一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【141】

2013-03-29 10:17:07 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【141】
Kitazawa, Masakuni  

 東京ではソメイヨシノが順調に開花し、満開となったようだが、伊豆高原では異変が起きている。山桜の類は例年通り美しく咲き誇り、ヴィラ・マーヤのそれも、本居宣長の歌をいつも想起させるのだが、新芽の鮮やかな緑──本来古語でミドリというのは生まれたばかりのもの、植物では新芽のことなのだが──を背に満開となり、朝日を受け、匂い立つように白く輝いている。  

 だがソメイヨシノは例年の半分あるいは3分の1程度の花しか付けず、しかも散らないうちに新芽に蔽われはじめている。いささか不気味だ。気象の異常に、山桜は強く、ソメイヨシノは弱いということなのだろう。

科学と想像力の境界  

 異変といえば、科学のさまざまな分野で「異変」が起きている。ひとつは新しい分野が次々と開拓されていることと、それに関連して、物理学・化学・生物学などといった古典的な境界が消失しつつあること、またそれらの最先端ではいい意味で、「科学」と「想像力」の境界が失われつつあることである。  

 たとえば宇宙生物学(astrobiology)である。いうまでもなく地球外生物の探索と研究が目的である。この日記でもたびたび取りあげてきた(最近のものでは138)が、この地球上での微生物科学(サイエンス・オヴ・マイクローブ)または微生物学(マイクロバイオロジー)の驚くべき展開によって、生命と進化の概念に革命がもたらされつつあるが、その成果のうえに地球外生物あるいは生命を探索し研究しようというのである。  

 実はこの地球上でも、従来の生物学によって確認されてきた生物または生命体の種の数はわずか10数パーセントでしかないことがわかってきた。残りはまだ命名はおろか発見されていない生命体であり、そのうちのかなりの部分は従来、生命の維持が可能ではないと考えられてきた超高温・超高圧あるいは高線量放射能(最近チェルノブイリの溶融炉芯で未知のバクテリアが発見された)など、過酷な環境にみごとに適応する生命体である。  

 そうであるならば、地球一般よりはるかに過酷な環境にある諸惑星やその衛星、あるいは太陽系外の諸天体に生命が存在しないということは考えられない。宇宙生物学者たちは、そうした物理学的諸条件のなかで、どのような化学反応が起こり、どのような生命体が発生しうるか、理論的に研究しつつ、最新の天文学の成果と提携しはじめている(それによればブラック・ホールの縁にすら生命は存在しうると計算されている)。  

 かつて科学哲学者カール・ポッパーは、科学が科学でありうるためには、1)実験可能であること、2)検証可能であることと条件づけた。だがすでに量子物理学のストリング理論はこの条件をいわば蹴散らしているが(保守派はそのためにストリング理論はメタフィジックス[形而上学]であってフィジックス[物理学]ではないと非難している)、この宇宙生物学もみごとにこの条件を破綻させている。  

 いまや最先端の諸科学では、科学と想像力との境界は失われつつあり、また逆にゆたかな想像力を働かせることによってのみ、科学の進展あるいは新しい創造がありうることを示している。

 子供たちは生まれながらにこうしたゆたかな想像力をもっているのに、教育を受けるにしたがってそれを失い、社会や学問の型にはめられてしまっていく。教育体系の変革も、こうした観点から考えられなくてはならない。想像力とは身体性そのものから沸きあがってくるものなのだ。 (ニューヨーク・タイムズ書評紙March 10,2013に掲載されたWeird Life; The Search for Life That is Very Very Different From Our Own. By David Toomeyの書評[ by Richard Fortey)]に刺激されて)


おいしい本が読みたい●第二十四話

2013-03-25 10:42:23 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二十四話  


                  亡き恩師へ

 

 フランスの文豪バルザックの作品に『風流滑稽譚(コント・ドロラティック)』という、ラブレーを髣髴とさせる、おおらかにエロチックな物語集がある。古めかしい言い回しと綴りが、浪曲師のような語り口とあいまって、絶妙な味わいを感じさせる作品である。邦訳では、晩年の永井荷風が寄寓した小西茂也のものが名訳の誉れが高い(新潮文庫。ただし絶版)。今の世代がどれほど原語に強くなっても、日本語の気品からいえば、明治・大正から遅くとも昭和一桁生まれまでの訳者には、到底かなわない。単に語彙の問題だけでなく、どこか日本語への感覚が違っているとすら思う。

 小西訳のおかげでだいぶ泣いた人もいる。泣いて兜を脱ぐ、そんな屍累累たるところに、敢然と挑んだ研究者がいる。先月三巻めが完結した、岩波文庫版『艶笑滑稽譚』の石井晴一である。昭和九年生まれ。この世代あたりまでが、日本語の伝統を体で知っている。石井訳の新機軸は、これでもかこれでもかと付されるルビ。原文の雅語を置き換えるひとつの手がこれである。それはそれで、きわめて納得のゆく工夫である。もっとも、ある種ディレッタント趣味の嫌味を感じる人もいるかもしれない。が、ずっと読みつづけていると不思議な効果が生じてくる。

 小西訳と石井訳の日本語比べをしても、あまり生産的ではないと思う。石井訳の何よりの特徴は、徹底した原文への読み込みにあるからだ。なぜそんなことが分かるかといえば、石井晴一はわが恩師のひとりで、翻訳に先立つ講義に毎週顔を出していたのである。

 とにかく、あれほど仏仏辞典をていねいに紐解く学者も珍しい。なにしろ買ったばかりのロベール大辞典7巻が6,7年で背表紙ぼろぼろというすさまじさ。本人いわく、「これがないと手足をもぎ取られたようだ」と。うーむ、立派。もうひとつ、つねづね語っていたのは、「仏文を読むときは、考えるんじゃない、辞書を引くのだ」という教えだ。「考えても分かりませんでした」と開き直った学生が、大目玉をくらった光景も忘れられない。

 フランス語の辞書の引き方を教えることのできる数少ない学者だった。一度こういうことがあった。十九世紀前半の小説を読んでいて、わたしは、ある単語の意味がどうしてもうまく捕えられなかった。かろうじて、リトレ大辞典という有名な辞書は引いたのだが、解決しない。それを先生に告げると、では18世紀の辞書を引きなさい、との助言があった。もちろん指示に従って、18世紀フランス語辞典を引いた。でも分からない。その旨を伝えると。その前の時代のユゲ辞典はどうだい、とこうくる。それでも駄目で、つぎはいっそ古語のゴッドフロワ辞典を引く… 終わりのない、ことばの遡上の旅の終着駅はどうなったか。ある日、石井先生は、「ラテン語の辞典にこんな意味が載っていた。おそらくこれだろう。でも君はラテン語は知らんから、ちと無理か、はは」、といって、どうだ恐れ入ったか、という顔をした。クソっ!と思ったが、ことばの旅の醍醐味をはじめて味わった、至福の時でもあった。

 その石井先生が急死して2カ月たつ。今あらためて教えていただいた書物を思い返すと、山なす書物群のなかで浮上してくるのは、なぜか川端康成の『眠れる美女』と藤沢周平の『用心棒日月抄』である。今なお愛読書であるのが、せめてもの恩返しか。

                                                     むさしまる


ソプラノ 奈良ゆみ新作CD発売

2013-03-21 22:20:34 | CD・DVD

2012年レクチャーコンサート「グエン・ティエン・ダオの世界」ですばらしい迫力のパフォーマンスを披露してくださった、ソプラノ歌手の奈良ゆみさん、新しいCD「声の幽韻 松平頼則作品集III」(コジマ録音)がついに発売になりました。

タイトル通り、作曲家松平頼則が晩年奈良ゆみさんのために書いた、独特の美しい作品ばかりです。(アマゾン等で試聴もできます)
「ダオの世界」でも共演した上野信一が打楽器を担当した「おほかたの (藤壺)[賢木の巻]」「まぼろしの宴」 どちらも美しく、印象的な曲です。

関係者割引 (2980円のところ送料込2500円)でお買い求めいただけます。ご希望の方はFAX03-5486-5022までお申し込みください。

 

 

 


新刊 ベル・フックスの芸術論

2013-03-21 21:39:46 | 書評・映画評

ベル・フックス著

アート・オン・マイ・マインド  アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級
三元社より好評発売中です。

 

ベル・フックスは現在アメリカ合衆国で最も注目されるカルチュラル・スタディズの研究者にして批評家、文学、映画、美術、音楽、建築など広範な守備範囲と、複雑な考察も分かりやすく、かといって読者の怠惰におもねる「読みやすさ」に堕することなく論じる聡明な文章が魅力です。
本書は主に、アフリカ系アメリカ人、特に女性のアーティストによる芸術について論じた批評と、現在活躍する6人のアフリカ系アメリカ人の女性アーティストとの対談を収めた論文集です。
ちなみに表紙に使用したのはエマ・エイモスの作品「ゴーギャン夫人のシャツ」。英語オリジナルの表紙とはちがう、日本語オリジナルのデザインです。図版の版権をクリアする連絡を取ったとき、エイモス氏が快く使用を許可してくださいました。
この女性はエイモス本人、図版が小さくわかりにくいのですが、彼女の着ているTシャツには、ゴーギャンの有名な「二人のタヒチの女」の左側の女性のボディの部分がプリントされています。(この女性は「ゴーギャン夫人」ではないのですが、エイモスはあえて、彼女のことを「ミセス・ゴーギャン」と読んでいるわけです。)西欧の男性芸術家と彼に見られ、描かれる非西洋の女性、という絵画の伝統の中の力の構造を撹乱するユーモラスな身振りと、色の美しさがすてきだと思います。
対談の相手は、このエイモスや、写真家のキャリー・メイ・ウィームスなど、アメリカではすでに著名ながら、日本でもっと知られてほしいアーティストばかり。批評のほうも、比較的よく知られたジャン・ミシェル・バスキアの絵画や、貧しい黒人の生にとって写真の意味するもの、貧困者用の集合住宅に住むことの政治的意味など、洞察に富む論考がスリリングです。
図版のこと等色々苦労はあったのですが、翻訳しがいのある力作で、自分でも愛着のある一冊となりました。
お手にとっていただければ幸いです。

杉山直子(訳者)

 

 

 


伊豆高原日記【140】

2013-03-20 18:28:28 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【140】
Kitazawa, Masakuni  

 真冬の寒さが急に初夏ともまがう暖かさとなり、なんともあわただしい春となった。まだ寒椿が紅の花をつけ、3月上旬に咲く駅前の大寒桜(おおかんざくら)がようやく満開となり、淡い紅の花の並木が観光客を呼び寄せはじめたというのに、コブシの白、レンギョウの黄色が咲き乱れ、ソメイヨシノも咲きはじめようとしている。ウグイスも負けじと、あちらこちらで声を張りあげている。

「シェール革命」のコストとリスク

 先進諸国やその産業界が「シェール革命」で沸きかえっている。2酸化炭素の排出や将来の枯渇などの問題をかかえている化石燃料(石炭・石油)に代わり、排出も少なく資源も膨大、しかも産出コストも価格も安いシェール(頁岩)ガス(および付随するオイル)が、世界経済の救世主となるという見通しからである。だがはたしてそうであろうか? そのほんとうのコストやリスクはどうなのだろうか? 

 安全神話の詐術によってほんとうのコスト(重大事故の補償や廃炉のコスト、使用済み核燃料の貯蔵や処分のコストなど隠されていた膨大なコスト)を考慮せず、建設を推進してきた原発と同じく、「シェール革命」の真のコストやリスクは隠されている、あるいは少なくとも当事者にとっても不明なのではないか? 

 問題はまず、現在の開発技術にある。地下数千メートルの頁岩(シェール)層(泥土が岩石化した層)にまでパイプを到達させ、大量の水に数百種類の人工化学物質と砂を入れ、高気圧で送りこんで層を破砕し、ガスとオイルを取りだす「水圧破砕法(hydraulic fracturing略してfracking[フラッキング]という新語が生まれている)」とよばれる方法である。

 現在カナダのサスカチェワン州や合衆国のノース・ダコタ州がブームの中心となり、恐るべき速度で開発が進んでいる。緑の美しい大草原や牧場や農場がはてしなくひろがるノース・ダコタ西北部には炎をあげる数千のガス井の櫓が林立し、まだ未舗装のアクセス道路に無数の巨大トラックが砂埃をあげて行き交い、労働者アパートやブームを当て込んだマーケット建設が慌ただしく進められ、素朴な人情と静寂に溢れていたこの地が、犯罪やレイプの温床となりつつある。

 風景やその意味での環境破壊も大問題であるが、フラッキングそのものに恐るべき問題が隠されている。すなわち水が貴重なこれらの地域での大量の水の消費、さらにそこに添加される大量の化学物質の毒性(発癌物質および直接吸えば死にいたる致死的物質など)である。しかも頁岩層破砕にもちいられたこの有毒な水はポンプで回収されが、すべて回収されるわけではない。残りは頁岩層を越えてその上方にある帯水層の地下水脈にガスやオイルの残滓とともに浸透し、地下水を汚染する。井戸に依存する近くの村落の飲料水は飲用不可となるだけではなく、火をつければ燃え上がる。地下水から流れでる川も汚染され、それを使用する都市の水道水にも汚染は広がる。

 さらにポンプで回収された汚染水の処理が大問題となる。危険なためプール処理は禁止され、一旦汚染水タンクに集められたのち、地下深くに送り込まれるが、これがまた帯水層の地下水脈に影響をあたえないという保障はどこにもない。また汚染水を扱う労働者たちは吐き気やめまいに襲われるため、私費で防毒マスクを購入する始末だという。ラドン・ガスの恐ろしさを知らず(企業側も無知であったのだ)、低線量長期被曝で癌に冒され、次々と亡くなっていったナバホのウラニウム鉱山労働者を思い起こさせる。

 シェール・ガス・オイル採掘にともなうこうした恐るべき環境破壊や汚染が、将来どのような結果をもたらすか、誰も知らない。政治家も企業も、この事実に目を閉じ、エネルギー革命を謳歌するのみである。原発の安全神話と同じことがふたたび繰り返されようとしている。なぜメディアはこの事実を報道しないのか?

 フクシマのあとでもいまなお広範囲に信じられている「成長神話」(GDPの成長のみが「豊かさ」をもたらすという)が、この恐るべき事実から目をそらさせる原動力となっているのだ。まずは「成長神話」を打ち砕かなくてはならない。

注)この文を書くのにNational Geographic, March 2013に掲載されているEdwin Dobb: The New Oil Landscape; The Promise and Risk of Frackingを参照させていただいた。


篠井英介による朗読&音楽「箪笥/兵士の物語」6月10日(月)夜7時 渋谷 大和田さくらホール

2013-03-10 10:20:53 | コンサート情報

前売り券発売開始しました。

6月10日(月) 19時開演 18時30分開場

渋谷区文化総合センター大和田さくらホール(渋谷駅より徒歩5分)

朗読音楽劇場 ストラヴィンスキー 「兵士の物語」/服部和彦作曲・半村良 原作「箪笥」

朗読 篠井英介

なにげなく怖い半村良の短編と服部和彦改訂初演の音楽

ストラヴィンスキーの名作「兵士の物語」

どちらも現代演劇きっての「女方」(おんながた)篠井英介さんの朗読です。

「知と文明」会員の皆様にはおなじみの上野信一は、今回は指揮を担当します。アンサンブルは先日プレビュー公演が大成功、さらにパワーアップをめざす「アンサンブル・ムジカ・ヴィヴァンテ」。このブログをごらんの皆様、上野まで連絡いただければ少しですが関係者割引させていただきます。

一般3500→3200円 学生2000円  +送料無料 

お申し込みはFax 03-5486-5022 

ご希望の枚数、お送り先のご住所・ご氏名をお知らせください。

(チケットはインターネットチケット販売サイトのカンフェティなどでもお買い求めいただけますが、その場合は関係者割引は取り扱っておりませんのであしからずご了承ください)

くわしくはこちら

http://www.jila.co.jp/?tag=june


北沢方邦の伊豆高原日記【139】

2013-03-06 17:19:28 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【139】
Kitazawa, Masakuni  

 ようやく遅咲きの白梅・紅梅が満開となり、コブシやモクレンの枝々の蕾も膨らみ切り、いまにも咲きそうだ。だいぶまえから咲き誇っているスイセンの花々は、まだ芳香を漂わせている。今朝(3月5日)ヴィラ・マーヤを開けに行くとき、半月以上も遅いウグイスの初鳴きを聴いた。春めいた陽射しとともに、心にほのぼのとした暖かさを喚起する。

いじめと自殺  

 ニューヨーク・タイムズ書評紙を読んでいると、アメリカでも子供の「いじめ(bullies)」が深刻な問題となり、何冊かの本が出ているようだ。だが私見によれば、この問題は大人の自殺の増加問題と深く関連した社会現象であり、先進諸国共通の病理であるように思われる。  

 戦前、私の子供のころにもいじめは存在していた。父の転勤やその死後の家庭の事情で、小学校を4校も転校したが、そのたびにいじめにあったことを覚えている。下校時校門に待ちかまえていた悪童たちに、「おまえは生意気だ」「転校生のくせに大きな顔するな」などと言いがかりをつけられ、殴る蹴るの喧嘩を展開したものである。多勢に無勢でいつもやられっぱなしであったが、東京に出たときは逆に数人の相手に鼻血をださせたりして勝ったことがある。  

 もちろん親にいいつけるなどは卑怯であり、恥とされていたし、また子供の喧嘩に親がでるのも大人の恥とされていたから、母も知らなかったか、知っていても黙っていたようだ。  

 だがこれは一種の通過儀礼であり、ひと月もしないうちに悪童たちとはとりわけ仲良くなり、遊び仲間となった。こうした陽気な喧嘩やその意味での暴力沙汰は、子供たちの集団生活でのある種の身体的ルールでもあり、また喧嘩や格闘も、医者に行くような怪我にいたることなどはけっしてなかった。  

 だが現在の「いじめ」はそのようなものとはまったく異なり、たんに陰湿であるというより、他者の人格や人権の抹殺を意図し、いじめの相手が自殺でもしようものなら、快哉を叫びかねないような病的なものである。またいじめにあったものが、簡単に自殺する内面の弱さも問題であり、両者は問題の盾の表裏であるといえる。

人間の性善説と性悪説  

 18世紀西欧でのルソーとホッブズの思想的対立以来、人間の性善説と性悪説はつねに対立を繰り返してきた。この伊豆高原日記【130】でも取りあげたが、スティーヴン・ピンカーやナポレオン・シャグノンらは近年の性悪説の代表である。『われらの本性のより良き天使たち』(2011年)という題名とは裏腹に、ピンカーは《ヒトはヒトにとって狼である》というホッブズを称揚し、近代の啓蒙思想と理性信仰がはじめてヒトの本性である悪を克服したとする。アマゾンの戦士ヤノマメ族に土産として銃をあたえ、麻疹ワクチンで逆に麻疹を流行させた(後者の疑惑は晴れたが)として悪名高いシャグノンは、ヤノマメの好戦性や攻撃性を「未開」の野蛮の典型とし(それも近年の生活環境の激変でそうなった可能性が高い)、性悪説を唱えている(これもルソーを皮肉る題名の本『高貴な野蛮人;二つの危険な部族─ヤノマメと人類学者ども─のなかでのわが生涯』 Noble Savages; My Life Among Two Dangerous Tribes─the Yanomamo and the Anthropologists. By Napoleon A. Chagnonのなかで)。  

 だが、たとえばわれわれ現生人類(Homo sapiens sapiens)はすでに数十万年生きているが、同じころ生存していたネアンデルタール人は、なぜ10万年しか生存できなかったのか? その答えはいくつかあるが、有力なひとつは、われわれが集団の絆が強く、つねに助け合い、自然との共生をはかってきたからである。人口の増加や環境の変化に適応して移住し、約二十万年かけて地球の主要部分に達したわれわれの祖先が、ヒトはヒトにとって狼であるような闘争社会に生きていたとしたら、このようなことはありえず、ネアンデルタール人同様いつか絶滅していたことであろう。  

 この一事をもってしても、ルソーの正しさは証明される。だが問題は、生活環境の変化、というよりも激変によって人間は性悪にもなりうることである。

近代人の脆弱性  

 ピンカーの主張とは逆に、啓蒙思想や合理主義以降の近代人は、精神的にきわめて脆弱になり、また経済的・物質的にはヒトはヒトにとって狼であるホッブズ的状況をみずから作りだしたといわなくてはならない。後者は訴訟社会といわれるように、国家が強制する法と秩序によってかろうじて安定が保たれることとなる。  

 ここで問題なのは前者である。すなわち、無意識や身体性のレベルでつちかわれる文化や本能的なルールより、意識や知識のレベルで獲得されるいわゆる理性的なものが優位にあるという教育や偏見にまみれ、自己のほんとうのアイデンティティが形成されないからである。人間はアイデンティティなしでは生きられないから、それに代わる偽のアイデンティティが形づくられる。国民というアイデンティティ、集団や組織や家族への帰属というアイデンティティなどなどであり、近年ではいわゆるソーシャル・ネットワークなどヴァーチャルなアイデンティティまでもが加わる。  

 だが、旧ソヴェト連邦や旧ユーゴスラヴィア連邦の解体時にみられたように、国家意識という偽のアイデンティティはたちまち消滅し、それに代わっていわゆる民族や宗教など別の疑似アイデンティティが紛争や葛藤をつくりだす。  

 戦前の古い共同体や郷土的文化──ナショナリストたちのようにそれらを復活させようとは毛頭思わないが──が解体され、明治近代化よりもさらに急激な近代化に邁進した戦後の日本では、この近代のアイデンティティ危機は他国より深刻であるといわなくてはならない。高度成長期にはまだ生活向上の期待で破綻することのなかったもろもろの偽アイデンティティも、格差社会の到来とそれによるひどい閉塞感のなかでは、もはやその疑似機能さえも果たすことはできない。欲求不満にもとづく攻撃性は自己より弱いものに向かい、上記のような「いじめ」となる。いじめを受けたものも、アイデンティティの脆弱さゆえに、それを跳ね返すような力をもつことはできない。子供だけではなく、大人の社会も同様である。鬱病や自殺の蔓延も、このことに根本原因がある。  

 それを救うのはなにか? 「アベノミクス」が招くにちがいない一層の格差の拡大と貧困層の増大は、状況をますます深刻にするだけである。そうではなくて、グローバリズム破綻後の状況にしっかりと適応するエコロジー的で持続可能な社会のヴィジョンを打ち立て、そのなかで身体性にもとづく新しい価値観や教育体系を創りだすことである。