まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11番「當麻寺」~新西国三十三所めぐり・25(竹内街道をゆく)

2017年01月26日 | 新西国三十三所
太子町の2ヶ所を参詣した後で當麻寺に行くわけだが、ここは電車に乗らず歩いて向かうことにする。

竹内街道。日本最古の官道といわれており、堺から東へ進み、葛城市の長尾神社までのおよそ30キロの道である。難波と飛鳥を結ぶ大道として開かれた。羽曳野市から東は、現在の国道166号線に相当する。これから太子町から竹内峠で県境を越えて、葛城市の竹内を経て當麻寺に向かうことにする。

叡福寺、西方院の前の道を歩き、太子町の中心部を通る。町役場を過ぎると国道166号線に出る。ここからクルマの多い国道を行くことになるが、脇道がある。竹内街道の看板もあり、こちらが旧街道だろう。

太子町には飛鳥時代の天皇陵がいくつかあるが、竹内街道に沿って孝徳天皇陵がある。この辺りは百舌鳥・古市古墳群のエリアからは外れるのだが、飛鳥時代の頃になると天皇陵も小ぶりなものになる。その百舌鳥・古市古墳群であるが、今回も暫定リスト入りを逃している。別に世界遺産だけが価値のあるものではないし、ここまで「え?」と思うところが登録されているのに選ばれていないのなら、この運動ももういいのではないかと思う。

少しずつ緩やかな坂を上る。前方からトレッキングポールを持った人たちとすれ違う。竹内街道はこうしたウォーキングのコースとしても親しまれていて、中には堺から葛城まで1日で踏破する人もいるようだ。

古い造りの家もあり、ここを歩くのは初めてだがなかなか趣がある。集落を抜けたところに歴史資料館があるが、年末年始ということで残念ながらお休み(これを書いているのは1月も終わろうとしている時期だが、実際に行ったのは1月の4日である。念のため)。ここで再び国道166号線に合流する。道の駅でトイレ休憩をとる。この辺りでもみかんが採れるようで、カゴやダンボール単位で売られている。

ここから交通量の多い区間を歩く。途中歩道もあるにはあるが、歩道がなく白線のみという区間もある。まだ4日だからか大型トラックはさほどいなかったが、普段は大阪南部と奈良を結ぶ区間としてそれらも多く走るだろう。それを考えると歩きはあまりお勧めできないところかもしれない。大阪府側の後半はクルマにヒヤヒヤしながら歩く。

そうするうちに竹内峠に着いた。大阪と奈良の県境。歩行者用には脇にそれる階段があり、休憩スペースがある。これを過ぎると再び国道からの脇道、旧街道がある。木々が生い茂るがクルマが通らないぶん歩きやすい。国道の姿は見えなくなったが、代わりに南阪奈道路が見える。この脇道も沿道の工事車両が走るようだ。ただこの日は工事も休みのようで、そうした車両には1台も会わなかった。

時折、こうした矢印のステッカーを見る。四国八十八所の遍路道の案内みたいだなと通りすぎるが、すぐにああそうかと気づいた。この竹内街道は、西国三十三所を徒歩で回るコースでもある。第5番の葛井寺から第6番の壷阪寺へのルートで、ステッカーは「西国古道」を現在に受け継ごうというNPO法人の手によるものだ。

竹内の集落に差し掛かる。旧街道沿いには、先ほどの太子町側よりも風格のある家屋が並ぶ。門の前を流れる用水路も昔ながらの雰囲気がある。

この集落の中に、「綿弓塚 」というのがある。俳人松尾芭蕉がこの地に住む門人を訪ね、「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」の句を残したとされる。句の意味はさておくとして、現在は当時の建物を整備して休憩所としており、竹内街道の有名スポットとして地元はアピールしているようだ。

當麻寺には竹内集落の途中から直線で行けるが、せっかくなので古い町並みが県道で区切られる交差点まで歩き、今度は県道を北上して、当麻寺駅から當麻寺への参道の交差点まで行く。ほどよい歩きとなり、この日3ヶ所目となる當麻寺に向かう・・・。
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