったん?」
 「のりちゃんが道がわからんといかんと思ってね」
 先生は竹で作った杖を手ににこにこと笑いました。
 「せんせ、お電話せんかったらよかった。わざわざここまでしんどい思いさせてしもうて」
 「このくらいなんちゃあれせんで。いっつもこの道歩きよんやから」
 私がまだ小学生になる数年を付け足しの一年生として教室に招いてくれたのが桐山先生です。
 「せんせ、おいくつに?」
 「もう八十過ぎとんで」
 小柄な先生は少し背中がまあるくなっていましたが、山の坂道を平地を歩くようになスピードで私の前をスタスタと登っていきます。先生の家まであっという間でした。子どもの頃の記憶ではもっと遠かったけれど。
 六、七軒あった家も今は三軒になっていました。道が木々や潅木、笹竹にふさがれて近づけない家の跡、大きな瓦屋根がそのまま地べたに広がって倒れてしまった家。あの頃でも静かでひっそりとしていた「きんだ」(切り谷のことこう呼びます)
が、ゆっくり、ゆっくりと緑に包まれた大昔の山へと戻っていく現実を目の当たりにして、自然の力のたくましさにに立ちすくみました。
 「うちの屋根も波うっとるやろ。よそさんに迷惑がかからんようにどっさっと崩れてくれるように祈ってるんよ」
 先生は高松に引っ越すことになっていて大切な荷物はもう運んでしまったけれどご夫婦で離れられないでいるのです。お墓への道も途中で草木に覆われ切り開く力も無いと、その手前に一対のきれいなお花が供えられているのも悲しいほど美しく目に映りました。

 「みて見、うちんくの山の竹藪がどんどん山の上まで広がりよんで。強いやろ竹の力」
 先生の指差す先は、青々と空高く伸びた竹林のジャングルでした。足元にはカタクリの芽が顔を出し、まだ飛び散らない透き通った種をつけたままの古株もあって春の兆しと冬の名残が広がっていました。
 「電話で話しよった荒神さんこの上やで。行ってみるか?」
 私も手作りの竹の杖を借りて先生の後ろを付いていくと、こじんまりとした鳥居にたどり着きました。
 「こんなとこにあったんかなあ。もっと大きい鳥居やったと思うんやけどなあ、せんせ」
 「そりゃあのりちゃんがこんまかったからやろ。」
 「お社がないよせんせ」
 懐かしさを通り越してぶるぶると震えるばかりでした。
 「もうここで守れんようになるから、田浦の庵に移させてもろたんよ」
 境内とは名ばかり、柱や天井だった材木がどさっと山につまれ、ばらばらに欠けた瓦が散らばっているのです。たった一つちいさな石碑が残っていてそれには、先生が生まれた頃の大正時代に初めて電線が引かたと記され、田浦からの出資、個人の寄付などが刻まれていました。
 
「これが、むくろじの木やで。」
 根元が大人の腰ほどの太さで、くねくねとねじれるように大空めがけて伸びたその木は高くててっぺんが見えません。見上げていると
 「のりちゃん。むくろじの実いが落ちとるで」
 振り返ると桐山先生の手のひらに金柑のような黄色い実が乗っていました。
 「うわー」
 私は落ち葉を掻き分けあの時の続きのように拾い続けました。むくろじの実は皮をむいて水で揉むと石鹸のような泡が出るので子どもの頃,洗濯ごっこに使ったものです。実際にこの皮にはサポニンが含まれているので明治時代までは実用されていたようです。そして、実の中には羽根つきの羽に使う黒い種が一粒入っているのです。
 
 「もう、ええやろのりちゃん」
 夢中になっている私に、先生がうながしました。
 「うれしそうやなあ、のりちゃん。池田せんせのお引き合わせやで」
 二人は顔を見合わせて声をあげて笑いました。それは静かな山に木霊していきました。