凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

物質的に生きる

2011-12-29 00:16:18 | 日々の雑感
 私もつくづくそう思っていたのだが、先日、カウンセラーの友人も「人間って、物質的な生き物なのよね」と言っていた。確かにそう思う事が多い。心の悩み、というが、結構、物質的な要因が大きい気がする。寒いときは不幸感が漂うし、何やら悲しい。空腹だと、悲壮感が増したりする。年をとると、即物的な存在になるのだろうか。体力が物質的環境に敏感に反応するのだろうか。

 確かに体力が落ちて、寒暖の差が身にこたえるし、消化器系も丈夫でなくなるので食べられることが幸せに直結したりする。
 脳内の物質が気分を変える。からだが先か、心が先か、と言うと、若い頃は心が先でからだが後からついてきたような。今はからだが先で、心がからだについていく感じがある。だから体調が良いと機嫌も良い。

 悲しみも、キャパに応じた程度に広がる。悩むのは、それに耐える体力があるからだろう。若い時に悩みが多いのは、それに耐える生き物としての力があったのだろう。その力の限りに悩んでいたのは、なんだかもったいなかった。その力を、悩み以外に使えていたら、もっと実りある人生を送れていたのではないかと思ったりする。

年をとると、、、。

2011-12-21 08:50:18 | 人生
 昨日、古い知り合いの、母とほぼ同年配の女性と久しぶりに会った。相変わらず、凄い人だと思う。80歳を超えて、なお、ジェンダー・スタディーズ関係の抽象的な理論書を読む。今のように研究者の数が増えて、滓みたいな研究をしている人もたくさんいる時代ではなく、女性が大学進学などほぼあり得なかった時代の人だが、その知識欲はとても盛んで、芸術への造詣も深く、年をとればとるほど、読書も歌舞伎や文楽の鑑賞もますます面白くなってくるとか。

 その人と話をしていて、共感し合ったのは、人との交流は、辛いことも多く、ストレスもたまるが、また刺激も受けておもしろい、ということだった。私も、あまりにも辛いことが多かったので引きこもりがちだったが、やはり、人と交流して刺激を受けるおもしろさは捨てがたい。結局、また、少しずつ人と一緒に動き出している。

 83歳の母は、他人と接すると心傷つくことが多い、と、若い頃から友人を持たなかった。一人の自分自身の友人もなく、夫の親戚筋や知り合いと浅い交流をし、あとは、私と孫との交流だけだ。夫が亡くなれば、夫関係の交流もほぼなくなり、あっさりと長年住んだ家を手放して、私の近所に転居してきた。友だちもいない、一人ではほとんど近所の買い物以外どこにも行かない母を、私と私の子どもたちが、ほぼ週に2回昼食と買い物に連れ出す。母がそれだけを楽しみにしているのをわかっているので、これを欠かすことはできないが、母の生き甲斐や楽しみの心配までしている今の暮らしに、少し疲れる。
 思えば昔からそうだった。自分には何もはりあいがない、という母が、少しでも喜びを見つけられるように、と、あれこれ提案したり、時には誘い出したり、興味のありそうなものを提供したり、ということをしてみたが、所詮、自分の喜びは自分で見つけ出すもの。私の考えつくものでは、母は満たされない。

 基本的に好奇心というものがないようなので、何を見せても、何を聞かせても、喜びにはつながらないのだ。ほとんど一日中テレビのお守りをしているが、たまにそれも空しくなるようで、どんどんつまらない人になっていく。
 いみじくも娘が言った。「ストレスがないというのは、人をぼけさせるのかな」と。まさにその通りなのだろう。厳しいストレスには心身共にダメージを受けるが、適度なストレスは人を鍛えるのだろう。ストレスをただ避けるだけでは、人は成長しないのだな、と、この年になって思う。

 昨日会った女性は、何を話しても生き生きと楽しそうで、人との交流も広いので、いろいろ興味深い情報を持っている。もちろん、人との交流の中では不快なこともあるのだ。でも、やはり人と交流する喜びの方を採っているのだ。この人と話していると、人生はまだまだ面白そうだと思う。

 年をとればとるほど面白いのは、新しい発見があるから。私も、やっと今になって気づくことが多々ある。こんなこともわかっていなくて、今まで生きていたのか、と思うと、穴があったら入りたいような発見もある。それが、年をとることの醍醐味のような気がする。

人が亡くなる、、、、

2011-12-15 09:25:20 | 人間関係
私のまわりの人がどんどん亡くなる。
昨日、夜遅く帰ったら、またしても訃報が、、、。

お世話になった人なのに、長い間会えなかった。
私が病気になってしまって、それからその人が引っ越しをして、
さらに前の職場がらみで、この人をめぐる人が怖くて、なかなかお見舞いに行けなかった。

そういうことって、あるのだな。
いつ亡くなるかは、その人の都合なのだけど、生きている者の文脈では都合の悪い時期というものがあったりする。
サルトルが、昔、「人の死とは、いつも早すぎるか遅すぎるかだ」と何かに書いていたと思うのだが、(もう記憶もあやふや)、ちょうど良い死というものには、確かになかなか出会わない。

仲間割れの日記に書いたAさんもそんなことを言っていた。AさんとBさんの仲が悪くなっていた頃、二人の共通の友人のMさんが重い病気に倒れた。MさんはAさんに会いたがっていたと他の友人から聞いていたが、AさんはBさんと鉢合わせをするのがこわくて、Mさんに会いに行けなかったと言っていた。こういう時、Bさんの方が強いので、ずっとMさんに付き添っていて、Aさんは近づけなかったようだ。

 思えば、この頃から、Bさんの思い込みの激しさやストーリーを作ってしまう傾向が表れていた。私もMさんのお見舞いに行きたかったが、私自身は自分の病気のためにとうとう行けなかった。それで、当時まだ私に親愛の情を示していたBさんは、Mさんの様子をよく知らせてくれていた。それによると、Mさんには妹が二人いて、やさしい妹は友人たちにも優しいが、もう1人の妹はかたくなで友人が病室に出入りすることをいやがるのだと、私に伝えていた。

 Mさんには妹は一人しかいない、ということがわかったのは、火葬場でMさんの火葬の終わるのを待っている時だった。久しぶりに会うやはり共通の友人Kくんがいたので、KくんにBさんから聞いた話を伝えた。すると、Kくんは、「妹さんは一人と聞いているけど」と不審がる。私は驚いてBさんに確認した。すると、Bさんは「そうなの、一人だったんだって」と、初めて知ったかのように言った。Bさん自身が妹に会って、何度も接触をして、「二人いる」と言っていたのに。

 この頃にはすでにもう、彼女のおかしさが現れていたのだが、私には奇妙な感覚だけが残った。実際に本人と会っていて、「二人いる」と思いこむことの信じられなさで、私はただ茫然としていた。

 思えば、それがBさんなのだ。人を白か黒に分けてしまい、白は100%正しく、黒は100%悪い奴であるかのようにストーリーを作り上げる。火葬場で見たMさんの妹は、普通に家族生活を営む地方の主婦、という感じの人だ。Mさんのように家族を持たず、様々な女性、男性の面倒を見て、一人で過酷な暮らしを維持し続けた生き方は理解できず、その彼女を取り巻く不思議なフリーランスの男女の友人にも戸惑っただろう。その戸惑いが、時には拒否的な感じになったこともあるだろうが、最終、友人たちに「偲ぶ会」を委ね、遺骨を故郷に持って帰って、再度、親族のやり方で見送ることにした、と聞いている。
 その妹と実際に接触した友人達は何人もいるが、Bさん以外は、一人しかいない妹を認識していた。Bさん一人、「良い妹」と「悪い妹」という像を作り上げていたのだった。

 Aさんは、Bさんを「病気」だと言っていた。一番近くにいたAさんだから、AさんがBさんの異変に最も敏感に気づくのかもしれない。
 私は、様々な人たちとの奇妙な、辛い出会いと別れを経験して、最近はこのような印象を抱いている。
 「邪悪」になる「病気」というものがある、と。人との関係には想像力が欠かせない。誰も他人の全てを知ることは出来ない。そうして、人との関係に良き感情を維持し、ポジティブな関係を築いていくのは、ある種、非常に冷静な理性の力のような気がしてきた。

 痴呆になりかけた高齢者の言動パターンで有名な一つは、「物を盗まれる」という被害妄想だ。非常によく聞く話で、ヘルパーさんが疑われたりして気の毒なケースが多い。たいていは、本人のしまい忘れだ。入れる引き出しを間違えた、入れた場所を忘れた、という類だ。しかし、自分の記憶力の減退を疑わないから、他人を疑う。
 被害妄想に取り憑かれた友人の言動を見ていると、これに近いと思う。自分は絶対正しいと思っているから、自分の身の上に起きた理不尽な出来事は、全部他人のせいになる。相手が悪い、ひどい、ということになる。理路整然と(見える)話を、事情を知らない人に伝えていく。
 「妹が二人」のように、事情を知らない者は、そのままそれを信じる。「妹が二人」のケースは、その誤りが証明できるが、微妙な感情のやり取り、言葉の応酬は、反証が難しい。そんないざこざが増えた。

 話を元に戻す。一度も見舞いに行けないまま、知人が亡くなってしまったのは辛い。こんな人生になってしまった我が身の不徳の致すところではあろう。

 

仲間割れ

2011-12-08 09:14:56 | 人間関係
 男性たちのグループがどのようなのか、私はさっぱりわからない。ただ、女性たちのグループの変化は、今、目の前でつぶさに見ることになってしまった。長い年月の間に、嘗て思いもしなかったことが起こっている。

 たとえば、一時期、私も一緒に3人でよく話し込んだ仲間がいる。Aさん、Bさん、私。まだ若くて、エロスもムンムンで、一番若いAさんはBさんを尊敬し、慕い、とても愛情を感じていたらしい。誰よりも好きなのが「B」だと言っていた。その当時、Bさんは私にその眼差しを注いでいた。Bさんと私は同い年。「こんなにも言葉が同じで、話ができて、外見も好きな人は初めて」だと、言ってくれた。AさんもBさんも、男性を恋人に持ち、私は結婚している、というヘテロセクシュアルの暮らしをしていたが、当時、女性達は女性同士の絆にもっと価値を見出していた。私もBさんのことは、誰よりも好きだった。エロスの対象としてではなく(それははっきりわかっていた)、人間同士の絆のようなものを強く感じていた。あるゲイの男性は、私がBさんに恋をしていると勘違いさえしていたが、そういう意味では実はBさんの方から強いアプローチがあったのだった。私は彼女に、強い友情を感じてそれに応えていたのだ。Aさんは、私には少し若い人で、Bさんを慕っていることも、私にはほほえましく感じられることだった。
 そのうち、私は別の活動にのめり込み、彼女たちとの活動から少し遠ざかって行った。その間に、AさんとBさんとの連帯はさらに深まり、強まり、社会的な活動の場で発揮されていた。

 AさんBさんと再び一緒に活動するようになったのは、割合に最近だ。Aさんとはたまに会うと、「久しぶり~」と声を掛け合う感じで、Bさんとは結構交流が持続していた。今では法人となった団体で二人三脚のように活動する二人から声をかけられて、その法人の役員になった。二人は実務を分かち合うコンビ、私は役員として助言などを求められると応じる、というような配置だったが、何年か経ったとき、この二人が決裂した。Aさんは一人前以上の仕事をこなす、頼りになるリーダー格の人として成長し、Bさんのポジションの後継者となった。が、Aさん曰く、BさんはAさんにそのポジションを渡す気はなかったそうで、AさんはBさんには何も意見が言えなかったそうだ。Bさんは、その団体を「追い出された」と言いながら去って行った。

 真相はわからない。役員として、Bさんの相談にのってきたが、ほぼ同時にAさんの相談にものることになった。Bさんは相談に乗っているとき、ただの一度もAさんの悪口は言わなかった。AさんはBさんについて、いろいろネガティブな言い方をしていた。これは、Bさんがフェアだという証拠にはならない。権力のある方は、自分に従っている人のことは気にもしていないことが多い。力のない方は、直接言えないことを、陰で言うしかない、ということがある。

 Aさんが度々Bさんについて言っていたことで、奇妙な印象に残っていることは、「Bさんって、気が小さいの。講演に行く時は、びっしりノートに話すことを書いて、とても緊張しているのよ」と言っていたことだ。それが複数回言われたとき、Aさんにはそのことがそれほど重要なのかと思った。たいていの人は、講演前は一定の緊張を持つ。聴衆によっては、今日はやりにくいな、とか、いろいろ思うのは当たり前だろう。そのこだわりは、Bさんをではなく、Aさんを物語る。Aさんはまだ若い頃、おとなしくて蒲柳の質、という感じの、自信なげな女性だった。でも、社会的な問題意識は強かったのだろう。なりたい自分と実際の自分とのギャップに苦しんだ時期があったような気がする。そこに、Bさんというモデルが現れた。AさんはBさんを目指したのかもしれない。

 多くの人は、若くて未開発の頃、持っている力よりも現れている力は少ない。自分を前に出す力も、人を引き寄せる力もない。が、潜在力はある。そういう人が殻を破ったとき、モデルと仰いだ人を凌駕するような力を発揮することはよくあることだ。
 Aさんは変貌した。蒲柳の質は逞しい体型に変わり、ロングヘアはベリーショートになり、小さな声で喋っていたのが、豪快に笑う猛者になった。当時を知っている人から見れば、別人だ。彼女はそうして、コンプレックスを克服し、自分の居場所を確保したのだ。

 Bさんは団体を「追い出された」という被害者意識でいっぱいになり、長年自分が全精力を傾けた団体の悪口を外部で言いふらす形になっているようだ。Aさんは、自分の意志で退職したはずのBさんの行動に傷つき、「辞めると言えば、みんなが引き留めると思っていたのに、引き留めなかったので、恨みに変わったのだ」という解釈をしていて、嫌な気分をひきずっている。Bさんの影響力は大きく、団体に協力的だった人が離れていく、というような現象も起こり、私はそれはそれで、Bさんは自分が何をやっているのかわかっているのか、と訝しんでいる。

 私は役員を下りて、もはや権力争いとしか思えないトラブルから身を離した。社会正義のため、弱者のため、と言いつつ、やはりそうして動くことが動く人間にとって、何らかのかたちで自分に利することだったのだと、あらためて社会的な運動のことを思う。いや、それでいいのだと思っていた。もともと「偽善でも、善なら良いではないか」というのが、私の考えだった。動機は何であれ、必要とする人に必要とする物が与えられるなら、それでいいのだ、と。
 それほど崇高な魂があるのかないのか、目には見えない。が、見えるものは実際の救済。テレビドラマの「同情するなら金をくれ」というせりふが有名になったが、身も蓋もないそのせりふが真実を言い当てているようで感心した。
 今回のように、トラブると、そこのところが露わになる。

 AさんとBさんは完全に離れた。Bさんは、その団体の役員をしていた私が彼女の側につかなかった、ということで私からも離れていった。よくわからないが、彼女は自分の正しさを疑わないので、自分側につかない、ということで失望して、私にも背を向けたのだろうと思う。どっち側につくも何も、真相がわからないから真相を解明したかったのだが、Bさんは真相の解明を拒んだ。
 嘗て、仲良しだった3人は、今はこんなふうになってしまった。結果的に、Aさんと私の関係は変わらない。距離が極端に縮まらなかった分、そのままだ。一定の距離を保ったまま、というのは、寂しいがリスクは少ない。感情が持ち込まれないので、傷の舐め合いもいがみあいもない、ということだ。

人間関係

2011-12-05 09:43:15 | 人間関係
人生の前半は、全方位外交で、結構機嫌良く生きてこれた。なぜ、この年になってから、人と人のややこしい関係に巻き込まれ、仲間割れや派閥やそんなものに翻弄されなければならないのか、と思う。
 が、結構機嫌良く生きていたのは私の錯覚で、実はどこにも裏切りや仲間割れや、といったトラブルはあったのだろうか。そういったことにたまたま近づかないで済んでいただけだろうか。年をとるにつれて、それらの渦中にたまたま飛び込むような立場になってしまったということだろうか。
 
 子どもの頃や若い頃から、女の人たちが職場や学校で、仲良くなったりもめたりしている風景は確かにあった。小さな事で大騒ぎをする少女達も、それに付和雷同する少女たちもいた。だから、決して人間関係のもめ事がなかったわけではない。ただ、私がそれらに巻き込まれず、超然としていられただけだ。細事に振り回されない少女だった。職場でも、確かにいろいろあって、いじめも見たことがある。一人の年輩の女性が、若い女性達にシカトされていた。その職場に後から入った私は、びっくりした。その若い女性達は、グループを作り、お昼ご飯を食べに行くのもグループ単位。一つのグループと仕事をする機会が多かったので、一緒にランチを食べに出ると、他の人たちの悪口のオンパレードだった。私はこれは毎回たまらない、と思ったので、当時自分が凝っていた英語のクロスワードパズルを見せてみたら、どの女性達も高学歴の勉強好きなので、これに一緒にはまってくれて、毎回ランチを終えると、悪口がなくなり、クロスワードに夢中になったこともある。シカトされていた年配の女性が退職する事になったとき、私ともう1人の人と2人で送別会をした。
 そして、私よりも後から入って来た若い人が、またなかなかそのグループになじめず、ずっと私を頼っていたことがあった。ある日、その人ともう1人若い人と3人で職場の帰りに喫茶店でお茶を飲むと、それもまた、他の人たちの悪口のオンパレード。この人達もそうか、と呆れたが、最後には吐き気がして苦しくなった。たぶん、毒気に当たったのだろう。

 そんなこんなで知らないわけではなかったが、パーソナル イズ ポリティカル やシスターフッドを唱えていた女性達は、そういうのとは違うと思っていた。そして、そういう女性達だから、私が深入りしてしまったのかもしれない。結局、ややこしい人間関係に巻き込まれた。

 人の好悪というものは誰にもあるのだろう。ただ、私は薄い方ではあると思う。人を嫌う、ということが少ない。嫌いになる理由がない場合、嫌いとは思わない。それほど好きではない、という人はいるが、ひどいことをされなければ嫌いとまでは思わない。ただ、ひどいことをされたと思うと、勿論、嫌いになる。否、憎むほどだ。

 先日、あるグループの飲み会があった。ものすごく久しぶりに会う人などもいた。私が以前の職場で被った困難の一端は聴き知っていて(ほとんどの人が少しは情報を持っている)、「お元気そうでよかった」と言ってくれて有り難い。私を被害者として認識してくれている。が、話が進むにつれて、私が信頼しているある人を嫌っていることなどが、わかってきた。え? そうなの? という感じ。その人は私にとってほんとうに信頼できる誠実な人、と思っていたので、もう一方の誠実だと思って信頼している人が、その人の悪口を他の人と言っているのを聞いて、がっかりする。人間関係というのは、ほんとうに複雑なもの。

誰もが誠実で信頼できる人なのだ、きっと。
そして、誰かにとっては、許し難い、とんでもない人物なのだ、きっと。
誰もが、そういう多面的な存在なのだ。

 私は付和雷同型の人間ではないが、信頼できると思った人がやっていることには賛同して協力していた。しかし、そこに協力すると、今度は信頼できると思う反対側の人から敵対視されることもあるのだ。

 一匹狼、ということばがある。それは厳しい生き方だ。誰にもどこにもくっつかない。オオカミならそれはできるかもしれないが、「虎猫」程度の私では、ほんとに厳しい。

ある職場の話(2)

2011-12-04 10:15:39 | 組織・集団
 思い出すと、今も歯がみする悔しさがこみ上げる。だから、心の整理のつもりで、またここに書いておく。

 私がいた職場は、本当に不機嫌な職場だった。私は中途採用された管理職だったが、当然、その職場の歪みを最初は知らない。それまでの職場では、一緒に働いた人とはトラブルもなく良い人間関係をつくってきたので、全く無防備に、虚心にその新しい職場にも入っていった。そもそも、私のモットーは虚心坦懐であるから、初めから構えなどはない。機嫌良く出勤し始めた私に、最初におかしな働きかけをしてきたパート職員がいた。私を他の団体の総務課長と引き合わせたいと言い、夜に食事をしようと誘ってきた。その団体とは、私の所属する団体とはお隣さんのような団体
で、何も知らない私にはつながりをつくる好機に思えて、その指定された場所に行った。が、そもそも歓迎されていない感じであったし、不思議な感じがした。そこに私を誘ったパート職員とその上司にあたる主任がいた。どちらも私の部下だが、二人はプライベートにもとても仲良しなのがわかった。パーティの時の写真だかを見せられ、仕事以外でもつきあいがあるのだと思った。その他団体の総務課長は、私の存在など無視して、自分の今日してきたことがいかに大変かをまくしたて、かなり不機嫌な対応で、私は居場所がなくてこまった。そのうちに、パート職員が私に対して、役所の誰が情報を持っていて、誰から情報をとるのがよいか、見極めて情報を取りにいかないといけない、というような説教を始めた。私には、わけがわからなかった。パート職員は週3日勤務の非常勤で、私の職場ではその人だけがパート職員で、週4日勤務の嘱託職員よりもさらに位置づけは不安定な身分だ。その人がなぜか、ベテランのように振る舞っていて、主任すらその人に一目置いている。
 不思議な光景ではあったが、それよりも私が不快になったのは、その人の滔々と説教する偉そうな様子と押しつけがましさ、そして、言われている内容のわけのわからなさ、困難さだった。私は気分が悪くなってトイレに立ったが、体勢を整えて戻ると、「気分がよくないので、お先に失礼します」と言った。そして、そのパート職員に対して、「私は、必要だと自分が感じた時に、自分で考えて情報を取ります。最初からいろいろ言われてもわかりません。これから自分で考えてやっていくだけです」と、言い捨てた。主任は、その頃はまだ私におもねる気もあったのだろう、「わかるわ」と小さな声で言った。が、パート職員は呆気にとられた顔をして何も言わなかった。

 たぶん、その出来事は、その職場での私の最初のつまづきだったのだろう。後で知った情報では、そのパート職員は、元役所の職員で、何か思うところがあって退職したが、私の前任者(役所からの出向の管理職)のお気に入りだったそうだ。そして、後にパート職員として、その私と引き合わせたいと言った総務課長の団体で働き、新しく私が働くようになった団体が設立されるといつの間にかそちらに採用されて働いている、という謎のような人物だ。そして、私が中途採用で入った後も、ずっと、その役所の権力を持っている人たちと太いパイプを持ち続けていたのだった。

 その職場には派閥があって、私が入ったときは既に目に見えない抗争があった。それも、職場内を、敵と味方に分けて考えたがる一連の人たちがいて、常に場を分断していた。それが後でわかるのだが、そのパート職員を中心とする人たちだった。彼女たちに連ならない人は、浮動層と敵に分けられているようだった。浮動層は、取り込もうと思えば取り込めるが積極的に取り込むほどの立場ではない人、はっきり敵と見なしているのは、彼女たちとは反対の意見を持っている嘱託職員数名だった。
 今思えば、あのパート職員がトラブルメーカーだったのかもしれない。元公務員であり、今も内部に太いパイプを持っている、ということだけで、しかも非常に強いキャラクターの人なので、引っ張り込まれるタイプの人は引っ張り込まれるのだろう。主任を操って、中枢のトップシークレットまで入り込んでくるが、私が疑問に思って意見を言うと、「そんなこと私に言わないでください」と、急に責任をとれる身分ではない、とパート職員の身分の低さを盾にする。そうなのだ、身分が不安定で低い、ということは時に武器になるのだ。
 結局、私は二年目に私の右腕になってくれた総務課長と話し合って、そのパート職員を入れない形で、情報の階層化を実現した。私が就任した頃は、そのパート職員が情報の階層化システムの構築に携わることになっていたのだが、そうなるとトップシークレットまでそのパート職員が握ることになる。そんなおかしな構図はあるまい、と思って、情報システムの構築を懸案にしていたが、二年目に総務課長になってくれた人が、パソコンのネットワーク化をあっさりしたまともな形にしてくれたので、上手い具合に事が運んだ。
 しかし、今考えると、その情報の階層化構想は、もともとそのパート職員と仲の良い主任が言い出したことで、すべての情報がパソコンを通じて、嘱託職員にまで伝わるのはよくないから、と階層化しようということだった。それなのに、そのネットワーク構築には、そのパート職員を連れてきて、「この人は元役所の職員で信頼できるから」と彼女にさせるという話だった。すべては、私がまだ右も左もわからない時期に行われようとしていた。そのパート職員と主任の構想が奇妙だったので、私が疑問を呈したら、「そんなこと私に言わないでください」と、パート職員に怒られたのだ。
 結局、実現したネットワークは、そのパート職員が入らない形で、しかも、役職が上がるに連れて、見える情報が増える。つまり、私のパソコンでは、職場内のすべての情報が見える、というかたちになった。指示系統、責任構造から考えたら至極当然の真っ当な構築がなされた。
 が、それを実施する前に、総務課長が私のところにちゃんと見えるようになっているか、テスト期間を作った。すると、誰がどういうやり取りをメールで行っているかが、一目瞭然なのだ。で、唖然とした。件の主任とパート職員が入っている外部のグループの人とのやり取りが頻繁で、しかも、今度の宴会は鍋がいいかどうか、とか、宝塚のチケットがとれた、とか、遊びの情報交換ばかりで、職場の仕事におけるメールのやり取りが一切なかった。すべて、外部の人との遊びの相談に使われているありさまだった。
 これはいつから行われていることなのか、私は頭をかかえた。私の前任者時代からのことだろうから、前任者が一定の自由を認めていたとしたら、頭ごなしに叱責するわけにもいかないし、どういうふうに注意しようかと思案した。が、考えれば当たり前のことだが、このテスト期間が終わり、総務課長が新システムの説明をし、これから各セクションのやり取りは主任のところで把握できる、さらにすべてはトップのところで把握される、と発表したとたんに、遊びメールはぴたりと止んだ。

 今振り返って思うが、私の前任者は、役所からの出向職員だった。パート職員とその上司である主任と太いパイプを持っている人だった。が、その後任の私は、完全に外部の人間で、そのようなパイプと縁もゆかりもない。だから、そのままにしておいたら、情報は入って来なくなる。それで情報を得るパイプとして、私を引っ張り込む作戦に出たが、うまくいかなかったので、結局、私を蹴落としにかかったのだろう。
 総務課長がある日、ぽつんと、主任たちが私の失脚を狙っているのではないか、と言ったことがあった。「まさか」と思ったが、彼の観測は正しかったのかもしれない。
 お人好しで画策を好まない私が想像する以上に、彼女たちは策士だったのかもしれない。しかし、その工作があまりにもみみっちいのだ。そのような工作をして、何をしたいのか。行政の方向性は、大局的に見ないと、何が正しいのか測れない。ちまちました人間関係のコネを作って動いても、一部の人の利益にしかならない。

 それとも彼女たちは、一部の人の利益だけを考えて動いていたのだろうか? そんなに、絵に描いたような策士、エゴイストなんかがいるのだろうか?

 少なくとも、私は、人は社会の正義のために動くと思っている。ただ、その正義が人によって異なっていたり、方法論が違うだけだと思っているのだが、実は、一部の人の利益のために策を練る人が、ほんとうにいるのだろうか? 行政のシステムを、一部の人の利益のために方向付けようなどと、考える人が本当にいるのだろうか?




ある職場の話

2011-12-03 20:55:32 | 組織・集団
 私はある組織に、請われて、途中から管理職として入った。右も左もわからないが、職場のトップだ。いろいろ困難はあったが、その職場のうまくいかなさの一つの要因が、退職してから見通すことによってわかった。
 その職場には、古株の監督職にあたる人たちがいたが、それぞれ、外部にメンターと思しき人を持っていた。さらに、私の前任者も、外部にメンターを持っていた。内部で対立や不具合が生じた時に、自力で解決できない人たちは、外部のメンターにそれぞれ助言を仰ぐ。時には、その外部のメンターが持っている影響力や権力を恃む。もちろん、頼られている外部のメンターは、積極的に、快く、助言を与え、時には具体的な方針を授けるだろう。外部のメンターといっても、全くの門外漢ではもちろんなく、その職場と微妙に関係のある立場の人、時にはその職場に強い権力を行使できる立場の人だ。しかし、あくまで外部だ。

 私は、途中で入った新参者なので、そのような複雑な人間関係までは見えない。内部の指示系統に沿った仕事をしようとした。しかし、指示はうまく伝わらない。末端の職員に行くまでに曲がりくねる。指示したことが通っていない、指示しないことが私の指示になっている、というような奇妙なねじれが多々起こっていた。当然、職場はうまく機能しない。いったい、どうしてこのようなことが起こるのか、わからなかった。職場は紛糾し、絶えず紛争の種をはらんでいた。

 外部のメンターは、相談を受けるが、内部にいるわけではないから、全てを見通してはいない。相談者のフィルターのかかった見方を聞かされた上で、助言をする。が、相談した方は、自分が自分に都合の良い助言を誘導したとは思っていない。尊敬するメンターの言う通りだ、と、そこで力を得て、新参者の私の判断よりも、そちらを優先しようとする。内部の指示者である私は、自分の指示の通りの悪さに四苦八苦する、ということになる。私は、古参職員を特に優遇するわけではないので、せっかく自分たちに都合の良い職場を築き上げてきた古参職員は、私の動きに危機感を感じるのだろう。せっせと反トップの動きを作るのだが、それすら、私にはよくわからない。「あの人たちは何がしたいのだろう?」という疑問だらけになる。時には恭順になるその人達の動き方が、はっきり見えたのは、結局、退職してからだった。

 この人達には、自分たちが面従腹背だった、という自覚すらないだろう。外部のメンターの力を恃んで内部を混乱させた自覚もないだろう。

 そして、外部のメンターもまた、自分が所属しない組織を混乱させた、などとは知るよしもないだろう。自分は、相談されたから、相談に乗ってあげただけ、親切に助言しただけ、と思っているだろう。自分は外部の人間だから、内部のことはわからないから、内部のことは内部で解決しなさい、と突き放す人はいなかったようだ。みんな、頼られたら力になってあげようとするのだ。そして、自分の助言が、他人の組織を混乱させ、疲弊させ、そこのトップを病気にまでしてしまった、などとは思いもしない。
 
 その組織の初代のトップだった人は、途中で辞めさせられることになり、訴訟まで起こした。が、訴訟を起こされても、誰一人責任を感じる人はいない。なぜなら、事を推し進めた張本人などいないからだ。あれこれ、うまくいかないところを継ぎを当てながらやりくりをしていた、そのやりくりの中に何人もの外部の人の無責任な助言がからむ。提訴された中には、外部の助言者、メンターは当然含まれない。だから、提訴された後も、おそらく無責任なコメントを続けているだろう。余裕なく、アップアップしながら組織を運営する中で、内部で自力解決ができないために、外部のブレーンを恃む。それも、公式に恃めばややこしくならないが、それぞれの人が個人的な関係の中で、力を持っている人を頼みにするのだ。だから、どこまでも、個人的なアドバイス、何の責任も発生しない中で無責任な助言が繰り返される。

 テレビドラマのように、単独で、あるいは共犯でもいいが、意図的に悪意で仕組まれた事件の方がよほどわかりやくていいな、と思う。現実は、そういうものではない。本人には自覚がない。意図があったとしても、無意識の意図だ。誰かを排除しようと企んだのなら、犯人が存在するが、排除の願望があっただけで、誰も実際には排除の計画も相談もしていなかった、となると、犯人はいないことになる。
 そのようなものだ。組織のややこしさはそこにある。

 自分の位置がわからないで、無責任でいること、それが事件をつくる。誰一人として、(私も含めて、と敢えて自戒をこめよう)、この罠から自由な人はいない。時には助言者として、時には傍観者として、時には不作為の人として、この集団のからくりから自由な人はいない。




思い出ぼろぼろ(1)

2011-12-02 21:24:57 | 日々の雑感
 先月、ある人が亡くなった。一緒に仕事をしていた頃、私にひどい仕打ちをした人だ。その人のいじめは、ある日突然止んだ。なぜ止んだかと言えば、その人がまた別の人とトラブルになり、味方が必要になったから、私を味方にせざるを得なかったからだ。
 それ以前は、挨拶もしない、口もきかない、仕事の情報も与えない、会議からも閉め出す、というやり方をしてきたが、どうしても私をシカトしていては、仕事が成り立たないので、その人はいじめを貫くことができなかった。

 ずっと後になって、様々な状況をつきあわせてみると、その人は私を排除したい気持ちがあったのは事実だが、それ以上にその人が全く仕事の出来ない人だということがわかった。いろいろ奇妙な行動があって、それも私を困らせるためにやっているのだと思ったが、そうではなく、信じられないほど業務をこなせなかったのだ。そして、それを隠すためにおかしな言動に走る、ということがあったようだ。
 通常、人は自分が出来ることは、他人も出来ると思いこんでいる。自分が何気なく行うことを、出来ない人がいるとは思いにくい。たとえば、会議の時間配分は、重要な事項に十分時間があてられるように順番や流れを調整する。そのようなことが出来ない人がいるとは思いにくい。しかも、その人は立場上、私の上司のようなポジションだったので、私は、そのようなことは当然出来ると思いこんで疑いもしない。それなのに、再三再四、会議で話し合ってくれ、と頼んだ私の議題を、ものの見事にすっ飛ばして、「忙しいから」と会議を終えてそそくさと去って行った時には、わけがわからず、茫然とした。そのようなことをして、仕事がうまく進まなかったら、私だけではなく、会社全体の損失であるにもかかわらず、そのようなわけのわからない行動に出ることが多々あった。何のためのいやがらせなのだ、と思った。
 が、ずっと後になって、その人と縁が切れてから、第三者からその人は本当に仕事の出来ない人だと聞いた。あ、そうか、と思った。そういう目で振り返れば、合点のいくことはたくさんあった。

 あまりにも簡単なことをやらないその人は、いやがらせではなく、出来なかったのだろう。もちろん、なぜ出来ないのか、私には今も理解はできない。あんな簡単なことがなぜできない? とは今も思う。しかし、何かが欠落している、何かの能力に欠陥がある、ということはあり得る。

 その人の病状が末期だということを私に伝えに来た人は、その人のひどい振る舞いに相当腹を立てていた。私は、「何かが欠落しているのではないか」と言った。そうとしか思えないのだ、と。すると、それを聞いた人は、「あ、それならわかる」と答えた。一般の常識では説明のつかない、邪悪な行動に出る人は、「悪意」よりも「欠落」を疑った方がよい場合があると、だんだん思うようになった。

 その人は、死んでしまった。その病状を伝えに来た人は、私に何か共有を求めるかのように何度か、報告に来たり電話をかけてきたりした。私は、「誰でも死ぬんだと思うだけ」だと答えた。私がその人から被った、悲しみ、失望、怒り、不信、といったような感情は、結局誰にも共有されていない。黙って、その事実を見る以外に私のリアクションはない。

 その人が私を排除したかったのは事実だろう。私がいると、その人は目立たない。常に私の方が人々に慕われる。だから、私の存在がいやだったのだろう。その人が終生パートナーにしたのは、その人よりも人格的に問題があるとされる人だった。そのおかげで、その人が穏やかな良い人に見えていた。しかし、私が現れると、格段にその人の価値は下がった。だから、私の存在がいやだったのだ。でも、排除しきれなかったので、戦略を変えたのだろう。今度は妙におもねってくるようになった。しかし、もはや私はなびかなかった。ただ、淡々と仕事をし続けた。

 その人が私を会議から排除して、仕事がやりづらくなったとき、オーナーに訴えたことがある。その会社の責任者としても、あれではよくないと、はっきりと訴えた。しかし、オーナーは当時はその人を信頼していて理解してくれなかった。が、その後、その人とオーナーがうまくいかなくなり、その会社はつぶれた。経理も杜撰で、まともに仕事をしていなかったことがはっきりしたのだ。私にすれば、それはそうだろう、と思った。責任者があそこまで仕事をしていないのだから、むしろ仕事をする私の足をひっぱるのだから、経営がうまくいかないのは当たり前なのだ。それから後に、オーナーは、私に悪いことをした、と、言っていたそうだ。そして、私への信頼を強めたが、私はもう、他の職場で苦労していてあまり交流はなくなっていた。

 そのオーナーも亡くなり、その人も亡くなった。妙なことだが、その人が夢に出てきた。何の感慨もなかったが、私に対して、悪意もなさそうなので、無意識に意地悪だっただけなのだなと思った。その人は、要するに、デスクワークが出来ないのだった。別のことではちゃんと出来ることがあるのだから、自分の適性を自覚して、出来ないことは出来る人にやってもらう、ということであるだけなのだが、そのような力量こそがなかなか持てないものらしい。

 小さな組織であれ、女性が管理・監督職に就くことが増えた。組織のシステムを理解しないで、自分の感情や他人の感情に押し流され、振り回されている人があまりにも多い。共に働く人への好悪の感情など、家に置いてきて、職場ではニュートラルに業務をこなすしかあるまい、と思うのだが、それの出来ない人が多すぎる。女がダメだと言われる所以だと思う。


若い頃の私

2011-12-02 13:30:06 | 日々の雑感
 間の悪い人の日記を読み返してみて、若い頃の私ならどうするだろう、と思った。きっと、若い頃の私なら、たとえイベントは終わっていようと、やはり本を受け取るためにだけでも会場には行っただろう、と。

 自分のために心身を尽くし(私はかって彼女の上司で、彼女のためにさんざん骨折った)、退職後も私の関わっている学習会によぶことで、彼女を鼓舞してきた。今回の送った本も、定価1900円、送料700円ほど。私の懐から出ているお金だということには、全く無頓着なのだろう。私も若い頃は、こんなものだったのかもしれない。しかし、約束を守ることには、非常に厳格だった。行く、と言えば、何があっても行った。相手の期待を裏切りたくはなかったからだ。

 そう言えば、昔、あるグループで、悶着があった。私が中心になって関わっていることなのに、私を完全に排除して一部の人が行動した、と思える出来事があった。私はその一部の人の行動をどう解釈すればよいのか苦しんだ。個人で動いたのなら、文句を言う筋合いはない。しかし、会として動いたのなら、私を排除することは私というメンバーに対する背信行為である。すると、Tちゃんという若い人が、電話をしてきて、「あれは完全に会としての行動だったから、あなたを排除したのはおかしい。問題にするべきではないか」と言ってきた。Tちゃんはその行動の計画が練られた時に居合わせていたので、はっきりと、私を排除した理不尽な行動である、と言い切った。それならば、やはり、一度はそれがどういうことであるのか説明を受けたい、と思い、次の会議に向けて話題にしてくれるよう、メンバーにFAXを送った。(まだ、メールがない時代。)そして、会議の当日。唯一、その行動が会としての行動であり、そのように計画が練られた、と証言するTちゃんが現れなかった。私は、呆気にとられた。Tちゃんのその証言なしに、私の言い分は成り立たない。逆に、行動を問題視された人は気を悪くしていて、私の疑問などよりも、自分たちの方が迷惑を被っている、と言わんばかりだった。私は、Tちゃんさえ来てくれれば、何が問題なのか明瞭になると思って待っていたが、Tちゃんは来なかった。悲しい思いで私は自分の言い分も疑問も取り下げた。多勢に無勢だったのだ。
 やがて、会議を終えて、皆でご飯を食べに行った。もう、私はすべてを水に流す覚悟をした。仕方がない、真相は明らかでないし、私の不快感は拭えないけれど、もう、忘れるしかないと思った。そして、いよいよ食事を始めようという頃に、Tちゃんは現れた。再度、唖然とした。そして、何事もなかったかのように食事をしている私の横に来て、「あれ、どうなった?」とささやいた。「もう、いいの」としか答えようがなかった。Tちゃんは自分の重要な位置がわかっていない。自分がそんなに待たれていたとは、想像もしないのだろう。

 このような事は若い頃は特によくあるのかもしれない。私もたくさん、そうして、人に迷惑をかけてきたのだろう。自分の位置が見えなくて。
 まぁ、それは、若い人に限らないけれど。