長男、喜太郎の供養碑は、南砺市(なんとし)宗守にありますが、駕籠の中で亡くなったのか諸説あり、わかりませんが銭屋とういう家名がなくなってから、ご子孫は「清水」という名を名乗っておられるそうです。
記念館には五兵衛の書簡の他に、孫の千賀が書いたとされる「千賀女の代牢願」などがあります。
また、最近では幕末に金沢・大野で暮らした科学者、大野弁吉と喜太郎が写った湿板(写真の原板)が、静岡県下田市の民家で見つかり、2011年3月2日に金沢市の県金沢港大野からく り記念館でその姿が公開されました。
写真だけは、石川県写真史に掲載されていたそうですが、原板を研究者が探していて、加賀藩と下田の関係について、歴史的考察をすすめる上で興味深い物となりました。
下田とは、伊豆の近くですね。この間、姑が温泉旅行に行ったお土産で、わさび漬けをたくさんもらったんですが、旦那あんまり食べなかったな。兄に送ってあげたらよかったかも~(^_^;)
そうそう兄には、確か5年くらい付き合った彼女がいました。偶然?私が通ってた高校の1年先輩で可愛いくて、気さくで優しい彼女でした。珍しいことに双子で美人姉妹のお姉さんの方で、私も一緒に遊んだり、兄と3人でご飯行ったり、可愛いがってもらったな。
あの「40で死ぬ」が理想の兄に彼女が出来たってことは、なんかいいかも~って思ってて、長く続けばいいと願ってました。
その彼女が出来てから、家を出てアパートで一人暮らも始めました。
何か家のしがらみから解かれたかったのか、定時制から勤めていた叔父の会社も「辞める」と決めて辞めました。
兄は、末の兄と違って家から出ないことには、会社も辞められないだろうと踏んでいたのでしょう。
突然で、叔父や父と揉めていたけど、兄は、周りをよく観てて、決めたら動く、すぐ行動する人で出て行ったもの勝ち?みたく、あっという間に出て行きました。
今、思えば、親戚でガチガチに固められた社会から、抜け出して行った我が家の特攻みたいな感じだったです。
父にも、それが出来ればよかったのかもしれないけど、自分の家族と同じくらい親や兄弟が大切だったから?、最後までできませんでした。
父の家族を思う気持ちが届くとよかったけど、真の思いが深く届くことなく、親や兄弟の思いのままになったのかもしれません。
父の「家族だから」と親や兄弟の「家族だから」の気持ちには段差があったように思います。
夜な夜な遊びながら、末っ子を妊娠してた祖母を置いて死んで行った祖父の代わりに、兄弟の中で人一倍頑張ったのだけど、頑張っても、気に入られたのは、利発な次男の方で、父は何でか認められなくてコケにされていたようです。かなりの天然で会話がマイペースすぎ、話を合わせることより、聞いてほしいタイプでした。次男はそういう、兄を見て、母親に好かれる態度をよく見てたんでしょう。
祖母は、なんせ気の強い人で祖父が死んでからは余計です。日頃から、妹と一緒に何でも言ってたのでしょうね。
母の子供への一言は、家での存在感を良くも悪くもします。叔母も、集まりの場所でいつも兄を小バカにする、祖母譲りの気の強い人なので、父の家族での立場は余りよくなかったみたいです。
まぁ…父の話も「認めてほしい」のような内容なので、嫌気がさすのはわかるのですが、母親に認められたい一心で、祖母の生活の支えになることが、嬉しかったのに、祖母や兄弟は父が会社を興したことで、今までの鬱憤を晴らし「責任とって、溝を埋めてよ」と、言うかのように、頼るようになったのだと思います。母の話からだから、そう聞こえるのか?わかりませんが、嫌なことされた方はよく覚えているみたいです。甘えなら可愛い程度だったかもしれませんが、父夫婦の予想を遥かに超えてました。
兄が彼女と別れてしまった本当の理由は、よく知らないけど、双子の妹さんが出来ちゃった結婚をして、その後から、彼女の家に兄が電話をすると「貴方はうちの娘と、どういうつもりで付き合っているの?結婚する気持ちあるの?」と、問い詰められたことがあったと聞きます。
ベースに、結婚に対して幸福を感じられない兄には、とても重い、彼女の親御さんの言葉だったでしょう。
兄だけじゃなくて、結婚に対して前向き考えられない男性は意外と多いと思います。
家庭に縁がなかったから、自分はいい家庭を作りたいと思うタイプと、逆に、人間の深いところまで知ると、冷めてしまったり、家族が早くに亡くなると、途中で別れてしまうのじゃないかと、自分の家族を持つのが恐くなったりするタイプの人がいると思うんです。
兄の場合は、その後者タイプだったのだと思います。
それに加えて、結婚は、きっちりするとなると金沢の人だと、嫁を迎えるということは、それなりの資金がいります。
相手にもよりますが、彼女のお宅は、創価に入ってるけっこうちゃんとしたお家だったので、迎えるとなると、おそらく、親の見栄でやるような仕来たりや式が多くて、親の援助なしじゃ難しいパターンもあり、結婚の為に親がローンを組むってザラですから、兄は両親に甘えることなんて出来ないし、かと言って自分で何とかする範囲を越えてただろうし、迷ったかもなぁって思います。
私は、旦那が金沢の人じゃなかったし、舅も姑も田舎から出て来て、難しいことはカットできたから、よかったのだけど、田舎ってそういうところを重んじるので、自由が利きませんね。
決して彼女と遊びで付き合っていたのじゃなく、本当に彼女のことは愛しいと思ってたはずです。
家が絡まない付き合いだけなら出来るのだけど、家と家のことや家庭のことを将来、真面目に考えると、自信が持てなくて結婚にまで至らなかったのだと思います。
また、結婚したことで、彼女にも家のゴタゴタに巻き込んだりしないか、反対されないかとか、何かあれば長男だから、家は自分が何とかしなくっちゃとか、幸せにできるかとか…その時は、金石に実家が越して、また借家生活になったところですから、無理もないかもしれません。
兄がこんなに長く付き合った彼女は、後にも先にも一人だけで、よっぽど好きだったんだろうなぁ…と、何か、つらかったと思います。
彼女と別れてからすぐは、兄はちょっと人が変わったように口数も少なくなり、髪も長くしたりして、仕事とか必要なこと以外、出かけることなく籠りがちな生活になりました。
丁度、私が結婚して、兄の中学生の時からの結婚しなさそうな?友達も結婚して、結婚について真面目に考えて「思い切って結婚してたら…」好きなのに、責任を負う勇気が持てず、心の中で葛藤したり、落ち込んだりの繰り返しの日々だったかもしれません。
心配して友達も来てくれたりしたけど、治ることなくて、兄がそこから抜け出すまでには、時間がかかったようです。