愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

生田(しょうだ)屋敷(生田城) 岡崎市

2015年05月31日 18時26分45秒 | 岡崎市
久しぶりのアップです。4月、5月は野暮用が多く、なかなか史跡めぐりに出かけられませんでした。唯一福井県の一乗谷城に行きましたが、アップする時間もなく、今日に至ってしまいました。今日は岡崎のほうに史跡めぐりに出かけましたので、その記事をアップします。一乗谷城は日を改めましてアップします。

古戦場「小豆坂」のすぐ近く
諸国古城の図に「生田屋敷」というのが紹介されています。その解説文には、「本図は堀に囲まれた屋敷跡よりも、『小豆坂』という峠道を中心とした周辺地形の方が大きく描かれている。小豆坂は、天文17年(1548年)に今川義元と織田信秀が戦った古戦場であり、永禄7年(1564年)には徳川家康もここで三河一向一揆と戦っている。『駿河勢此所野二陣ヲ取由』との注記もあることから、本図は小豆坂を意識して作成されたと考えられる。」とありました。

三河一向一揆における小豆坂の戦いは、本ブログでも紹介しました。(タイトル「小豆坂古戦場跡 岡崎市」)しかし、生田のことが出てくるのは、「信長公記」です。

天文11年(1542年)8月上旬駿河の今川義元の軍勢が三河の正田原へ攻め寄せ、陣を7段に展開した。その時、三河の安祥の城は織田信秀が守っていた。駿河勢の由原と言う武士が先陣で、小豆坂へ軍勢を繰り出した。そこで信秀は安祥から矢作へ出撃し、小豆坂で信秀の弟たち信康、信光、信実らとともに敵と接触し、一戦に及んだ。(現代語訳「信長公記」、太田牛一著、中川太古訳、KADOKAWA)

この「正田原」が生田屋敷の辺りと思われます。
行ってみると、そこは田んぼでした。そして田んぼの中に石碑が建てられていました。


なぞ多き生田屋敷
左下に、この石碑についての説明がありました。

生田城
明和年間、生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に附添武士として栄任され時の庄屋本間幾衛門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。
昭和55年5月吉日
本間淳治建立


明和年間は、西暦で1764年から1772年です。徳川家康の姫御前とは亀姫ではないかといわれているそうですが、年代が合わず誰なのか不明です。
いずれにしても、生田屋敷は庄屋の本間さんに引き継がれ今日に至っているのではないかと思われます。本間淳治さんとは、庄屋本間幾衛門重勝さんの子孫ではないかと思います。
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足助城(真弓山城)(2)  豊田市

2015年05月04日 08時29分48秒 | 豊田市
西物見台
西の丸を見た後は、西物見台です。


西物見台

西物見台は、南物見台が柱だけで建てられているのに、どうして板で囲われているのだろうと不思議に思い、中を見ました。


南物見台


西物見台の中の説明

理由が書いてありました。物見と武器庫を兼ねていた建物だったようです。中に弓・矢などを入れておいたようです。それにしても、建物の腰板があったかどうか、またどのように使われていたか、どうして分かったのか不思議です。なにか文書でも残っていたのでしょうか。

3年前は、建物を撮って終わっているので、そこまでは考えていなかったようです。

南の丸
次は、南の丸です。3年前は、「はねあげ戸」「かまど小屋」「厨」「南物見台」を順に見ています。

はねあげ戸


カマド小屋


左かまど小屋、右厨、左上は南物見台

本丸と南物見台の間に堀切
今回も同じように見ていますが、一つ大きな発見がありました。


左が本丸、右が南物見台、間が堀切

南物見台と本丸の間に堀切があったということです。3年前にもあったのですが、見逃していたのです。物見台自身も高いところにあるのですが、そこから敵が本丸に攻めてこないように堀切が設けられていたのです。現在は、堀切の底が道となっていて、本丸と南物見台とに橋が架けられていて、その先に本丸の高櫓が見えるので、3年前は、そちらに目が行っていたようです。
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足助城(真弓山城)(1)  豊田市

2015年05月03日 08時18分58秒 | 豊田市

足助城パンフレット(赤い線は見学順路)

4月27日は、足助城に行きました。以前にも訪れたことがありますが、そのときは山城に今ほど関心はありませんでした。今までいくつか山城を見学した後でもう一度この足助城を見学すると、どんな風に見方が変わるかと思い、行ってみることにしました。

先回訪れたのは2012年6月10日です。およそ3年前です。そのときに写した写真があるので、比較しながら自分の意識がどうだったか、振り返ってみることにします。

戦国時代の城門
まず、3年前は門に注目しています。

3年前の足助城の門

この門は、この後に見学する東条城、桜井城、岐阜城に同じような門があり、これこそ戦国時代の城の入り口かと思っていましたが、今年見学したときは、変わっていました

うーん、どっちが本当か。

堀切
次に3年前は、入り口からぱっと視界に入る南物見台を見ています。

3年前の南の丸および南物見台

この眺望が、宮崎アニメの「もののけ姫」の「タタラバ」のイメージとそっくりといたく感動した覚えがあります。

しかし、今回は「堀切」という道標を見ています。

そして、物見台よりもその下のほうに注目しています。堀切を見ていました。


腰曲輪に注目
次は西の丸です。12年は西の丸腰曲輪1から西の丸へと見学しています。(見学順路)
今回は西の丸に行くまでに南の丸腰曲輪1,2を見学しています。そして、西の丸をはじめに見て、その後で腰曲輪を見ています。しかも西腰曲輪1のさらに先を見ています。

南腰曲輪1

南腰曲輪2

西の丸

西の丸腰曲輪1の先(腰曲輪2?)

こうやって、振りかえるとずいぶん見方が変わってきたなあと、我ながら驚いています。
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有松界隈(2) 名古屋市緑区

2015年05月02日 07時13分15秒 | 名古屋市緑区

有松町の町並み

有松町は、その古い町並みが名古屋市都市景観条例で守られています。有松町で保護の対象となったものは、以下のようです。
岡家住宅、小塚家住宅、竹田家住宅、西町山車倉、服部家住宅、服部家土蔵(1992年指定)


服部幸平家の倉 絞問屋服部家から分家した家柄。明治時代中期。


こちらの建物が棚橋家住宅です。文化財の看板がありました。

棚橋家住宅主屋(旧 絞り問屋 大井桁 服部家の遺構 建築年代明治8年上棟)と記してありました。

こちらの建物は有松絞り井桁屋ですが、屋根に「うだつ」がありました。服部邸(愛知県指定文化財)


こちらは山車倉です。


以前、鳴海の宿ということで鳴海町を訪れたことがありましたが、雰囲気的にはこの有松町界隈が昔の面影をよく残していました。古都を散歩している感じでよかったです。
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有松町界隈(1) 名古屋市緑区

2015年05月02日 00時02分53秒 | 名古屋市緑区

インターネット「楽天ICIBA」で売られている有松絞

4月26日、よく晴れた日曜日になりました。近くに散歩がてら出かけました。例によって「灯台下暗し」で、近くにすばらしい歴史遺跡がありました。「有松町」です。
有松町は、名古屋市緑区の一角です。

近くに、桶狭間古戦場跡があります。また西のほうに行けば、鳴海小作争議の場所があります。

「有松・鳴海絞会館」でもらったパンフレットによれば、有松町は慶長13年(1608年)絞開祖竹田庄九郎らによって誕生したそうです。尾張藩が有松絞を藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたところから始まったそうです。

有松・鳴海絞会館

有松・鳴海絞会館の中にはいると、さっそく有松絞のいろいろなグッズが販売されていました。

2階へ上がるとビデオ視聴コーナー、資料館がありました。
絞のいろいろな模様を展示していました。

また、地域の方が絞をしている工程を実演してくれていました。たいへん細かい作業を、一日に10時間近く行っているとのことでした。また、手よりも足がしびれると、本音を明るく語ってくれました。

実演していただけた方は、玄関に名前がありました。
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