ちいさな学校(岬の分校と呼ばれて)・小豆島

小説「二十四の瞳」のラストから間もない昭和二十三年から三十二年までの分校物語。亡き両親と孫のミナとユリに贈ります。

暑いよおでこ

2007年08月30日 01時05分40秒 | Weblog
 トマトを見ると脳の隅っこに必ず過ぎるシーンがある。
 ある夏のこと。家族四人で晩ごはんを食べている時、まだ三十代だった母がご飯をほお張りながらクスクスと笑い出した。
 「何がおかしいん?」
 「歌が頭の中をグルグル回るのよ」
 「トマトの歌やなあ、おかあちゃん」
 と、弟が僕は知っとるでといった顔で母の顔を覗き込んだ。
 「うふふふ」
 と、肯きながら笑っている。
 「なんや、はよ、言うて。なおとうちゃん」
 父も何だろうという顔をしている。
 「おとうちゃんの顔見てると思い出すのよ」
 わけの分からないことを言う。
 「今日な、おかあちゃん音楽の時間にな、オルガン弾いてトマトの歌をうたいよったんよ。ぼくは教室のぞいとったん」
 弟が得意そうに言った。彼は来年一年生で昔の私のように学校の中や校庭で一人遊びで毎日を過ごしていた。
 「そうなんよ。トマトの歌、どんな歌詞か知ってる?のりちゃん」
 「新しい教科書やから私らは習っとらんよ。そやけど歌えるかも。聞こえてくるもんな。」
 そして、歌いだした。
 ♪むぎわらぼうしに トマトを入れて
  かかえて あるけば
  暑いよ おでこ
  タララタンラッタンタン♪
 「そこそこ、暑いよおでこのところで、おかあちゃん、あっはっはっはいうて笑うんやで。なあ、おかあちゃん」
 「そうなの。ふふふ」
 母の笑いは止まらない。
 母のオルガンは下手だが、父はまったくお手上げで音楽は母が受け持っていた。音楽のセンスは、父のほうがあったと思うが、オルガンが弾けないのでは授業にならない。だが、ハーモニカは二挺くわえて唱歌、童謡、流行歌、誰でも知っているようなクラッシクなど、メロディに拍子をつけて器用に吹いた。これは芸であって先生としては用をなさない。
 「今日の音楽はトマトだったのよ。今年は初めてよ。この歌。それで、先ず私がお手本に歌ったのよ。ところが、『おでこ』のところにきたらね、プーって思わず吹き出しちゃって」
 「なんで?」
 「私がひとりで笑ってるから、みんな変な顔して、『おなごせんせ何がおかしんや』って幸男くんが聞いたの」
 「ほんで」
 「うん。説明したよ。『前からね、この歌の♪あついよおでこ♪のところにくるとね。おとこせんせのおでこが目に浮かぶのよ。あのおでこは、暑いやろうなって。そしたら、もう笑ろてしまうんよ。止まらないのよ』って。そしたら幸男くん『そやなあ、おとこせんせのおでこはほんまに広いわなあ』だって」
 確かに父のおでこは広い。それは、若いときから目立っていて、本人が自分の顔の似顔を描くときにはそれが、似せる最大ポイントらしく大げさに広いおでこにするのだから、自ら認めている。
 「トマトを歌う時は私の頭の中が笑うと決めてるから、困るのよ。笑うまい笑うまいと思うとよけいだめなんだもの」
 生徒もいい迷惑だ。自分の夫の立派なおでこを思い出してげらげら笑いながら唱歌を教えてくれる先生なんて。しかし、この日子どもたちは「あついよ おでこ」のところにくるとひと際大きな声を張り上げて歌ってくれたそうだ。それからしばらくはトマトを歌うたびに、そのフレーズには過剰な反応が続いたらしい。
 
 ♪暑いよ おでこ
     タララッタラッタタ♪ 
 

学校の夏休み

2007年08月28日 17時48分11秒 | Weblog
              大好きな学校の廊下  
ちいさな学校が夏休みになると我が家は寂しくなってしまう。生徒が登校しないうえに隣の部屋に住んでいる若い女の先生も町の実家に帰ってしまうので、楽しいはずの夏休みは退屈で退屈でしかたがなかった。自分から友だちの家にどんどん出かけていける性格も持ち合わせていなかったので、誰かが誘ってくれるまでは引きこもっていた。 明治時代に建てられた木造校舎は、涼しい風が緑の香りを包んで吹き抜け、夏の太陽は教室の窓から入ってこないので薄暗くひんやりとして居心地のいい遊び場だった。特に廊下がいちばんのお気に入りで、床に座り込んで気ままにぬり絵をしたり、本を読んだり、大きな声で歌ってみたり。特に着せ替え人形でひとり芝居に現を抜かして夢心地だった。 そのうち、二歳上のせーちゃんやひとつ年下のよしえちゃんがやって来ることもある。 「のりちゃん、なにしよん」 「いろんなことしよったけど、今は着せ替えで遊びよったん」 「ひとりでか」 「うん。いっしょに、にんぎょさんごっこする?」 いつもこんな調子で、廊下を大胆にあちこち行ったり来たりして、ごっこ遊びに打ち興じるのだが、だんだん飽きてきて、だれということもなく 「海に行けへんか」 「泳ぎに行こか」 「うん」 即、意気投合。五年生のせーちゃんは六人兄弟の末っ子で、山のことも海のことも畑のことも家畜のことも村中のこと全部知っているくらい物知りだったから、私は胸のうちで「先生」と呼んでいた。そんなせーちゃんが海へ行こうと言ったらもう、百万力なのだ。親だって安心している。 「ほな、のりちゃん。せんせに言うて来」 「うん」 「よしえちゃんもおばんちゃんに言うて来」 「うん」 「ほな、おときさんの店の前に集合やで」 大急ぎで一張羅の海水着を着てゴム草履(ビーサンなんて言いませんでした)をつっかけて、洗濯板を抱え、いちもくさんにおとき店の前にかけて行った。よしえちゃんも洗濯板を抱えてもう店の前に来ていた。  「おときさんの店」とは、村の何でも屋。おときさんは、私たち子どもからみると相当なおばあさんだと思っていたけれど、実は今の私くらいの年金受給年齢だった。文房具など駄菓子を売っているお店と農業に関するものを扱っている農協の出張所にあるもの以外は全て「おとき店」にあった。漁を終えたおじさんたちが立ち寄って店の上がりばなに腰掛けて、お揚げさんや、てんぷら(さつま揚げのようなもの)を肴に湯のみでお酒を飲んでいく居酒屋の役割もしていた。  せーちゃんの家は学校からゆるやかな坂道を登っていくので少し時間がかかる。いつもの事ながら、間もなく木のたらいを担いで現れ、 「待ったか?ごめんな。たらいもちょっと重いんや。」 たらいのなかに二人の洗濯板を入れて一緒にかつぎながら海へ向かう。と言っても海はすぐそばで海へ降りていくという方が正しい。しかし、せーちゃんは 「みすみまで行くか?」 「ちょっと遠いなあ」 「そやな、西の波止のとこにするか。みすみに行く途中にうちんく(私の家)の畑があるしにちょっと寄ってみよかと思たんやけど」 二人が黙っていると 「そうや、たらいをここに置いとってちょっと畑までイテこうか」 何のことか分からない二人は肯いてせーちゃんのあとについて行く。 せーちゃんの家の畑はみすみの浜への海岸線の丁度半分くらいのところにあった。畑の中に入ると私たちの身の丈よりも大きなトマトがずっしりと大きな実をつけて茂っていた。 「好きなん穫ってええよ。海で食べんか」 「黙って獲ってええん?」 心配げにきく私に、 「ええんやで、うちやって畑てったいよんやから。ちょっと熟れかかったんが美味しいしにな。」 真っ赤なもの、オレンジ色のもの、少し色づき始めたもの、固く青いもの、小さいの大きいの、いびつなもの、びっしりと実ったトマトの畑の中には独特の青臭い臭いで息が詰まりそうだ。遠慮気味に小ぶりなものを獲ろうとしたら、 「のりちゃん、もっと大きいんにし」 せーちゃんはほんとによく気のつくおねえさんだ。 それぞれマイトマトを手にしてもと来た道を取って返し、たらいと共に海へ。西の波止から飛び込んだり、たらいに乗り込んだり、ビート板ならぬ洗濯板でばたばた泳ぎ、浅瀬では潜っては耐久時間の競争と、ほかにも来ている友達と時を忘れる。瀬戸内海は塩分が多いといわれ、湾の中は波もなく海に身を任せておけばいつまでも浮いていられる。 「トマト食べよ」 せーちゃんが手ぬぐいに包んで石でとめて置いたトマトをポンとなげてくれた。大きな口を開けてガブリとかぶりついたトマトは潮水が絶妙の味付けとなって私の舌に記憶されている。あの甘くも酸っぱい青臭さは夏の海の思い出につながる。 海で遊び疲れ、井戸端で水を浴び、着替えると大好きな学校の廊下に大の字になって転がっていると、そよそよとわたっていく風にふかれながら、いつか眠ってしまう。

てんぐんさん後日談Ⅲ

2007年08月20日 02時54分33秒 | Weblog
 マルセル・ジュグラリスさんとの出会いを書くにあたって、数年前ラジオ放送の中で、永六輔さんが彼は日本の能の研究者だと言っていたことを思い出し、ネットで調べれば何か分かるかも知れないと検索してみた。
 そこには、私たち親子の知らなかった彼の思いもかけない物語があったことが記されていた。自分から語らない奥ゆかしさを知り、私は自分の無知を恥じている。
 ネットによると彼はフランス映画、日本映画の交流に協力しパイオニアとしての実績を評価され、1994年第12回川喜多賞を受賞されている。その他色々な活動、著作なども紹介されている。詳しくは川喜多記念映画文化財団のホームページ「川喜多賞受賞者一覧」に記されている。
 
 また、ジュグラリスさんの若くして亡くなられた夫人バレリーナのエレーヌさんはフランスにおいて後に夫となるマルセルから日本の「能」を紹介され、自ら資料を集め本当の能を見ることもないまま「羽衣」をヨーロッパ各地で上演。あまりに情熱を注ぎ体をこわして32歳で亡くなってしまう。1951年の夏のことだ。
 エレーヌさんは「羽衣」舞台である三保の松原に憧れていて、夫であるジュグラリスさんにかわりに三保の松原を訪ねて欲しいと言い残して逝く。その年遺髪と衣装を持って来日。三保の松原を訪ねる。
 この話を聞いた地元の協力により翌年「羽衣の碑」が建立されたのだそうだ。エレーヌさんの名が刻まれ、マルセル・ジュグラリス作の詩も刻まれていると紹介されている。そして、毎年十月には羽衣の待つの前で「薪能」があり、「羽衣」が上演
され、羽衣の碑にはバラの花が多くの人によって献花されるそうだ。
(http://plaza.across.or.jp/^s-kankou/shimizu/guido/m003/index.html)を参照

数年前、夫と立ち寄った三保の松原。このようなジュグラリスさんの物語を知る由もなくこの碑も気づかなかった。

てんぐんさん後日談Ⅱ

2007年08月20日 02時53分53秒 | Weblog
 昭和四十四年
 私は二十四歳になっていた。東京有楽町の日劇の近くで人を待っていた。片手に新聞を持ちパタパタと音をたてて落ち着かなかった。人ごみの中から現れたのは二十五年前、岬の学校で会ったジュグラリスさん。当時よりももっとおでこが広くなっていたけれど懐かしい同じ顔だった。ジュグラリスさんは大人になった私が分かるはずもなく新聞を持っていますからと伝えてあったので、私の振る新聞に気づいて
 「やあやあ、こんにちは」
 と、流暢な日本語で近づいてきた。
 私は、都内で雑誌編集の仕事につき三年が過ぎていた。父がジュグラリスさんの住所を知らせてきたので思い切って手紙を書き、会っていただくことになった。実は、懐かしいというだけで、フランス・ソワレ紙のこともジュグラリスさんの仕事も、経歴も何も知らなかった。そして、時間を割いて会いに来てくださったジュグラリスさんは私のことなど露とも覚えてなどいなかったのではないかと今になって恥ずかしい思いがする。
 小豆島のちいさな学校に住んでいた小学生が、大人になって同じ空の下に現れ会いたいと言ってきたのを知らん顔もできなかったのだろう。だのに四十数年を経て私はどこかで食事をしたかお茶を飲んだか忘れてしまった。たったひとつ憶えているのは、
 「雑誌の編集をしているのなら、今度新しい形の女性ければ雑誌が出るんだよ。やってみたければ紹介するよ」
 と、言ったことだけ。
 「今和服の雑誌作ってるんです。やっと面白くなったところなので」
 私はこう言ってあっさりとお断りした。翌年その後一世を風靡した若い女性に向けて新雑誌が創刊される。くるくるっと巻いて小脇に抱えることができるおしゃれなもので、それがファッションとなった。
 ジュグラリスさんにはその後お会いしていない。

てんぐんさんの後日談Ⅰ

2007年08月20日 02時52分52秒 | Weblog
 中学生になって初めての夏休み、突然二人の女の人が我が家の玄関に立った。一年半前両親が岬から転勤になり、小豆島の中では町場にあたる安田に小さな家を建てて移り住んでいた。
 一人は小柄でキュートな若い日本女性。もう一人は背丈のある外国の女性だった。見ず知らずの人たちの突然の訪問に戸惑っていると
 「突然お邪魔してごめんなさい。わたくしは川喜多と申します。こちらはフランスの友だちです。以前岬の学校でお目にかかったことのあるマルセル・ジュグラリスさんの妹さんです。」
 と、にっこりと頭を下げられた。
 「ジュグラリスさんの。そうですか、それはよくいらしてくださいました。狭いところですがどうぞお上がりください。よくわかりましたね。ここが。」
 物怖じしない父はにこにこと二人を招き入れた。
 「彼から住所を聞いてきましたから。小豆島はとてもいいところだから是非行ってらっしゃいと薦めてくれました。先生をお訪ねするようにとも」
 「田浦には?」
 「行ってきました。昨日来ましたから昨夜は宿に泊りましていちばんで。」
 「そうですか。下手な写真ですが私が撮った田浦の写真がありますがご覧になりますか。ジュグラリスさんとの楽しい写真もありますよ」
 などと、話ははずみそのたびに川喜多さんは流れるようなフランス語でジュグラリスさんの妹さんにも語りかけていた。
 まだ昭和三十三年のことで家には大したおもてなしの出来るような食べ物がなくて、そのころ小豆島で作られていた青りんごを母が剥いて出した。当時は果物も少なく、片手に納まるようなような小さくて薄い若草色の青りんごは貴重だった。素朴でざらっとした舌触りで酸味が強く、いまどきのりんごとは似て非なるもの。
 「おいしいわ」
 と、くったくなくシャリシャリと音を立てて食べてくだっさたのでホッとしたものだ。だんだん私もくつろいできて、父と母が楽しそうに話しているのをじっと聞いていたら、
 「フランスに興味ある?」
 と、わたしに声がかかった
 「はい」
 それだけ答えるのがやっとだった。
 「フランス語お勉強したかったらアテネフランセに行くといいわ」
 アテネフランセについては、少女雑誌で見たことがあったが、それは別世界のことだった。私はこくんと肯くように首を折っただけ。
 二時間くらいして彼女たちが去った後父がつぶやいた。
 「川喜多さんって和子って言ってたなあ。もしかしたらあの東和映画の川喜多かしこさんのお嬢さんかもしれない」

せんせー!てんぐんさんがおるで

2007年08月20日 02時52分21秒 | Weblog
       天狗さんではなくマルセル・ジュグラリスさん(右端)      

 おひさまはぎらぎらと照りつけ、水平線には大きな入道雲が元気にもくもく空に突き上げてい真夏のある日。保弘君が妹のゆみちゃんと学校に何か叫びながら駆け込んできた。そして後から何人かの生徒が追っかけるように飛び込んできた
 「せんせーえらいこっちゃー」
 「なんじゃー何があったー」 おとこせんせも気色ばんで大声を出し、私は胸がドキドキした。
 「てんぐんさんがおるんや。汐江の浜におるんや」
 保弘君とゆみちゃんは、浜全体に角の取れたつるつるの石がゴロゴロしている汐江の浜のそばに住んでいる。汐江の浜には二人の家ともう一軒あった。
 「てんぐんさん?なんだそれは」
 「てんぐんさんや。せんせ。赤い顔して鼻がなごーて、ほら、大きいウチワもっとるてんぐんさんや」
 「天狗か。ほんまか。ぼくをおどかしに来たんか。やすひろ」
 「きんにょから汐江の浜に誰かおるみたいや。言うてうちのおばんが心配げにしよったから、朝なってから浜にいてみたんや。ほんだらテントがあって、人がおったんよ。そろそろっと寄っていてみたんや。ほんだら急にこっち向いたんや。赤い顔した鼻の長い人や。てんぐんさんやで。あれは。ほんまやで。せんせも浜に一緒にいてみんか」
 「よーし、行ってみるか」
 「せんせ、はよはよ」
 兄妹は、せかす。途中で兄妹についてきたみんなもハヨハヨと手招きをしながらせかす。
 「ちょとまて、ズックに履き替えるから。下駄では走れんよ。」
 私もいっしょに行こうとゴム草履を履いた。と、突然たけしくんが叫んだ。
 「うわー。来てしもたがな。てんぐんさんやー」
 四人のてんぐんさんが校庭に入ってきた。私たちとは少し違う人が四人やってきた。スカートをはいた人が二人と鼻の高さが私の何倍もありそうで顔が真っ赤に高潮している人(どう見ても人だった)が二人どんどん近づいてきた。
 白地のふんわりとした生地に柔らかな色使いの花模様のワンピースを着て長くてゆるやかなウェーブの髪を何気なく後ろに束ねた綺麗な女の人がにっこりと会釈しながら
 「こんにちは」
 と、言った。
 「初めまして。こちらの先生ですか?向こうの海でテントを張って遊んでましたら、生徒さんたちが見えたので声をかけましたの。そうしましたら、『うわー』
と、みなさん駆けて行ってしまって。だから、付いて行って見ようってことになって追いかけてきてしまいましたの」
 こんな言葉がこの世にあるのかというような美しい響きにうっとりとしていると
 「こどもたちが天狗さんがおると言って駆け込んできたものだから、何事かと今浜のほうへ行ってみようとしていたところです。あなたたちでしたか。なるほどね。何となく納得ですな」
 と、おとこせんせ。
 「てんぐさん?あの天狗?まあぁ」
その人はは連れの三人に向かって今度は訳の分からない言葉で話し始めた。彼女だけが私たちと同じ日本人だ。後の三人はうんうんとうなずいていたが、
 「うわっはっは」
と、笑い出した。
 色白の彼らは夏の日差しに当たって真っ赤に日焼けしていた。そして、タカーイ鼻が我々とはまったく違っていたので、よその国の人に会ったことのないこどもたちには天狗さんみたいと思ったことが、即てんぐんさんとなってしまったのだ。 そのような説明を受けたのか、てんぐんさんたちは楽しそうに笑った。
 その中でリーダー格のてんぐんさんがフランス人でフランス・ソワール紙の特派員マルセル・ジュグラリスさん。もう一人のてんぐんさんがジョージさん。そして、ジョージ夫人。そう言って紹介してくれたのが日本人の忍さん。
 ジュグラリスさんは日本映画に詳しく、木下恵介監督の撮った映画「二十四の瞳」を観てこの田浦を訪れたのだった。
 この日の出来事は私たちにとって外国、世界、人種などを初めて自覚した衝撃的なことだった。その夜すっかりうちとけたこどもたちは、汐江の浜に集まり流木を拾い集めてキャンプファイヤーで国際交流を果たした。