北沢方邦の伊豆高原日記【128】
Kitazawa, Masakuni
本格的な夏の訪れである。樹間を吹きわたる風は涼しく、まだ一度も冷房は入れていないが、陽射しは強く、蝉がかまびすしい。今年はヤマユリが遅く、いま満開であり、ヴィラ・マーヤの庭を歩くと、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐる。
ロンドン・オリンピック狂想曲
ロンドン・オリンピックが開幕し、例によってメディアの狂想曲が蝉以上にかまびすしい。
たしかに個々の競技は見るに値するし、息を飲むものは多い。開幕前にはじまったサッカーの予選で、日本チームが優勝候補のスペインを破った競技など、見ごたえがあった。圧倒的な攻撃力を誇るスペインに十分な攻撃態勢をつくらせず、果敢にボールを奪っては逆襲する日本チームのスピード感には唸らされた。
だがいまや国際的な制度としてのオリンピックには、大きな疑問がつく。まず旧来からの問題は、ナショナリズムの高揚と強化にそれはつねに貢献することである。1936年のベルリン・オリンピックがナチズムに利用され、「世界に冠たるドイツ国」または「ドイツ民族」意識の高揚に恐るべき力を果たしたことは知られている。それをみごとに映像化したレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』は、いまなお映像によるナショナリズム喚起の力を十分に示している。戦後もこのことへの反省はほとんどなく、戦後独立した多くの国々にとっても、オリンピックは国民のナショナリズム高揚の絶好の手段となった。
いうまでもなくナショナリズムとは、母語や文化を通じて人間に本来そなわる種族アイデンティティや意識ではまったくなく、近代国家の統合と維持をはかる国家のイデオロギーであって、人工的な疑似アイデンティティにほかならない。人為的に植民地として分割された境界をそのまま国境として継承した新興諸国にとっても、ナショナリズム・イデオロギーは絶対的に必要であったのだ。だが多種族国家では、それをだれが担うかが大問題となる。アフリカで多発する政治的内部紛争、あるいは現にシリアで拡大している悲惨な内戦(この場合は宗派であるが)などは、多数種族と少数種族の国家の支配権とナショナリズムの正統派の争いだといっても過言ではない。
第2の問題は、これだけ巨大化し、これだけ莫大な費用を要するオリンピックの開催は、もはや経済的に貧困な世界の大多数の国々にとっては永遠に不可能だということである。いわゆる先進諸国間のたらい回しか、せいぜい中国・インド・ブラジルなどといった一部の新興国の「国威発揚」に寄与するだけとなろう。オリンピックそのものの簡素化や数カ国連合での開催や数都市連携での開催など、さまざまな工夫でそれを避けることはできる。
第3は、巨大化や経費高騰の原因となったサマランチ時代以来はじまったコマーシャリズムの導入やアマチュアリズムの廃止である。これがオリンピックの性格の根本的変化、しかも悪い変化をもたらしたのだ。メディアをはじめ巨額の収入がそれによってえられることになったとしても、この変化がオリンピック制度そのものの頽廃をもたらした。
石原都知事がご執心の東京への再度のオリンピック招致に、都民が冷淡であるというのはいい兆候である。ナショナリズムに踊らされないだけひとびとの意識が成熟した証かもしれないし、それだけの巨額の費用は、貧困対策や雇用対策あるいは福祉対策などに回してほしい、という暗黙の合意かもしれないからだ。
メディアのオリンピック狂想曲をみるたびに、これらのことを痛感する。
ヒッグス粒子狂想曲補遺
前回のヒッグス粒子狂想曲について疑問が寄せられたので、それに応えておきたい。つまり一般の報道ではヒッグス粒子は第17番目の素粒子であり、これで素粒子はすべて発見されたというが、なぜ18個であるか、である。
18番目は「重力子(グラヴィトン)」とよばれる仮定の素粒子である。これは重力を担う素粒子とされるが、まったく仮定であるだけではなく、それ自体が「標準理論」の根本的矛盾を表している。
つまり物理学的な力は、重力、電磁力、原子核の強い力、同弱い力の4つであるとされているが、標準理論では、その重力を除く3つの力しか記述できない。素粒子のレベルでは重力は検出できないからである。だが巨視的な世界ではたしかに重力は存在するから、「重力子」という架空の素粒子を措定せざるをえない。
4つの力すべてを記述できる理論(それがストリング理論である)ではなく、したがって宇宙すべてを統合的に説明できない標準理論が、重力子なるものを措定せざるをえないところに、標準理論の矛盾と破綻が現れている。