花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

双子姫

2012-01-23 13:21:08 | 家族

最近、Yは双子のお友達と仲良しです。
双子姫の妹ちゃんと仲がよいのだけど、お姉ちゃんとも良いので二人で先日、家に遊びに来てくれました。冬休みは、Yと友達がひらパーに遊びに行くと、偶然にも双子ちゃんも来ていたそうで、本当に気が合うみたいです。

この双子ちゃんのお母さんと、参観があったのでお話していたら、2年生のときに静岡県から大阪に引越してきたんだそう。本家にいったときに、富士山の裾野を通ったので、富士山の話で花が咲きました。

双子ちゃんで思い出して、そういえば兄の元カノも双子ちゃんでした。創価学会のご家庭だったので「南無妙法蓮華経」の中の文字をお名前に一文字入れられていました。恐らく、ご両親はバリバリな感じです。でも、兄抜きで、彼女と遊びに行ったりもしたんだけど、彼女自身から、勧誘などは一切ありませんでした。

彼女の双子の妹さんが結婚してから、兄が親御さんに「結婚する気持ちはあるの?」って詰められた話を、思い出してたら磐長姫(イワナガヒメ)と木花開耶姫(コノハナサクヤビメ)の話も思い出しました。

富士山が御神体の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ:静岡県富士宮市)の主祭神がコノハナサクヤビメさんだからでしょうか。

コノハナサクヤビメは、天孫降臨で日向国に降臨したニニギと出会い、求婚したときに、父のオオヤマツミはそれを聞き喜んで、姉の磐長姫と共に差し出しました。しかし、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけと結婚しました。

オオヤマツミは「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたのですが、ニニギはコノハナノサクヤビメだけと結婚したので、天津神の御子の命は「木の花のようにはかなくなるだろう」を教え、イワナガヒメを送り返したことで「天孫の寿命が短くなるだろう」と告げたといわれたそうです。

別れちゃったけど姉妹一緒な時期に、親御さんが結婚させたかった?感じが・・・元カノさんのお話に似てると思いました。何でも一緒に育てて来たから、元カノさんも同じ時期に結婚させたかったんだろうかな?結婚する気持ちの、真意を確かめただけかもしれないけど。

兄はデリケートなことは、はっきり答えない人だし、言わないから彼女とのことは、どうなったか本当に知らない。だけど、口に出さないけどあの落ち込み振りから、相当に未練があったに違いないと思ってます。
大の大人が家族と口を利かないって相当ですよね。

男性って、意外と本気で好きになった人のこと、忘れられないようです。
「男らしく忘れなよ」って、言う言葉が人によっては逆効果な場合もあるみたいで、思い詰めた人は「どうして男なのに、こんな性格なんだろう」って悩むこともあるので、気をつけましょうね(^^;

自分が好きで生きて別れるって、身を削る感じなのかもしれません。好きだけど以前のようには、会えない思いに何処で区切りをつけるか、いい聞かせても思いだけは募って行ったりして…。
男性は、プライドを持って仕事や生きていく道を理論的にこなしていくからか?、躓いたときに、打たれたら打たれ弱くなることもありそうで…、恋愛の心を深くまで通わせた相手への思いは、頭でわかっていても上手く器用にコントロールできにくいような…。
人によるのだろうけど、兄の場合はです。
元カノは、彼女から友達になって、フェイドアウトしたようなのですが、兄はカラッとして見えるものの、実はウェットタイプだと思っています。


長男は、親の傍に一番長くいることもあって、家や両親のことよく知ってて、何かと、弟や親のことを気にする性格の兄の場合は、相談するってことがなく、言わずして自分で何とかしようとしてしまいがちなところがあります。一番上だからってことで、見栄もあるのかもしれないけど、そんな感じだから彼女とのこと、誰にも頼らずに悶々としてたようで…。

私は一回、兄と彼女と私でご飯を食べに行ったとき、兄がトイレに行ってる隙に、「ごめんねー。うち色々とゴタゴタしてるからお兄ちゃん、結婚の話とか、はっきり言えないみたいで・・・」と彼女に言ったことがあります。

彼女は「いいげんてんてー、私、まだ、結婚したくないしー」と、言ってました。よく考えたら、妹相手に、本当のこと言われへんよなーと思いながら。でも、いっとかんと~って思って言ったな・・・。
私が関東から帰ってからの話だけど。

イワナガヒメは、岩のような不美人で一方、妹のコノハナサクヒメは、とても美しい娘だったので、父親のオオヤマツミ神は、イワナガヒメを不憫に思って、二人をニニギに差し出したのですが、イワナガヒメを返したことで「御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言われましたね。
兄の元カノさんは、美人系でしたが、兄は当時から「宗教は害」と言ってた人なので、彼女とは、好きでもこの辺りはどうだったのか疑問です。
好きだからって、この部分を譲る兄でもありませんでした。

彼女もご両親がしてただけで本人は特別、何も思ってなかったのかもしれませんが、素直そうでも兄と喧嘩したときは頑として謝ることなく「どっちがいい悪いとか、関係なく喧嘩やめよう」と、兄が言ってやめたほどですから、結婚に至らず別れた原因の一部分なのでしょうか?

ただ、こちら側から見て結婚に至らず別れた理由を振り返れば、家やお嫁さんを迎えるための経済状態に、兄の冷めてしまった家庭への思いが、湧かなかったかったことかな?他に彼女を迎えるにいろいろなことを乗り越える気持ちも、揃わなかったのかな?

ん~お兄ちゃん、当時は少し、頭でっかちになってたんじゃないかな?って思う。
彼女に家が、こんなんで知られて嫌われたり、相手の親御さんに会って何か言われるかとか、経済的なこと気にしてたり…。
彼女が可愛いくて、自分をさらけ出すことできなかったのかなぁ…。
っていうか、やっぱり家庭を持つイメージができなかったのかな。

終わった話だけど、カッコ悪くてもいいから、やってみた方が気持ちはすっきりと、踏ん切りがついたと思うんだけど。
彼女が本当に、お兄ちゃんのことを好きだったら、親を説得して、結婚の条件だったなんてどうにでもなりそうかも。

結婚は家と家の結びつきだけど、するのは当人同士の愛する気持ちと「一緒に人生を歩みたい」っていう思いなんだし、協力していくことが、結婚に至るまでも、お試しなんだって思います。

私、旦那に結婚前に「家の借金がまだ5千万くらいある」って~と、お馬鹿なことを言った覚えがある。実際は、わからないけど月々お父さんが返済してて、大丈夫なのに漠然とそんな金額だと聞いてたように思って、それをそのまま、結婚前に旦那に言ったら「それが結婚できない理由にはならんなぁ」と言った。金額を聞いて、驚かなかったし、火の粉を被るかもしれないとか、そういったことも考えなかったみたい。でも「俺が払うことは、宝くじ当たらん限り出来ないから、期待せんでな~」とも言った(^_^)けど、ああ、やっぱりいい人だと思って結婚したな。癖はあるけど(笑)だけど、変なこというんじゃなかったと・・・あはは(;・∀・)

コノハナサクヤビメは、ニニギに美しさから、好かれて、後で妊娠しても「自分の子供じゃないかも」って疑われました。
イワナガヒメも、容姿を見て心を見てもらえなかった。
ニニギは、いったいどうして結婚したのかな?
コノハナサクヤビメは美しすぎて、ニニギが容姿を気にして、自信がなかったり、イワナガヒメを返したのは、自分も容姿を気にしてたから容姿で判断して「サヨナラ」したのかも…。

相手より、自分の心が中心だったよう。

お兄ちゃんの場合、状況的に大変だけど、お互いの気持ちがあれば、駆け落ちまでないかなくても、相手も好きで多くを望まないなら、できたと思うし、ダメでも、そこまでして別れるっていうなら、それまでの相手だったってことで、無理に結婚したとしても、長く続かなかったかも…って思う。
余り形だけにこだわり過ぎても、不自由なんだね。

コノハナサクヤビメは、ニニギの子供じゃないかも…って疑われて、『ニニギの本当の子供なら産めるはず』と、産屋に火を放ってその中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産んだとされてます。

危ないね(^^;下手したら自分も死ぬじゃないか。でも、そこまでしてでも信じてほしかったんだね。
女の子をここまで、危険にさらすなんてニニギさんってば…。
「人の心の裏の裏はただの表だったり~」って、大黒摩季の歌(ら・ら・ら)にもありますので、深読みはやめましょうね。自分も含めて(^^;

結婚が一番、周りは安心だし、欲を言えば子孫がいたらいいのだけど、お兄ちゃんにとって、生きていく力や支えとなるなら、結婚じゃなくても、そういった人生の長い道を歩める友達がいれば、それもまた、いいなぁと思うこの頃です。

彼女とは、縁がなかったけど、私もお姉さんできたみたいで、一時は嬉しかったなぁ。
関東で失恋したときも、相談乗ってもらって、優しい人だったので。

今は、幸せを祈りつつお世話になったことを感謝しておきたいです。

コノハナサクヤビメは、木の花(桜あるいは梅の花)が咲くように美しい女性を意味するそう。

昨日から、頭の中で「同期の桜」が鳴っています。特攻隊と桜はつながりますが・・・
コノハナサクヤビメの火中出産と似てる部分はあるのかもしれませんね。

桜も梅もやがて、実ができる美しい木ですから、散りゆく桜には物語がキレイに結ばれるのでしょうか。

ご訪問、ありがとうございます。

 

 


医王山スキー場

2012-01-17 15:16:00 | 家族

最近は、寒くなってきました。みなさん、お風邪など召されてないでしょうか。北の方では、雪も降っているのかな?

子供の頃、冬場は、家族でよくスキーに行きました。私が通っていた小学校では校庭に芝生で坂?があって。冬場は体育の時間にスキーがありました。今はそれほど、雪がないからできないかもしれませんが、授業のためにスキーを学校に持参して登校もありました。

家族でよく行ったスキー場が医王山です。初級者向けのコースが主体のため、家族連れが多く、今はリフトが設置されて医王山スキー場となったそうですが、当時は「キゴ山」と呼ばれていました。

医王山(いおうぜん)は、金沢市と富山県南砺市にまたがり、奥医王は高さ939m、その西の白兀山(しらはげやま)は880m、北の黒瀑山(くろたきやま)は712mと共に一大山塊を形成しています。
719年(養老3年) 白山を開いた泰澄大師が開山し、薬草が多いことから唐の育王山にちなんで育王仙と名付けられましたが、722(養老6)年、第44代元正天皇(女帝)が大病にかかられ、大師がこの山の薬草を献上したところ快癒されました。

天皇は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を賜わり、山には医王山と命名されたということです。また、薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もあります。

また、ここ、医王山の戸室地区で採取される天然鉱石の戸室石(医王石)は石英閃緑玲石(セキエイセンリョクヒンガン)といい、天然の堆積海底鉱石で生命に必須の多種良質のミネラルを豊富にバランスよく含有しています。

この石は約1200年前、時の帝の第50代桓武天皇が病にかかったとき、この薬石を水に溶かして飲み続けたところ、病が治ったことから 貴重な薬石として珍重され、特別な地位を持った人だけの門外不出とされ 、江戸時代に前田藩では一般人の立ち入りを禁止された山でもありました。 

キゴ山の「キゴ」の由来は一向一揆に備えた佐久間盛政が築いた警護の砦の「警護」がなまって「キゴ」になったということらしいです。

キゴ山でのスキーの思い出は、上の2人の兄はもう大きかったので好きに滑っていて、私と末の兄の2人だけで初心者コースみたいなところで、一緒に遊んでいました。

三男の兄は、本当は兄たちにくっついて行きたかったようですが、上手く滑ることができない!と逆切れして、スキーをほっぽってロッジに帰ろうとしました。

私はそのとき、三男がロッジに行くなら「私もいくーっ」ていって、車にあった温かいお茶が入ってた水筒持ってついていったら、スキー場は晴れて道がテカテカだったので、私はコケちゃいました。

そのコケたとき、水筒を持った手が先に地面に着いたので、顔面はからコケずすんだのですが、持っていた水筒の中は、昔のガラス製の衝撃に弱い魔法瓶ミラーっぽい素材だったため、割れちゃって、水筒がお茶と魔法瓶のガラスの割れたのが混ざり、水筒を振ると「シャリシャリ」音がした思い出があります。

三男の兄に「あー割れちゃったみたい・・・」といって、笑ってしまったけど、母には怒られませんでした。

そんな、しょうもないできごとが今は思い出になってるので、面白いものです。

14日は三男の誕生日でした。オメデトウ(^▽^)

今日もご訪問をありがとうございます。


BOOWY 1224 MEMORY

2012-01-12 13:28:30 | 音楽(男性vo)

BOOWY 1224 MEMORY

 高校の宿泊学習のとき、ウォークマンにBOOWYの曲を入れて、バスの中で聞いていた記憶があります。

宿泊、どこにしたか、もう忘れてしまったけど、林間学校などで使われる施設だったので、山の中でした。

宿泊学習のプログラムのなかに歴史のある人形浄瑠璃を観に行った記憶があるんですね。。。観劇する劇場に到着すると当時、そこで熊を飼ってる人がいたらしく、檻の中に、月の輪クマがいて、団体で高校生がいっぱい来たからか?檻の中をウロウロして興奮してたなー。

でも、その熊さんも名物?みたくなってて「月の輪クマだよー」って、おじさんに教えられたようなきがします。

もう、クマはいないでしょうね。ムツゴロウさんのようなおじさんも少ないですし。。。

どうも記憶をたどると、白山の東二口歴史民俗資料館という所に、観劇に行ったようです。

この頃はキャピキャピの高校生だったので、こういった古い日本の伝統文化はそっちのけで、みんなと泊まって遊ぶことがメインでした。

内容、全然覚えてませんが、浄瑠璃とクマを観に行ったことだけ覚えてます。http://wedge.ismedia.jp/articles/-/734

この宿泊学習は、仲の良い友達とクラスが一緒だったので、とても楽しかったです。なので、私の中では、昔からBOOWY=宿泊学習=人形浄瑠璃があります。マリオネットの聞きすぎ?^^;

題名にもありますが、歌も心の記憶に刻まれますね。好きな一曲です。

 

 


銭五の孫娘・千賀女

2012-01-07 13:55:19 | 日本

 

もうすぐ、冬休みもおわりますね。長いようで短いですが、行事がクリスマスやお正月があるので子供たちは充実してますね。私の子供の頃は、クリスマスも浸透してなかったから、プレゼントってなかったけど、今はいいねー。

話が途中になって年越ししたんですね。そういえば。

printsandthings:  one hundred aspects of the moon 月岡芳年:月百姿/浅野川晴雪月・孝女ちか子 江戸時代後期、加賀国(石川県)の豪商、銭屋五兵衛が 河北潟開拓事業を行ったが、難工事の上に伝染病が発生し、 それが五兵衛が流した毒薬によるものであるという噂が流れたため、 周辺の農民・漁民から猛反発を受け、五兵衛は子らとともに投獄された。 その際、五兵衛の孫娘「ちか子」(千賀)は、祖父の赦免を願って 浅野川に身を投げて入水自殺を遂げたが、その願いも空しく五兵衛は獄死した。  1885年

幕末から明治期にかけてすこぶる活躍した浮世絵師「月岡芳年」は月を好んで描いた作品がたくさんあります。

「月百姿」の中の一枚に銭屋五兵衛の孫娘の千賀をモデルにした絵があり、それが上の作品です。

千賀は五兵衛の長男・喜太郎の次女で銭屋騒動の疑獄事件により永代牢となった父や一族の赦免に駆け回り、「百日駆込訴」(父の身代わりに入牢(にゅうろう)すること)を奉行所へ訴え続けた孝女として名高く、五兵衛の血を継いで俳句の才に恵まれた女性でした。

銭屋一族の多くは俳句と茶の湯を嗜んでいましたが、その中でも千賀女は一番の才能に恵まれていたようで、幼い頃から多くの句を残しています。
その才能は多くの文人からも認められ、加賀千代女の再来と期待されていたそうです。

「月百姿」での、作品上の物語は「祖父の赦免を願って浅野川に身を投げて入水自殺を遂げ、その願いも空しく五兵衛は獄死した。」ということになっていますが、事実は、千賀の「百日駆込訴」が藩に届き、5年後長男・喜太郎と次男・佐八郎は釈放されました。

しかし、その3年後に心労がたたってカリエスという病気を患い、千賀は26 歳でこの世を去りました。

私たちが記念館に足を運んだ、昨年は、五兵衛の孫千賀の没後150年にあたり、孝女として名を馳せた千賀女を偲ぶ展示が8月10日から行われて、最終日だった日の10月30日まで公開されていました。千賀愛用の羽子板などもありました。羽子板ってお正月っぽいですね。

どちらにしても、5年もの間、父と一族を思って、身代わり入牢を願い出る女の情念というか、思いはすごいですね。

そこまで、しないと一族の潔白を信じてもらえなかったのかもしれないけど、身を削ってまでした嘆願でお父さんは、釈放されたのに残念です。浅野川に入水自殺したことになっているのは、作者が悲運に思って父親の自殺と重ねているのかもしれませんね。

記念館での半生をまとめたVTRが上映される前に、銭五と千賀の人形浄瑠璃?(自動)による案内がされてました。よくできた可愛い人形でした。