一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【125】

2012-05-27 22:00:15 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【125】
Kitazawa, Masakuni  

 花の季節は終わり、そろそろ緑の濃さを増した樹々の白い花々が咲き、野生のジャスミンなどと香りを競う時期がやってきている。今年は遅くホトトギスが鳴きはじめ、数も少ない。

経営学の神髄 

 5月19・20日とヴィラ・マーヤでのセミナーが行われた。「世界経済の行方」という大仰なタイトルであったが、京都大学大学院経済学科の日置弘一郎教授のレクチャーは、きわめてわかりやすく、ユニークなものであり、参加者に感銘をあたえた。このブログにもメンバーの何人か感想を寄せる予定なので、その核心だけを述べておこう。  

 近代社会科学の王座を占めてきたのは経済学であるが、彼によれば、リーマン・ショック以後いまやほとんどの経済学者は自信喪失に陥っているという。なぜなら合理的な行動と自由な意思決定にもとづいて運営されてきたはずの市場が、混乱と危機に陥った、いいかえれば合理性が非合理性を生み、自由の追求が非自由を生みだしてしまったという、ありえない光景が現出したからである。  

 その根本原因は、経済学が記述できるもののみを記述して分析し、それ以外を「外部経済」として排除した、いいかえれば生身の人間が介在する経済、とりわけ市場の実体の大部分を排除して抽象的な観念の体系を築きあげてきたからである。  

 私の用語法によれば、すべての近代人間科学同様、経済学も人間の身体性を無視し、経済という現象の数値で把握できるいわば上澄みのみを分析してきたからといえる。しかも経済合理性の追求がもたらしたはずの市場の合理性は、逆に市場によって育てられ、指数的に肥大した人間の欲望によって覆されてしまったのだ。  

 日置さんは「市場(しじょう)」に「市庭(いちば)」という概念を対峙させる。市場には「いちば」と「しじょう」という二通りの読みがあるが、古語では「市庭」と表記されていたという。それは売り手と買い手というまさに生身の人間によって営まれる生きた経済なのである。実は近代の市場にもこの市庭的な実体があるにもかかわらず、それが無視されてきた点に経済学の落とし穴があったという。  

 彼は経済学ではなく、経営学の研究者であるが、経営学はむしろ近代の市場においてもこの市庭的な経済のプロセスを追求することで、経済のより深い側面を照射できるとする。それによって現在の危機を脱出し、新しい文明を設計する経済方策も生まれてくるかもしれないという。  

 彼はまた経営人類学という新しい学問分野を提唱しているが、そのフィールド・ワークともいうべき日本の各地の市場の調査体験を踏まえ、とりわけ食材の見分け方やら調理方法にいたるまで、微に入り細に穿ってうんちくを傾け、われわれをうならせた。  

 経済の深い問題を教えられるとともに、楽しい2日間であった。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【124】

2012-05-02 09:58:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【124】
Kitazawa, Masakuni  

 萌える新緑を背景に、緋色、紅、白、薄紫など色とりどりのツツジが満開であり、その香りが鼻腔をくすぐる。早く咲きはじめたものはすでに萎れかかり、いつもなら遅咲きのはずの野生の山ツツジの淡い緋色の花が、すでに満開に近い。緑の苔一面にクヌギの茶色の花が落ち、陽光に映えて絨毯のような模様を描きだしている。

近代理性を屑籠に!  

 伊豆高原日記【117】で紹介した心理学者カーネマンの本もそうであったが、「近代理性」に対する疑いや批判がアメリカのメディアを賑わわしている。ニューヨーク・タイムズ書評紙で大きくとりあげられたジョナサン・ヘイトの『無理からぬ[自己正当化する]思考』(The Righteous Mind; Why Good People Are Divided by Politics and Religion. Pantheon Books,2012)である(書評者はWilliam Saletan: March 25,’12)。例によって強い私見を交えながら紹介しよう。  

 ヘイト自身は自己をリベラルだと位置づけるが、多くのリベラルや左派が、たとえばアメリカの労働者層の多くが富者優遇の共和党に投票するのは、彼らの理性の欠如からだとする判断を退ける。むしろ彼は、政治問題にかぎらず、すべての問題に対する思考や判断においては「近代の理性信仰」を屑籠に投げ捨てよ、と説く。  

 なぜなら労働者層にかぎらず、政治や宗教でひとびとを分断しているのは、理性的判断と信じ込んでいる自己正当化の感情にすぎないからである。したがってそれらの問題で勝利をえようとするならば、大衆の「理性」に訴える身振りで彼らの感情に訴えればよい(ワイマール民主主義の手続きに則って大衆の票を獲得し、第1党となるやいなや、授権法によって一党独裁体制を築いたナチスの方法がこれであった。いつもいうようにナチスは理性の欠如によって成立したのではなく、ホルクハイマーのいうように、理性の過剰で成立し、理性の過剰で破滅に導いたのだ)。  

 またなぜなら、近代理性の信者たちが信じているように、人間は生物学的に、思考や判断において「理性」の声を聴くようにはデザインされていないからである。感情やいわゆる直観で判断したものを、「理性」は追認し、自己正当化するだけにすぎない。MRI(磁気共鳴映像装置)などによる最新の脳科学的研究は、そのことを教えている。  

 近代理性ではなく、信ずべきものは道徳的直観であると彼はいう(カントのいう実践理性である。だが近代思想の主流はこれを無視し、あるいは投げ捨ててきた)。われわれ人間の奥底に眠っている聖なるものや罪の意識、あるいは共感や友愛や共同体意識、われわれを養ってきた伝統など、総じて言えば「世界観」にかかわる直観がそれであるとする。さらにリベラルの根本的誤りは、これら道徳的直観や「世界観」をすべて近代理性に反するもの、あるいは非合理性として否認し、大衆の心の底に眠るこれらのものをすべて保守の側に手渡してしまったことにあるという。  

 彼は最終的にこれらを「叡知(ウィズダム)」と名づけ、リベラルや左派が「近代理性信仰」を屑籠に捨て、叡知を手にすることを願い、それを結論としているが、まったく同感できる。  

 私の用語法によれば、叡知とは、プラティークと名づけたわれわれの無意識のなかに遺伝的に構造化されている思考体系(それぞれの文化の根底をなす)にもとづきながら、プラクシスと名づけた意識的行動や判断を耐えず検証していく「弁証法的理性」にほかならない(サルトル思想の無残な廃墟であるそれと混同しないでほしい)。  

 1960年代からすでに近代批判ははじまっているが、グローバリズムの挫折にともなってふたたび勢いを増してきたのは、喜ぶべき現象ではあるだろう。

ニヒリズムとしての無神論  

 進化生物学者で新ダーウィン主義者のリチャード・ドーキンズが書いた『神という迷妄』が一時英語圏のベストセラーとなったが、その後塵を拝するアレックス・ローゼンバーグの『無神論者のリアリティ・ガイド』Alex Rosenberg. The Atheist’s Guide to Realityという本が、レオン・ウィーゼルティアの選ぶ昨年の「ワースト・ブック」となった。つまり上記のジョナサン・ヘイトと逆に、あくまで近代理性に執着し、神の問題を含め、すべてを科学が解決するという「科学主義」の権化のような本だからという。  

 ここに紹介する価値もないが、これら急進的な無神論は、ある種のキリスト教原理主義的有神論の盾の裏面にすぎず、両方とも近代のニヒリズムの典型的な現れにほかならない(詳細はこのたび書きあげた本の第1章「ニヒリズムへの道」に譲る)。  

 われわれ日本人の大多数は無神論であるなどといわれるが、われわれにかぎらず東洋人は(イスラーム教徒を例外として)、「神」概念をもったことはないのであるから有神論でも無神論でもありえない。むしろ伝統的に、上記にいう「聖なるもの」あるいは宇宙や大自然への畏敬の念をもち、人間にかぎらず生物すべてに共感の情をもつものとして、近代のニヒリズムに毒されていない貴重な人種というべきであろう。先の東日本大震災でもこのことが実証されたが、これからの脱近代の世界を築いていくうえで、この貴重さを大事にしたい。