北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

山国隊の安塚での戦い・「外から観た山国隊」、大嶽浩良さんの講演

2016-02-12 18:53:43 | 歴史・社寺・史跡など
2月7日(日)、周山の合同庁舎3Fでの講演会に参加して、大嶽浩良先生のお話を聞かせてもらいました。大嶽さんは元高校の先生で、地元の歴史を研究され、「下野の戊辰戦争」を下野新聞社より出版されています。下野でも宇都宮界隈で激戦があったのに、戊辰の役については、鳥羽伏見や会津、函館は出てくるものの、下野での戦いが教科書ではスルーされていて悔しい思いをされていたそうです。

その前に予備知識を;
慶応4年(1868)、西園寺公望の「王政復古」の激に応じ、農民兵たる山国隊を結成、因州鳥取藩に属して2月13日東征軍として出陣、甲州勝俣での甲陽鎮撫隊(近藤勇・土方歳三など)、壬生安塚での旧幕府軍(大鳥圭介)、上野山での彰義隊との戦いなどに参加し、北は仙台まで進軍しました。
(これを記録したのが、藤野斎さんの「征東日誌―丹波山国農兵隊日誌 」(1980年)です。)
下野での戊辰戦争は慶応4年(1868)4月中旬から9月下旬まで次の図の地を戦場として戦われました。下の地図の丸印とa、b...を参照下さい。



a.小山付近の戦い
   (4月16~17日)ー旧幕府軍が勝利
b.宇都宮戦争
  (4月19日)ー 宇都宮城が旧幕府軍により陥落
  (4月22日)ー安塚の戦い 新政府軍が勝利
  (4月23日)ー六道辻の攻防 新政府軍が奪還し、旧幕府軍は日光に敗走
c.第1次今市攻防戦
  (閏4月21日)ー新政府軍勝利
  第2次今市攻防戦
  (5月6日) ー新政府軍勝利
d.塩谷・那須郡での戦い
  (5月2日) 大田原城の戦いー両軍退却
  (8月23日) 三斗小屋の戦いー新政府軍勝利

と、新政府軍の5勝2敗1引き分けだったそうです。

さて山国隊は1伍~6伍、30名が、客士たる河田佐久馬隊長、原六郎司令士など6名と計36名でこの安塚の戦いから参戦、戦局を転換する大活躍をします。戦いの様子は、水口民次郎さんが「丹波山國隊史」にまるで見てきたように詳しく書かれているのですが、大嶽さんもその記述などをレジュメに用意して読みながら、解説を入れつつ丁寧に話を進められました。

隊長の河田佐久馬が、逆襲されそうになると、抜刀して、「退ク者ハ他藩トイエドモ死ヲ免レン」と叫んで押し戻したそうです。この時の攻防戦について、大嶽さんは、この河田佐久馬と、この時は体調不良で戦に参加せずに在城していた旧幕府軍側の大鳥圭介を対比して、指揮官の差が出た戦闘だった指摘されています。夜まだ明けぬ冷雨降る闇世の中の戦いで、山国隊は3名の戦死者を出しました。




余談ですが、この戦いでの我が曽祖父、藤野宇之助の働きも描かれていて展開を身近に感じつつ話に聞き入ったものでした。

4月24日、戦死者を弔ったあと、鶏を割き酒盃をあげ、かつ泣き、かつ笑い、かつ歌う。その歌は昨日河田隊長の作る所なり。として;

 威風凛々山国隊の戦の仕方を知らないか、 トコトンヤレ、トンヤレナ
 雨と降り来る矢玉の中を、魁するのじゃないかいな、トコトンヤレ、トンヤレナ

が出ていました。これが私も昔、口ずさんだ山国隊歌です。

大嶽さんは最後に山国隊の感想として、
・用費自弁であること
・モラルの高さに感心する、
として、征東日誌での藤野斎さんの記述を引用し、略奪が常の戦場なのに、山国隊はサービスを受けるときには地元民にお金を払っている、ことを、指摘されています。これは我々子孫は誇りに思っていいことでしょう。

この時戦死した3名の隊士は興光寺の墓所に眠り、山国神社の関係者が2年毎に墓参を欠かさず、供養の費用も毎年支払っておられると聞きます。



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