一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記【88】

2010-10-24 08:39:08 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記【88】
Kitazawa, Masakuni  

 日に日に秋の気配が深まっている。モズたちがあちらこちらで高鳴きし、縄張りを宣言している。季節にはともに暮らした雌と雄も、秋からは袂を分かち、それぞれ競合する。つぶらな瞳のかわいい鳥たちなのだが肉食性の猛禽であり、冬、餌がないとスズメを襲って食べる。秋からはスズメたちはそれを恐れてこの一帯には近づかない。

杉浦康平思想の真髄 

 少し前にいただいたのだが、途中まで読み、急ぎの仕事にかかってしまい、ようやく今日読み終えた杉浦康平『多主語的なアジア』(工作舎)は、非常に印象深かった。杉浦さんの著書はほとんどいただいているが、雑誌などに掲載された文を集めた本書は、インドや中国あるいは東南アジアをはじめとするアジアの絢爛豪華な宇宙論的デザインや音楽を、これまた絢爛豪華に語るいままでの著書とちがい、彼の思想的・精神的遍歴をも含み、その隠れた内奥がうかがえる本だからである。 

 われわれの世代はほとんどがそうだが、敗戦によって明治ナショナリズムや軍国主義の重圧から解放され、全くのタブラ・ラサ(白紙)となったところへ、アメリカを含む西欧近代の思想や芸術や文化が怒涛のように流れ込んできた。合理性にもとづくその明晰な思想やデザインは、まばゆいほどの輝きをもってわれわれをとらえた。 

 杉浦さんも例外でなく、一時期、西欧近代の明晰な合理性とそのデザインに惹かれたようにみえる。だが、実際に1964年ドイツのウルム造形大学を訪れたとき、彼は近代の主観性と自己主張や、0か1かの2進法数値に代表されるあいまいさを拒絶する思考に強い違和感を抱く。私もまったく同じ頃、犬(なんと杉浦さんも同じだという)とレヴィ=ストロースの『野生の思考』と出会い、近代の合理主義的思考では分析できない領域、つまりヴィットゲンシュタインのいう「明晰に語りえない」広大な領域があることに気づくにいたった。 

 杉浦さんはそこからアジアにむかう。つまり近代の主観性という単一の主語ではなく、自己と複数の他者、さらには祖先や精霊、大自然や宇宙をも包含し、すべてが「多主語的に」語る世界を発見し、そこにデザインの根源を体得するのだ。そこから鋭い近代批判が展開される:

 「……このような自己,自我だけに焦点をあてた自分だけの生存圏の拡張行為が、いろいろな意味で地球に破綻をもたらしている…というのが現代社会の姿であると思います。西欧の現代哲学でも自―他の関係はさまざまに論じつくされているかのようですが、いまだそのことごとくが、自我を核とする、あるいは自我を捨てきれぬ論考にほかなりません」 

 アジアでもっとも急進的に近代化を進めたわが国では、ひとびとの思考体系も近代化され、主観性や自我の分厚い壁に閉じ込められてしまった。その壁を打破し、「多主語的」世界を回復しない限り、日本も西欧世界も文明の袋小路に陥り、経済的にも文化的にも再生することはできない。だが近代化が頂点に達しているがゆえに、そこからの脱出はきわめて困難であろう。

 また残念なことに、われわれの思考を何千年にもわたって養ってきた当のインドや中国が、「近代化」と「経済大国」の夢を追いはじめ、多主語的世界を「前近代的」なものとして振り棄てはじめている。杉浦さんやわれわれの叫びもむなしいものとなるのかもしれない。

 だがIT技術は多主語的世界の表現をむしろ深めうるものだし、また最先端の諸科学はむしろヒンドゥーや中国の古代の知恵を実証しつつあるといっても過言ではない。少数かもしれないがインドや中国の若い知識人や芸術家たちも、そのことに目覚めつつあるようだ。われわれはそこに希望を見出すことができる。

 いずれにせよこの『多主語的なアジア』は、こうした想念をかきたてる必読の書といえよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その33

2010-10-22 02:24:48 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その33

 

                 
 
         衝撃的な〈日本の美〉
               ――東京国立近代美術館「上村松園展」

            

              

  今回のテーマは日本画家の上村松園で、映画ともオペラとも関係はない。しかし背景となるドラマ性において、松園の絵は2つのジャンルの芸術とも共通性を持つように思う。私は時に美術展に足を運ぶが、それはダ・ヴィンチであったりフェルメールであったりで、じつのところ日本画とは縁が薄かった。浮世絵はまだしも、近代日本画ともなればほとんど初めての体験といっていいかもしれない。戦後の日本の教育の貧しさは、いまだに私という存在に影を落としている。この「上村松園展」も、友人からチケットが回って来なければおそらく行くことはなかったと思われる。

 

 「上村松園展」は、私の心に予想もしなかった衝撃を与えた。この展覧会は前期と後期に分かれていたが、そのそれぞれに私は東京近代美術館を訪れたのである。上村松園のいったい何が、私の心をそれほど虜にしたのだろうか。一言でいえば、〈日本の美〉の大きさと深さに圧倒されたということになるが、ことはそれほど単純ではない。

 

 松園の描く美人画の対象は、江戸から明治にかけての女性である。あでやかな着物姿はそれだけで心惹かれるが、たとえば後期の作品《夕暮》や《晩秋》には作者の母親への想いがこもっていて、穏やかで落ち着いた情緒が心を打つ。障子を開け夕陽を頼りに針に糸を通そうとする女性(《夕暮》)、障子の破れを花形に切り抜いた和紙で繕おうとする女性(《晩秋》)。そのたおやかな美しさは、松園の母親と二重写しになって、私に亡母の姿を思い起こさせる。その美しさは、〈日本の美〉というより他にいいようがないと実感した。

 

 明治生まれの私の母は、日常生活をほとんど和服で通した。呉服商を営んでいた父ももちろんである。私は第二次大戦後の混乱期に生まれたのだが、高度経済成長期まではどこの家でも和服姿が見られたものだ。まことに残念なことに、私はその姿を美しいなどと感じたことはなく、不便なものを着ているなと思ったくらいである。私の親の世代と私の世代には、深い断絶があるのだ。親の世代は、明治時代はもちろん、江戸時代あるいは室町時代の伝統を背負っている。その伝統が、これほどに美しいものであったとは!

 

 松園の代表作《序の舞》も後期の作品である。これから舞を始めようとする女性のきりりとした表情も印象的だが、緋色の着物とあでやかな帯、とりわけ金糸で鳳凰を縫いとった帯の質感には圧倒された。あの絢爛豪華な糸の立体感は実物でしか体験できない。カタログはそれなりに再現性を高めてはいるものの、質感においては実物の一割も表現しえていない。絵画は実物を観るべし、音楽は実演を聴くべしとつくづく思う。それにしても溜息の出る美しさである。

 

 中期の作品、《舞仕度》《娘深雪》、それに有名な《花がたみ》と《焔》。松園の技量はすでに十代から余人に抜きん出ていたようだが、それでも初期の作品には表情が乏しい。絵に深みが増してくるのは明らかに中期以降である。《舞仕度》と《娘深雪》に溢れる湿潤とした情緒。頬を染め、恥じらいを見せる女性の表情は、心に秘めた恋情をうかがわせる。《花がたみ》となると心は恋に狂い、《焔》の六条御息所は怒りと嫉妬に身を焦がしている。頭髪を咥えざまに、観る者を狂おしく振り返るその表情は凄惨という他はなく、着物に描かれた蜘蛛の巣は嫉妬の深さをいや増している。それでいて、何という美しさであろう。

 

 四十歳前後の中期作品は、松園芸術のひとつの頂点だろう。力を振り絞って《焔》を描き上げたあと、松園は深刻なスランプに陥ったという。そこから脱して第二の頂点を極めるのが、六十歳の前後ということになる。生活の面でも精神の面でも松園を支え続けた母親を見送ると、その視点は平凡な日常に向かった。そしてそこから、おそらくかつて誰も表現したこともない、深く優しい〈日本の美〉が生まれたのだと思う。私がもっとも感動したのは、他でもない、この美しさである。

 

 

東京近代美術館 
「上村松園展」

2010年9月7日~10月17日

 

2010年10月18日 j-mosa

 


【女の暦 2011】

2010-10-19 21:44:19 | 青木やよひ先生追悼

女の暦 2011


1月 藤蔭静枝さん   2月 須磨哲子さん   3月 渡邊うめさん   4月 福田なをみさん  
5月 相馬雪香さん   6月藤本文枝さん    7月 青木やよひさん  8月 藤枝澪子さん   
9月  高福子さん              10月 浅川マキさん          11月 北原みのりさん 
12月  ウイメンズセンター大阪   性暴力教授センター・大阪   WCO~SACHICO~

●編集=女の暦編集室 ●発行=ジョジョ企画 ●定価=1,600円(本体1,524円)
http://www014.upp.so-net.ne.jp/jojokikaku/


おいしい本が読みたい●第十七話

2010-10-14 09:09:48 | おいしい本が読みたい
おいしい本が読みたい●第十七話 


             
                踊る女と描く男



                  
 梶山季之の純文学作品と聞いて、おやっと思う人は多いだろう。そう、相応の年配者にとって梶山は、宇野、川上とともに官能小説の御三家として名を馳せていたからである。だが、たしかに彼は、故郷ともいうべきソウルを舞台にした、『李朝残影』(文芸春秋)を遺している。しかも直木賞候補作となった佳作である。韓国併合100年のいま、これを読まぬ手はないとページをめくった。  

物語は、植民地朝鮮の風俗を背景に、日本人の青年画家と李朝時代の宮廷舞踏を踊る美しい妓生(キーサン)との交情、そしてその突然の破局を描く。  

見る側の男性(画家という職業はまさしく象徴的だ)と見られる側の女性という、支配―被支配の構造は、植民地を舞台にした物語では珍しくない。宗主国:男VS植民地:女という構図が恋愛(性的欲望)の構図と重なり合う。彼らの恋愛を成立させないことが、植民地支配者側に生まれた作者の、彼なりの主張、誠実さということになろうか。
  
内容に関して、ポストコロニアリズム風の切り口で分析するべき点は多々あろう。それは別の機会にということにして、ここでは気になった個所を一つだけ記す。画家が女性の踊りを目の当たりにして、絵のなかに封じ込めようと決意する、作中もっとも大事な場面だ。  

「それは梅の梢から梢を飛び交う、鶯を模しているのであろうが、足捌きは少ないのに部屋いっぱいを舞っているような、そんな天衣無縫さが感じられるのも面白い」  

この文の前後にも数行の描写があるが、見てのとおり特別変わった表現が使われているわけではない。つまり、きわめてありきたりな、あえて言えば凡庸な描写で終わっている。これに対し、画家が山寺で飲んだ「梨薑酒(リキョウシュ)」なる強い香気の酒を語る筆は、いくぶん通俗的な語句に侵されているとはいえ、はるかに生彩がある。描写全体も長い。むろん、この酒は彼女のイマージュとつらなってゆく。  

「この梨薑酒は、口に含むと一瞬、清冽な香気が、ツーンと鼻を撲つのだった。その香りには、馥郁として咲き誇る沈丁花のような強さと、北風が渓谷を通り抜けるときのような冷徹さがある」

 おそらく梶山は実際にこの銘酒を口にし、忘じがたく思うほど体が痺れたに違いない。逆に、肝心の宮廷舞踏は見ていない、すくなくとも、心を揺さぶられるほどの舞踏体験は、ない。肉体を通過しないことばは、やはりどこか頼りない。そんな根源的なことばの「力不足」が、ついにこの佳作を、作者の意図と裏腹に、植民地物語の枠内に圧しとどめた気がする。                                                           

                             むさしまる

シンポジウム「生殖革命」と人間の未来

2010-10-09 11:26:46 | シンポジウム

             知と文明のフォーラム/日本女子大学現代女性キャリア研究所/
         日本女子大学人間社会学部文化学科◆共催

                   シンポジウム
「生殖革命」と人間の未来
         ~生殖医療と人権/青木やよひの問題提起からの出発~

             

代理出産、不妊治療など、生殖医療をめぐる議論や法制化を求める声が高まる中、子どもを持つことが憲法で保障された「幸福追求の権利」にあたるのか、生命への人為的な介入が法的、倫理的にどのような結果を引き起こしうるのかなど、さまざまな問題について多くの主張がぶつかり合い、決着を見ていない状態が続いています。人類がかつて直面したことのないこの事態を文明論の観点からどのように理解するべきなのか―フェミニスト・思想家として活躍した青木やよひが2009年、逝去の直前に行なった問題意識にこたえる形で、生殖倫理と今後の生殖医療のあり方について様々な分野の講師をお招きし、ともに考えたいと思います。ふるってご参加ください。

日時:2010年10月30日(土)  13:30~16:30
場所:日本女子大学新泉山館(目白キャンパス)
参加費:資料代500円 (当日徴収いたします。)
※事前申し込み等必要ございません。どなたでもご自由にご参加ください。

●司会                 
石田久仁子      (日仏女性研究学会事務局代表)
●講師                 
江原由美子                       (首都大学東京教授)
中嶋公子           (日仏女性研究学会代表運営委員)
長沖暁子              (慶應義塾大学准教授)
●コメンテーター    
北沢方邦                 (信州大学名誉教授)
和泉広恵               (日本女子大学専任講師)

◆◆スケジュール◆◆
13:30 ご挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山直子(日本女子大学教授)
13:40 フェミニズムと生殖革命ーその問題点と展望・・・・・・・・・・・・・・江原由美子
14:10 女性の身体の自己決定権と人工生殖技術―フランスの代理懐胎をめぐる
                  論争を中心に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中嶋公子
14:40 生殖技術とは何か―当事者の視点が与えるもの・・・・・・・・・・・・長沖暁子
15:10 (休憩)
15:30・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コメント・討論・質疑応答 

◆◆交通アクセス◆◆
日本女子大学目白キャンパス新泉山館(東京都文京区目白台1-19-10) 
※目白通りの南側になります。
●JR山手線「目白」駅下車・・・・徒歩約20分
目白駅より●都バス 新宿駅西口/練馬車庫前行き(白61)あるいは、
日本女子大前行き(学05)で、「日本女子大前」下車
●東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅下車・・徒歩約7分
●東京メトロ有楽町線「護国寺」駅・・徒歩約10分
※駐車場はございませんので、お車でのご来場はご遠慮ください。
http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html

◆◆お問い合わせ◆◆
日本女子大学 現代女性キャリア研究所
TEL:03-5981-3380/FAX:03-5981-3381
(ただし、土日祝を除く平日10:00~16:00)
E-mail:riwac@fc.jwu.ac.jp
http://www5.jwu.ac.jp/laboratory/riwac/news/index.html#09


伊豆高原日記【87】

2010-10-07 11:27:45 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【87】
Kitazawa Masakuni
 
 青木の書斎の横に植えられたキンモクセイが満開で、家中にむせるほどの香りがただよう。表を歩けばいたるところの樹木で、伊豆高原中がキンモクセイの香りに包まれている。遅れていたススキの穂も満開で、遠く去った仲秋の名月を懐かしんでいるようだ。

年老いても自立できず、未熟な男たち 

 
10月4日のNHK「クローズアップ現代」で、「妻に先立たれた男たちの悲嘆」が放映された。同じ境遇とて共感すべく視聴したが、まったく理解できないというか、驚きあきれ、こちらが異常なのかと疑ってしまった。 

 俳優の仲代達矢氏をはじめ、妻に先立たれた老人たちが登場するが、どのひとも茫然自失して3カ月は泣き暮らし、酒におぼれ、自殺さえ考えたという。登場した彼らだけではなく、妻に先立たれた多くの男たちが鬱病を病み、そこから這い上がれないという。 

 仲代氏や仕事をもつひとたちは、仕事中は気を紛らわせるが、家に帰ると妻の履物を見て涙し、クローゼットを開けて衣服に涙し、耐えられない気分になるという。なかには、預金通帳のありかさえわからず、ただただおろおろするだけで、食事もコンビニの弁当やインスタント物ばかりを、しかも食欲もまったくなく、ただ詰め込むのみという。こうした困っている(私にいわせれば「困った」)男たちを支援すべく、自治体やNPOが活動をはじめたという。 

 興味深かったのは、妻に先立たれた男が悲嘆にくれる率は100パーセントであるのに、夫に先立たれた女たちのそれはわずか30数パーセントであるという統計である。これは何を意味するか?  

 つまり多くの男は、社会的・経済的に「自立」し、仕事をこなしてきたが、生活のレベルや意識や精神のレベルではまったく自立していないどころか、老年になっても未熟なままであったということを示している。男は仕事、女は家事という性差別を疑いもせず、生活のすべてを妻にゆだね、家事ひとつできなかった男たちは、妻に先立たれてはもはや自立して生きていくことはできない。彼らの悲嘆のかなりの部分が共に暮らした家族(ペットを含め)に対する愛情であることはたしかだが、残余は人間的なものというよりも(本当に妻を愛していたら家事の分担などなんのこだわりもなかったはずだ)、自分を生活させ、支えてくれた家事労働者を失った悲嘆にすぎない。 

 逆に多くの女は、いわゆる社会的・経済的自立はともかく、生活や精神のレベルでは、男よりはるかにたくましく自立していることを物語っている。妻の方から申し立てる定年離婚が増加していることも、こうした事実を裏付ける。 

 妻に先立たれた同じ境遇の自身のことを書くのは面映ゆいが、性差別の根源を断ちきるためにもあえて書いておこう。 

 覚悟はしていたとはいえ、青木やよひの死に直面しても私にはなんの動揺もなかったし、いわゆる悲嘆もなかった。人間はいつか必ず死ぬのであるし、末期ガンの悲惨もなく、眠るような彼女の死は美しかったうえ、死の前日の対話で彼女自身が語っていたように、その生涯もきわめて充実し、幸せであったからだ。 

 55年をともにした生活のなかで、彼女に仕事をしてもらうため、私は当初から気負いもなく家事を分担し、とりわけ彼女が仕事に集中しているときは、私が料理をはじめ、ほとんどの家事をしてきた。むしろ資産の運用や家の建築やリフォームなど、ふつう男が分担する雑用は、面倒臭がりの私に代わって彼女が取り仕切ってきた。性別にかかわらず、それぞれが得意なことをするのがわが家のしきたりであったといえよう。 
 
 死後一年が経とうとしているが、いまなお私のうちには幸福感が充満している。なぜなら、ともに暮らしているときは、むしろ意見の衝突や時には喧嘩もしばしばであったが、いまとなっては、たとえばクローゼットを開ければ、あれはドイツに一緒に行ったとき着ていたものだなど、懐かしくいい思い出だけが浮かび上がり、心温まるばかりだからである。そしてあのようなすばらしいひとと55年ともに暮らしてきたのだという誇りが、私に生きる充実感をあたえてくれている。


『失われた歴史』刊行

2010-10-01 21:51:52 | 書評・映画評


イスラームの本質は
「知の探究」と「宗教的寛容」!!

 平凡社から『失われた歴史』(北沢方邦訳)刊行される

 9月17日、平凡社から『失われた歴史―イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』が刊行されました。「物語イスラーム文明史」と呼んでもいいほどの巧みな叙述で語られる本書は、現代イスラームをより深く理解するためにも、必読の啓蒙書と言えます。

 イスラームは中世から近世初頭にかけて華麗な文明を築き上げました。本書は、その哲学、数学、天文学、医学、化学、物理学、さらには建築、音楽などが、いかに近代科学・思想・芸術に大きな影響を与えたかを、精緻に、しかしわかりやすく記述しています。

 たとえば地動説の創設者は16世紀ポーランドのコペルニクスだと言われていますが、すでに13世紀のイスラーム世界に、地球や惑星が太陽の周りを回転している事実を正確に計算した科学者がいました。バグダッドからイル・ハーン国の首都アゼルバイジャンに招かれ、当時世界最大の天文台を造営したアル‐トゥシーです。コペルニクスの地動説は、このアル‐トゥシーたちの文献からの借用であることが本書を読めば理解できます。 

 次の文章は、訳者である北沢方邦先生のあとがきからの抜粋です。

 イスラーム天文学者たちは「地動説」や地球自体が球体であることを認識し、数々の書物として書き表していた。他方中世からルネッサンスにいたる西欧の学僧や知識人たちにとって、イスラームの知の一大中心地であり、大学や膨大な蔵書を誇る諸図書館を有するコルドバへの留学が、あこがれの的となっていた。したがって知識人の教養の基礎は、当時のリングア・フランカ(国際語)であるアラビア語の習得であった。……こうした「失われた歴史」の再発見が本書の醍醐味であるが、同時にそれは歴史観の変革にも寄与することとなる。

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                 2010年9月27日 J.Mosa
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『失われた歴史―イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』
マイケル・ハミルトン・モーガン著/北沢方邦訳
平凡社刊/四六判上製/448頁/定価3,360円(税込)
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