凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

今、、、

2010-08-29 23:03:11 | 考え方
 あんまり幸せな気分ではなく、親しい友人に、「ふと見ると、悲しそうな顔をしている」と言われたりする。入っているMLなどにも、あまり元気な自分を出せなくて、遠方の友人が「元気なさそうですね」と、メールに書いてきたりする。

 こういうのが続くと鬱になってしまいそうだ。

 が、こうも思うのだ。失ったことばかり数えているが、この人生で、良き時代もあった。そのことを喜ぶのはどうだろう、と。人と関係が持てないと思っていたが、多くの交友関係を得た。ほんとうに、心を打ち明け合った友人達もいてくれた。今は遠くなったとしても、確かに紡いだ心の絆があった。いろいろ、状況の変化で、人間関係も変わってきたが、ひとときでも、楽しく頼もしく、暮らせたことを良きこととして、カウントしよう。
 大正生まれの古い価値観の父親に、切って捨てるように言い切られた「お前に仕事なんかできない」という呪詛のような言葉にも関わらず、長い間、仕事で充実した日々を送った。今は、わけあって、その頃のような華々しい仕事はなくなったが、私の人生のなかで、あそこまで仕事に恵まれたのは、上出来だろう。

 古い価値観の両親は、私の将来に何一つ希望を与えなかった。今の考え方とは逆で、人生が自分の思いとおりにならないことを早く思い知るように、喜びを覚えないように、希望を抱かないように育てられてきたが、私は、何とか、時代の流れに追いついて、中年以降、自分の思うような生活を手に入れた。

 それは、上出来だ。海外旅行など、一生行くことはないと思いこんでいたが、もう何度か、海外へも出かけている。望めば、かなうことがたくさんあると知った。

 上出来だ。私にしたら、上出来の人生だ。

 彼の所に行く日まで、感謝して暮らすのもよし。

 ただ、感謝もほどほどにしておかないと、以前、大雨の日、雨露しのげる家に住んでいられることを感謝していたら、突然それに答えるように雨漏りが始まって、それも激しくて、家の中まで大雨状態になって、パソコンがだめになった出来事がある。「感謝したら、だめなのか」と、呆れるようなタイミングだったが、あれはきっと、気のゆるみをいさめられたのだろう。感謝もほどほどだ、、、。

 足りないけれど、今を享受する生き方が大事なのか。

「上司」であること

2010-08-09 07:43:44 | 組織・集団
この前の「ゆるいキャラ」の記事を読み直していて、ほんとうに、どっちのやり方が良い、とか、劣っている、とかいうことではないのだろうな、と思う。私の後任の「北風」タイプの人は、とても意欲的で、企画がうまく、常に前進を目指す人だ。その人の能力の高さ、意欲を買って、私が後任に推薦したのだった。

 ただ、昨今は、仕事が「出来る」「出来ない」という言い方がとても軽々しく流通していて、それが人格評価にまでつながるようで、危険な気がする。
 そもそも、仕事が「出来る」「出来ない」を、誰が判定するか、なのだが、往々にして、仕事の出来ない上司が、部下をそのように裁断している気がする。それは、上司にあたる人が自分の権限を利用して、人を評価し、裁断するという、監督職務を逸脱した行為である。通常、仕事が「出来る」「出来ない」は、そう簡単に決めつけられないところがある。適材適所を誤った管理側の問題も多々あるのだ。管理監督職にある者は、自分の部下にあたる人が、どういう適性を持っているか、何を担当すると能力を発揮できるのか、そういうことを見極めて、適材適所に配置する責任がある。それこそが、現場をあずかる監督職の役割であり、それこそが、役職手当をもらっている理由だろう。
 それができなければ、管理監督職に適性がない、ということだ。

 しかし、一旦ついた権限というものは、なかなか強固で、どの人も、結構、上司風を吹かせ、部下に言うことをきかせようとする。これまで、部下を持ったことのない人ほど、上司風を吹かせたがるのは、何だろう、権力に酔うのか?

 私は、上司であった頃、決して、部下にあたる人とはため口をきかなかった。ただでさえ、偉そうな肩書がついているのだから、肩書が強い分だけ、肩身が狭い気がしていた。おかげで、出入りする人は、私が名乗ったり、他の人が伝えるまで、私がそこの長であることに気づかない人の方が多かったが、、、。

 しかし、それくらいの気構えでよいのだとは思う。そもそも、上司と部下と言っても、それは、職場内の指揮系統上のことであって、それ以外の一切の場面で、対等な人同士だ。プライベートな場面では、それこそ、全く関係がない。部下に当たる人への敬意を失わない、ということは、肩書がつくと、自分自身が何か偉くなったように錯覚する人が多い中で、正気を保つには重要だったと今でも思う。







ゆるいキャラ?

2010-08-06 19:25:44 | 性格
部下にあたる人や年下の人から、私は、ものわかりのいい、受容的なタイプだと思われることが多い。以前、勤めていた職場で、私の指揮下で仕事をしてくれていた人たちと久しぶりに会って食事をしたとき、私の後任の人が抑圧的で困る、と盛んに愚痴っていた。そのとき、私のやり方は、『太陽と北風』の太陽だったということがわかりました、と言われた。確かに、根幹は全部私が組み立てているのだが、担当として活躍できる場所を常に残しておき、最後の仕上げをやってもらったり、彼女たちのアイデアや価値観を極力生かすような企画をしていた。基本は私が握っているのだが、彼女たちが仕事を通じて、自信をつけ、元気になってくれることを目標にしていたので、実に機嫌よく、働いてくれていた。また、一人ひとり、やり方さえ工夫すれば、実際にちゃんと自分の持っている力を発揮できるのだった。が、私の後任は、そういう思いで就任していないので、自分の求める水準を彼女たちに期待し、期待が裏切られたと思った頃には、彼女たちとの軋轢は、すでに大変なものになっていたのだった。

 その後任を「北風」と呼び、私は「太陽」だったというわけだ。言われてみればなるほど、と思う。
 私は確かに、基本的に太陽タイプの人間だ。誰に対してもそうだ。子どもの頃、『太陽と北風』を読んで、このような人にならなければならない、と思ったのも事実だが、しかし、私の太陽タイプは、もっと別のところに根ざしているのだろうと思う。

 実は、私は目標を設定できない、計画を立てられない、という弱点がある。目標に向かって、という言葉の意味が、基本的に理解できない。「北風」タイプの私の後任は、それが出来る人のようだ。だから、目標値に到達するために、「がんばる」タイプなのだろうと思う。が、私は、がんばれないタイプなのだ。だから、当然、他人にもそれを求めない。毎日、少しずつ、良かれと思う方向に向かって仕事をしていけば、そのうち、少しは前進するだろうと考えるタイプだ。いわゆる「ゆるい」タイプなのだ。
 もっと言えば、近い将来に良きことを期待するほど、希望的なタイプではない。とても長いスパンで見て、前進すればよいと思っている。否、それしかないと思っている。目標など設定して、うまくいくはずがなく、うまくいかなかったときの苦しみを考えると、初めから目標など立てたくないのだ。

 だから、部下に当たる人にも、今日、明日の仕事が、機嫌良くこなしていけることを望む。機嫌良くこなしていければ、それほど悪い結果が生まれるとは思えない。機嫌の良い仕事は、やる気を生むし、他の人にも良い影響を与えるし、充実感がわいてくる。その機嫌の良い仕事環境を整備するのが、上司である私の役割だと心得てきた。

 もちろん、それはそれなりに、苦労はある。まず、厳しさが足りないから、時には気のゆるみで、失敗が起こる。私は自分にはゆるくしていないので、失敗はたいてい、織り込み済みのことの方が多い。実は、失敗が取り返しのつかないレベルにはならないように、最も重要な部分は任せていなかったりする。だから、たいてい、すぐにフォローが効く。フォローした上で、失敗に目をつぶる。たいていは、失敗した本人が、自分で自分を責めている。それ以上、責めても仕方がない。基本が機嫌よく自己責任で仕事をしていると、充実感もあるので、責任を他人になすりつけることもしなくなる。必要以上に叱責を受けないので、潔く自分のミスを認めて、次から気をつける、という自己責任感の強い人でいてくれる。そうして、少しずつ、職業人として成長していく。

 性善説は、私は、基本的には正しいと、経験上も思う。信頼されると、人はその信頼にこたえようとする。任されると責任感を強める。得意分野を任されると、とりわけ、がんばる。そうして、経験を深め、成長していくと思う。

 そこには、私の仕事の目標など不要だ。仕事の目標は、現場の皆が、充実感を持って、やりがいを感じて、意欲的に仕事に取り組んでくれること。そうすれば、おのずと、現場では、「次はこうしよう」「今度はあんなことに取り組みたい」と、どんどんアイデアがわく。ほうっておいても、自律的な現場になる。私は、彼女たちをそういうように、方向づけようとして来て、ある程度、成功していた。彼女たちの得意分野を生かして、プロジェクトを任せると、いろいろな人に会い、交渉して、面白い展示をおこなったりする。私は、そこにコンセプトをつけていく。彼女たちの仕事に、本来の理念をくっつけて味付けをするのだ。それは、私は、彼女たちを養成している、という意識さえなく、自分にはないものを彼女たちは持っているのだから、それを生かしてもらおう、としか思っていなかった。
 私の指揮下にいた時は、「下手ながらも、参画している意識があって、仕事をしている実感があった」と、彼女たちは言っていた。

 たぶん、私はずっとそういうやり方だろう。が、世に言う「出来る」タイプの人たちは、そういうのが嫌いなようだ。目標を掲げて、着々と成果を上げていく。そういう仕事の仕方が正しいとされていて、私のようなやり方、私のような人間は、進歩も何も見えない、単にゆるいだけの存在なのだろう。

 どちらが良い、ということはないのだろうが、ゆるく、しかし、芯は通っていたいと思うけれど、、、。