北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

やはり山城だった・「塔庚申山城」の発見

2016-04-16 09:37:52 | 歴史・社寺・史跡など

2015-06-18に、「これは山城跡か?ー塔城の隣」と題して書きました。

京北トレイル部長でもある塔下守氏が、林道の工事をしていて、これって山城跡とちがうか~と気になり、山城研究家の高橋成計さんとともに三人で現地を見ました。最初高橋さんは、堀切が見当たらないなぁと判断しにくそうでしたが、後日同じ山城仲間の方と共に再度現地を詳細に見ていただきました。

その結果、これはやはり山城の跡だとの判断を頂きました。名前をどうしょうかと求められ、塔下氏提案の「塔庚申山城(とうこうしんさんじょう)」としました。

それから少し時間が経ちましたが、今回縄張図を作成してもらいましたのでここでシェアします。



現地の場所は、ここです。https://goo.gl/qdqmKr
西北の方が「塔庚申山城」、東南のが既に知られている「塔城」です。禁裏御料の山国荘に何で山城があるのか、謎が多いのですが、戦国時代に京北一帯を事実上支配していた宇津氏との関連は考慮しなければならないでしょう。

塔城がありながら何故もう一つ築かれたかはすぐ足元を小浜街道が通っていたことが一つの要素として考えられます。この重要な街道の抑えは重要で、その見張りにはもってこいの地点です。

街道の抑えという点では、宇津氏は高浜街道の抑えとして佐々江峠西に明日が谷城を築いています。また同じ小浜街道沿いの中江城や鷹ヶ峯の堂の庭城も使っていたと考えられます。もう一つ高浜街道沿いの稲荷谷と祇園谷に京北下町砦もあります。宇津氏は小野郷にも勝手に関所を設け山国荘からの朝廷への物資を横領していたそうですし、これらの山城は宇津氏の戦略と関係するのでしょうか。

参考に往時の小浜街道のルート図を僕が作りましたので、これも載せておきます。赤線が昔の街道ルートです。


なお、高橋さんは綾部の将監城の南東、屋奈谷(やなだに)でも昨年末に山城跡を新しく見つけて調査されています。播磨や賤ヶ岳方面など、あちこち飛び回っておられる様です。そのお忙しい中、先日は伊賀上野の丸山城や福地城などを案内していただきました。山城(ヤマジロ)を探訪したい方は左のメッセージから私に連絡下さい。


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