花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

こがね棒

2011-12-18 05:59:43 | 日記

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「加賀五兵衛」の「こがね棒」です。「こがね棒」は明峰白山のふもとに広がる肥沃な大地で育まれた、毎年兄が送ってくれる「五郎島金時芋」を素材にしており、お芋の含有量の重量百分率は4.5%だそうです。

サツマイモが日本に伝わったのは、中国からで400余年前の17世紀初頭です。関ヶ原の戦が終わって、家康が江戸に幕府を開いた直後の頃です。

サツマイモの日本への伝播経路をみると、次の3つのルートが考えられています。

先ず、1番目の経路として、メキシコ→ハワイ→グアム→フィリピン→中国→日本

そして2番目の経路として、ペルー→マルケサス島→イースター島・ニュージーランド・ハワイ・ポリネシア・メラネシア・ニューギニア→フィリピン→中国→日本

3番目の経路として、あのコロンブスが運んだコロンブス・ルートで、スペイン→ヨーロッパ・アフリカ・インド・東南アジア→日本です。

日本への伝播は、直接的には中国から伝わった可能性が高く、サツマイモが中国では『本草綱目』に「甘藷は交(ベトナム北部)、広(広東・広西)の南方に産し、民家では二月を以て種(う)え、十月に収穫する。その根は芋に似てやはり巨魁があり、大なるものは鵞卵ほど、小なるものは鶏、鴨の卵ほどで…海中(辺)人の寿命が長いのは、五穀を食わずして、甘藷を食うがためだ」と書いていあるそうです。

サツマイモは最近でこそ、単にエネルギー源としてだけでなく繊維質を豊富に含むなど機能性食品として見直されているが、それまでは救荒作物として取り扱われ、常に米麦の陰に忘れ去られた存在でした。

国連食糧農業機関(FAO)によると、現在世界の人口は66億人といわれますが、このうち8億~12億人もの人々が食糧難に悩み飢餓に瀕しているといいます。

2050年には地球人口は92~120億人と推定されるなど、あちこちで食糧危機が叫ばれている折から、サツマイモの食糧不足への貢献を考えると、21世紀の主要な作目として再考する価値があるらしいです。

ところで、サツマイモの生産性をみると素晴らしいことがわかります。それは、サツマイモは単位面積当たりのエネルギー生産力が極めて高く、現状の単位収量でも稲の2倍、小麦の3倍、大豆の5倍といわれていて、仮に世界の作物を全てサツマイモに置き換えるとすると、なんと108億人を養うことが可能であるそうです。

五郎島金時も五兵衛が種芋を取寄せて、金沢にもたらされました。人類にとって貴重な作物でありながら平常は忘れられがちな存在であるサツマイモについて、今一度、その優れた栄養面と生産力の高さを見直してみることも大切だと思います。

ヘルシーで上質なお味だそうで、社名の「加賀五兵衛」の由来は「銭屋五兵衛」からきているとのことです。
素材にこだわり「人」と「人」の縁を結ぶお菓子作りをしているそうですが・・・平成24年1月31日で廃業されるそうです。

んー残念、おいしそうだったのに。

でも、普通のお芋さんの方が美味しいかな。

 


銭屋五兵衛6

2011-12-18 03:53:27 | 日本

江戸時代は、「士農工商」の身分制度が確立していた時代です。また、商人が力をつけ武士や農民が衰えていく歴史もあります。でもこの時、世の中を支配していたのは武士階級でした。そんな中で加賀藩はそれまで五兵衛をさんざん利用して、藩ぐるみで密貿易をしていました。
銭屋五兵衛は、武士の知謀に敗れた御用商人の典型的な人物で時代の犠牲者と言えます。そのような背景の中で、武士により「食い物」にされた豪商は数知れず。

加賀藩からお墨付きで海運業を許された、五兵衛は古船を修繕した北前船に加え、新たに常豊丸(1539石積み)と常安丸(960石積み)の2隻を建造し、その裁許「御手船」に任命して、十村制(改作法)の長に任命され、名字帯刀を許しました。

加賀藩は他藩から一目置かれた存在で、その「御手船」ともなれば信用も絶大で、商取引には これ以上ない力でした。

加賀藩御用船の総支配を許可された銭屋の船には、鑑札や渡海免状も与えられ、鑑札には「加賀宰相用」と大書され、渡海免状には「この者には永代渡海の許可を与えてあるので、浦々(港々)では絶対に文句をいってはならない」ということが加賀藩の名で書かれていました。

また、前田家の家紋である幼剣「梅鉢の紋」を染め抜いた船印や、幔幕や、提灯の掲示が許されもしました。

宮腰の浜でつくられた「常豊丸」の建造には、加賀藩は取りわけ力を入れほぼ完成に近づいたころ、藩主・斉泰が二人の子供(後に藩主)と母親を連れ、宮腰の浜まで検分に訪れ、五兵衛に小判一両を下賜した程でした。

そして、天保15年4月18日の進水式には、金沢城の武士たちはもちろんのこと、城下町の町人や近在の農民たちも大勢見物人が押し寄せ、浜には54軒の茶屋が立ち並び、宮腰の町には臨時の飲食店が急増して、ウハウハ笑うほどの大儲けをしたといいます。

こんなにいい時代もあったのに、全財産を没収され、一族が処分され、家名断絶、主が獄死・息子が磔、極端ですよね。

本当に異様だな。

また、五兵衛が民から印象が悪かったのは、天保の飢饉で人々が飢えと病で苦しんでいるとき、御塩蔵跡2000坪の土地を藩から払い下げ受け、豪壮な隠居所を建てかえ、庶民の反感を買ったようでした。この工事が大きな雇用を生んだのですがわかってもらえませんでした。

直接、近隣の住民を潤すことも少なかったかもしれないし、河北潟干拓事業では地元住民をあまり事業には用いず黒鋤衆と呼ばれた甲(穴水)出身の宝達山で金を掘っていた人間を安く雇い入れ主に用いたので白い目で見られたようでもありました。

でも、五兵衛は米が不作の時期に備えて米に変わる作物を探していたら、薩摩に甘藷(かんしょ:サツマイモ)という作物があると聞き、1834年五兵衛により金沢や富山の薬売りによりサツマイモの苗が北陸へと伝えられ、北陸の飢饉に備えサツマイモの栽培は盛んに行われ、人々の大切な栄養源となりました。

サツマイモはこれまでの飢饉の際に多くの人命を救っています。今からおよそ270年前に西日本で虫害が原因で発生した「享保の大飢饉」、220年前浅間山の大噴火とその噴煙による「天明の大飢饉」、170年前の長雨と冷害により発生した「天保の大飢饉」や、近くは60年前の第二次大戦中・戦後の食糧難時代でもサツマイモが大切な栄養源でしたね。

五兵衛が最初に農民に配ると「こんな不味いもの食べられるか」と言われて、見向きもされず、田んぼの肥やしにしかならないと言って田んぼに捨てる人までいたそうですが、それでも五兵衛は「いつかわかる時が来る」と種を買い続け、見かねた五兵衛の妻が庭で栽培していました。

偶然にも庭で作り始めた年に大飢饉になり、五兵衛の妻は、芋をふかし、みんなに分け与えたところ、不味いと言っていた農民も「美味しい」と、サツマイモに驚き、五兵衛の蔵のサツマイモはすべて盗まれてしまったそうです。

盗まれた事を五兵衛は怒るどころか「みんながわかってくれてよかったと」とても喜んだとあります。

「豪商」や「両替商」「金貸し」というと、欲張りな金の亡者のイメージですが、五兵衛は商売で儲けたお金を自分のことだけに使うことなく、織物業の発展や、海沿いに住む人たちのために防砂林を作ったりし、晩年は私財を投じて干拓事業で社会貢献に使いました。

江戸時代後期は、近代社会へと大きく転換しようとする変動のウネリの中でした。

五兵衛が海運業によって得た利益を諸産業に投資することにより、富国民利を図ろうとしたくても、日本国内では、国を閉ざして専ら農業に経済の基盤を置く、幕潘体制がこの頃すでに行き詰まっていました。

特に加賀藩の産業は、藩政期を通じて前期産業資本の状態で留まり、薩摩や長州など幕末雄藩に見られた産業資本の萌芽はほとんど見られず、江戸期中期から貨幣経済が芽生え、米経済が抱懐しつつあったのに、封建的なままあり続けました。

前田のお殿様に習ってのことか?徳川と豊臣で戦ったとき、仲裁したぐらいだから藩は革新的なことできない保守的な体質なのかも。

後進的な農本至上主義であり続けたので、藩は逆に農村に手工業などが芽生え農業収入が落ちるのを極端に消極的だったかもしれません。

商工業の自由化と活性化による自由経済を実現させ、民を潤すことを願っていたことでしょう。

サツマイモのことがいい例かも?最初、どうしても受け入れにくいものでも後から「あってよかった」「助かった」と思うことがあると思うと、私もたまに先入観もって疑うことしますけど、サツマイモのように何処で、どう活きてくるかわかりませんからね。

最初に誰かが「サツマイモ」を美味しいと言ったら、みんなが美味しいって言って、五兵衛の印象も悪くならずに済んで、素直にサツマイモに感謝できただろうと思います。

本当は意外に美味しいかったのに、周りを気にして正直に「美味しい」って言えなかったのじゃないだろうか。。。

盗まれてよかったって・・・五兵衛さんって良寛さんと同じこと言ってる。。。

 

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