京北の文化財を守る会の管外研修、今年は<もう一つの光厳天皇陵訪ねる旅>をテーマに、大阪は河内長野の天野山金剛寺と堺を訪ねた。
天野山金剛寺は河内長野にある天平期に行基を開祖とする(?)お寺だが、女人高野のお寺として有名で、また、南北朝の動乱の時期、南北両朝が一時ここで並存していた。立派な瓦屋根の堂宇を見ながら川沿いの道を楼門へと進むと、金堂は平成の大修理の屋根で覆われていた。その裏を山裾へと進むと開山堂があり、側の階段の上に、今回の主目的、光厳天皇分骨所がひっそりとあった。上皇の遺訓により分骨されたと聞く。
光厳天皇分骨所看板
帰路のバスの中で、「観心寺を訪れたことがあるが、ここでは後醍醐天皇を偲ぶ茶会が行われていた。これに反して光厳天皇さんにはこういった行事もなく寂しくしておられるのではなかろうか。私もお茶をしているので機会があれば金剛寺で茶会などを開くことが出来たらいいなぁと思った」との感想を述べられていたのには心打つものがあった。
光厳天皇は南北朝の騒乱に巻き込まれ、都を追われてから、山城の男山(八幡市)~大和の賀名生(五條市)を経て、ここ金剛寺で正平9年(1354)3月に幽閉され、光明、崇高上皇とともに、当寺で4年間を過ごされたと聞く。
北朝 御在所 観蔵院
天野山金剛寺というページにその御座所などの写真も出ています。
今回はここも訪れるべきスポットであったがパスされたのは残念だ。これは再訪を期さねばなるまい。
楼門を入ったところには、北朝が政務をとった天野殿(食堂)がある。かの敵対関係にあった北朝と南朝の主がここでまさに呉越同舟する時代があったとは興味深い。
このお寺には常照皇寺の光厳天皇お手植えとされる九重桜から株分けされた樹がある。九重二世さん立派に育っている(^^)
この樹が当寺に植えられた経緯については、帰りの車中で、地元郷土史家、湯口進さんの手記をある参加者から紹介いただいた。湯口さんが当寺を訪れられた際、ご住職から楼門の桜が枯れたという話を聞き、常照皇寺で話をしたら、丁度かの佐野籐右衛門さんが株分けをした苗木が有るというので、話を進められた結果、今こうして二世の桜が金剛寺で育っている、とのことであるが、両寺に知己を得ておられた湯口さんのおかげである。ぜひ桜咲く季節に再訪し、優美な姿を見せていただきたいものだ。
光厳天皇関連では後で光厳天皇の髪塔が嵐山の金剛院にあることを知った。ここも見落としてはならない。
石井会長が漏らしておられたが、光厳さんに縁のあるお寺は何で「金剛」の文字が入るのだろうか、興味あるテーマだ。この天野山金剛寺を出られた後は、深草金剛寿院に入られたし。
その後、堺へ移動、仁徳天皇陵・利晶の杜・堺伝統産業会館を訪れ、また移動中にバス内から市内や歴史などの案内を聞いた。