愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

東谷山古墳群(1) 名古屋市守山区

2018年04月30日 09時14分08秒 | 名古屋市守山区
季節もよくなりました。4月29日(土)は名古屋市守山区と瀬戸市の間にある東谷山に行きました。

東谷山は、その西に志段味古墳群がありますが、東谷山自身にも古墳があります。

志段味古墳群 名古屋市守山区
志段味古墳群(2) 名古屋市守山区


東谷山フルーツパークの案内図

東谷山27号墳
この案内図の右側に東谷山があり、その頂上に至る道の途中に古墳がありますが、まだ見ていません。そこで、今回登ってみることにしました。登り始めて最初に出会ったのは、「東谷山27号墳」と言う横穴式石室でした。

東谷山27号墳の石室の跡

案内板では、
右にある石組は、東谷山27号墳の埋葬施設である。横穴式石室で、もとは墳丘で覆われていました。東谷山の山裾から段丘面を中心に、横穴式石室を持つ古墳が約50基築かれました。
と書かれていました。


50基ですから結構多いと思いました。この上にはまだ大きな古墳がありますので、この石室はそうした大きな古墳を作った人より下の位置にいた人かもしれません。そういう人が50基も墳丘を作ったということは、ここに一つの権力があったのかなあと思いました。


さて、急な階段を登っていくと、次の古墳南社古墳が見えます。

南社古墳

南社古墳

説明版によれば、
南社古墳は4世紀中ごろに築かれた径約30mの円墳です。東谷山の南側の峰の頂部に立地します。古墳は2段に築かれ、1段目斜面に東谷山で取られた角礫、2段目斜面に東谷山麓の段丘で取られた円礫の葺石が積み上げられています。麓から古墳を見上げた時に目立つ2段目の斜面を、わざわざ麓から運んだ石で飾っていることは注目されます。本古墳の埴輪は中社古墳のものと同時に製作されたもので、東海地方では最古級の埴輪です。中社古墳に葬られた庄内川流域の首長を支えた有力者の墓と考えられます。

2段目の葺石を麓から取った石で敷いたということは、東谷山の石ではなく、麓の石をここまで運ぶだけの動員力を持っているということの誇示でしょうか。

この山に登りながら「頂上に神社があるけど、祭礼の時にはいろんなものを運ぶのが大変だろうね。」と、一緒に登っていた人と話していました。それほどこの登山道はきつい道でした。(年寄りには)

中社古墳
さらに登っていくと中社古墳が見えてきました。この古墳は、前方後円墳です。

中社古墳 前方部分からみた円墳

中社古墳復元図 案内板より

案内板の説明では、
中社古墳は、4世紀中ごろに築かれた長さ63.5mの前方後円墳です。東谷山の山頂から南にのびる尾根上に立地します。後円部は3段、前方部は2段に築かれ、斜面には葺石が積み上げられています。墳丘各所に埴輪が並べられていますが、後円部の北側では、三角形の透穴をもつ円筒埴輪列が、元の状態をほぼ保ったまま埋もれていました。本古墳の埴輪は東海地方最古級のもので、当時の政治の中心地であった大和から直接的に伝わってきたものと推定されます。本古墳は庄内川流域を治めた首長の墓と考えられます。

下にあった円墳はこの地域の有力者、そしてここにある前方後円墳はこの地域の首長の墓というわけです。前方後円墳という形からなるほどと思いました。それにしても三角窓の円筒埴輪が大和から伝えられたものと推定していますが、この地域が焼き物の産地であったことを考えると、ここで生産されたことも考えられないかなあと思いました。


円筒埴輪
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋城ニュース 日記

2018年04月29日 08時25分41秒 | 日記

4月29日、今朝の中日新聞に名古屋城の天守閣が5月6日をもって見納めと言う記事がありました。
木造天守化のために、調査、工事に入るそうです。
戦後復興されて59年、「一つの役割を終えた」と記事は記していました。


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所城跡 東栄町

2018年04月21日 16時30分28秒 | 東栄町
4月21日、東栄町の別所城跡を見学しました。

別所城の場所(地理院地図より作成)

別所城は、東栄町役場の近く、東栄中学校のすぐ南でした。近くに設楽城があります。

設楽城の記事はこちら

別所城は、天文年間(1532~1555)に、長篠菅沼氏の家臣伊藤貞久によって築かれたそうです。その息子、貞次は、長篠の戦いで武田側につき、敗れて甲斐に落ちのびたそうです。(「日本城郭体系9」より)

さて
東栄中学校では、土曜日ですが、部活動をしていました。野球部、テニス部が活動していました。

東栄中学校 グランドの手前側(南側)で野球の試合をしていました。


別所城跡の石碑

別所城跡の石碑がグランドの南側のフェンスの外にありました。石碑は、北向き(中学校側)を向いて建てられていました。町教育委員会指定だそうです。

せっかくなので、石碑の背後に分け入ってみました。枯れた木や藪で大変でしたが、土塁の跡や腰曲輪ではないかと思われるものを見つけました。


別所城跡のイメージ


石碑の横の土塁跡 中央の藪の向こう側に石碑があります。


曲輪東の土塁跡

専門家が調べた縄張り図があれば、ぜひ見て確かめたいです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩作(やざこ)城跡 長久手市

2018年04月16日 15時53分56秒 | 長久手市
4月16日、長久手市の岩作城跡を見学しました。

岩作城には、東城と西城があるようです。東城は今の長久手市役所のあたりです。それより西に500mぐらい離れたところが、西城です。

岩作城跡の場所 岩作城の周囲には色金山、長久手古戦場、首塚、御旗山など長久手の戦いゆかりの跡がたくさんあります。(地理院地図より作成)

岩作城の歴史
「尾張誌」「張州府志」と言う本に今井五郎太夫、今井四郎兵衛という名前が出てくるそうです。今井氏は、東城の居住者だったようです。天正12年(1584)に長久手の戦いで、岩崎城に籠り戦死した武将の中に今井四郎三郎の名前があるそうです。今井四郎兵衛の子ではないかと言われています。今井氏は、この時徳川方に与していたようです。(「日本城郭体系9」、ネット「史跡夜話」より)

西城は、鈴木権八が住んでいたという記録があるそうです。(ネット「愛知の城」)


岩作東城跡(長久手市役所) 「非核平和都市宣言のまち」という横断幕がありました。

岩作東城
この市役所の南東のはずれに石碑がありました。

岩作城跡の石碑

石碑の裏に碑文がありました。
 その名を地名に残す岩作城は一説に今井五郎太夫今井四郎兵衛の館といわれ、また長久手の戦いで戦死した今井氏との関わりも考えられています。
岩作城発掘調査により、城は14世紀から17世紀のものであると分かりました。 
長久手古戦場国史跡指定60周年記念事業
平成11年5月吉日
長久手町教育委員会


岩作西城
てくてくと歩いて西城のほうに行ってみましたが、田んぼと家があるだけでした。

岩作西城があったらしい場所
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿本城跡(4) 新城市

2018年04月11日 16時06分04秒 | 新城市
土塁・空堀か
この二の丸でおやっと思う看板がありました。

二の丸先端の看板

なんと、「土塁」という文字がありました。
下調べでは柿本城には土塁等はないということでしたので、どういうことだろうと思い、看板に従って降りてみました。

すると、山も終わりかけた頃に思わぬ光景が飛び込んできました。
見事な土塁があったのです。しかも石積を伴うものでした。

土塁・空堀か 概念図


土塁と石積(概念図①②)


土塁・空堀かの看板(概念図③)


土塁の下の腰曲輪、石積のある段差(概念図④)

どうして、ネット等でこの遺構が紹介されていないのか調べたところ、「この石積遺構の性格については不明である」とのことでした。(新城市HP「井伊谷・井伊家と新城地域」)

今日は、最後にいいものを見て終わることができました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする