ゲイの学生がいて、時々、相談に乗る。
彼の自認は、トランス寄りのゲイ、ということらしい。
嘗て、いじめに遭って、休学していたこともあるが、今は復活して、
なかなかやる気になっている。
年上の彼氏もいるし、単位も着実に取っているし、就活も順調そうだ。
セクマイでも、もちろん、人によるのだろうが、
彼の場合、ゲイである、ということがあまりにも重いのだろう。
何かにつけて、「僕はゲイだから」ということを言う。
いやいや、そこはゲイとかヘテロとか、関係ないだろう、と思うような場面でも、
「ゲイだから、、、」となる。
過剰なほどに、ヘテロでないセクシュアリティを意識させられている。
そのために、劣等感もセクシュアリティと結びつく。
サークルを立ち上げようとして、なかなか皆の気持ちをまとめられない。
すると、
「やっぱり、僕はゲイだから、コンプレックスがあって、、、」
などと言い出す。
指導教官も、「やはり、ゲイは、、、」などとそれに追い打ちをかけたそうだから、
そこは、私が強く否定した。
「ゲイだからじゃないよ。人をまとめていくなんていうのは、
ゲイだろうが、ヘテロだろうが、難しいものよ。
ゲイは関係ないよ。ヘテロの集団だって、年中、もめているんだから」と、最後は私の周囲の実態。
この社会の男女の二分法の価値体系では、
ゲイである彼も、男性の側に位置づいてきた。
いわゆる男のステレオタイプからそれていたとはいえ、彼は、まぎれもなく男の恩恵も受けてきたのだ。
ステレオタイプからずれると、
もちろん、苦悩が大きい。
悩んだ期間は長いだろう。
が、答えが出ると、案外楽になったりもする。
仲間ができ、仲間内で語り合う時間というものができると、それは生きる活力源にもなる。
それが外にもあふれるようなパワーになると、今度は、「選ばれし者」のような転倒した優越感にすらなる。
最近、彼には、
「ゲイだからって、特別だと思うなよ」といさめたくなる瞬間がある。
所詮、オトコ社会で、男として育った幅の取り方は、他のヘテロの男と同様、身につけているのだ。
そこは、女性とは完全に違う位置取りなのだ。
一般社会とは転倒した価値体系のコミュニティがある。
マイノリティのコミュニティには、独自の階層がある。
私が属するコミュニティは、そこに長くいると、
結婚して、夫の扶養家族でいることに、恬として恥じない女性を見ると、異人種のように感じてしまう。
非婚で子どもを産んだシングルマザーは、上位に位置づく。
離婚女性はその下に位置づけられる。
夫の遺族年金を受給しているような私などは、日陰でひっそりと息をひそめている。
が、異性愛者というわけでもない、ということを主張する機会があると、胸を張る。
新たに異性の恋人を得た人を見ると、なんだかんだ言っても、結局、男好きのヘテロじゃないか、と蔑む私の目がある。
ましてや、結婚までした人を見ると、
なんだそれ? ただのそのへんの女だったのか、と裏切られた気分にすらなる。
ひとたび、一般社会に出れば、転倒する価値基準だ。
肩に力を入れないで、ふうわりと、
その人のままで受け入れ、
自分のままで自己表現をしていたいが、
そうしようとすると、むしろ、ほぼ世捨て人のように、人に振り回されないで生きる必要がある。
人を欲し、人と共にありたいが、
様々な思惑をかかえた人に振り回されないでいたい、というのは難しい願いだ。
マイノリティであるというアイデンティティは、本人を苦しめるが、
「選良」された者のような優越意識に転換しやすいものでもある。
なだらかに、多様性を受け入れ合う、というのは、言うほどたやすいことではない。
彼の自認は、トランス寄りのゲイ、ということらしい。
嘗て、いじめに遭って、休学していたこともあるが、今は復活して、
なかなかやる気になっている。
年上の彼氏もいるし、単位も着実に取っているし、就活も順調そうだ。
セクマイでも、もちろん、人によるのだろうが、
彼の場合、ゲイである、ということがあまりにも重いのだろう。
何かにつけて、「僕はゲイだから」ということを言う。
いやいや、そこはゲイとかヘテロとか、関係ないだろう、と思うような場面でも、
「ゲイだから、、、」となる。
過剰なほどに、ヘテロでないセクシュアリティを意識させられている。
そのために、劣等感もセクシュアリティと結びつく。
サークルを立ち上げようとして、なかなか皆の気持ちをまとめられない。
すると、
「やっぱり、僕はゲイだから、コンプレックスがあって、、、」
などと言い出す。
指導教官も、「やはり、ゲイは、、、」などとそれに追い打ちをかけたそうだから、
そこは、私が強く否定した。
「ゲイだからじゃないよ。人をまとめていくなんていうのは、
ゲイだろうが、ヘテロだろうが、難しいものよ。
ゲイは関係ないよ。ヘテロの集団だって、年中、もめているんだから」と、最後は私の周囲の実態。
この社会の男女の二分法の価値体系では、
ゲイである彼も、男性の側に位置づいてきた。
いわゆる男のステレオタイプからそれていたとはいえ、彼は、まぎれもなく男の恩恵も受けてきたのだ。
ステレオタイプからずれると、
もちろん、苦悩が大きい。
悩んだ期間は長いだろう。
が、答えが出ると、案外楽になったりもする。
仲間ができ、仲間内で語り合う時間というものができると、それは生きる活力源にもなる。
それが外にもあふれるようなパワーになると、今度は、「選ばれし者」のような転倒した優越感にすらなる。
最近、彼には、
「ゲイだからって、特別だと思うなよ」といさめたくなる瞬間がある。
所詮、オトコ社会で、男として育った幅の取り方は、他のヘテロの男と同様、身につけているのだ。
そこは、女性とは完全に違う位置取りなのだ。
一般社会とは転倒した価値体系のコミュニティがある。
マイノリティのコミュニティには、独自の階層がある。
私が属するコミュニティは、そこに長くいると、
結婚して、夫の扶養家族でいることに、恬として恥じない女性を見ると、異人種のように感じてしまう。
非婚で子どもを産んだシングルマザーは、上位に位置づく。
離婚女性はその下に位置づけられる。
夫の遺族年金を受給しているような私などは、日陰でひっそりと息をひそめている。
が、異性愛者というわけでもない、ということを主張する機会があると、胸を張る。
新たに異性の恋人を得た人を見ると、なんだかんだ言っても、結局、男好きのヘテロじゃないか、と蔑む私の目がある。
ましてや、結婚までした人を見ると、
なんだそれ? ただのそのへんの女だったのか、と裏切られた気分にすらなる。
ひとたび、一般社会に出れば、転倒する価値基準だ。
肩に力を入れないで、ふうわりと、
その人のままで受け入れ、
自分のままで自己表現をしていたいが、
そうしようとすると、むしろ、ほぼ世捨て人のように、人に振り回されないで生きる必要がある。
人を欲し、人と共にありたいが、
様々な思惑をかかえた人に振り回されないでいたい、というのは難しい願いだ。
マイノリティであるというアイデンティティは、本人を苦しめるが、
「選良」された者のような優越意識に転換しやすいものでもある。
なだらかに、多様性を受け入れ合う、というのは、言うほどたやすいことではない。