先週の宮城の被災地めぐりというのをポツポツと記事にしているのだが、その間に東北楽天は球団創設から初めての優勝マジックを点灯させた。一方のオリックス・バファローズは最下位が決定的で、一体この期間、それぞれのチームがどのように優勝をめざし、かつ地域貢献に取り組んできたのか、その差が出ているのではないかと思う。
どうせなら、オリックスの目の前で胴上げすればよろしいでしょう。
・・・正直、もう「オリックスが」球団を持つ意義というのはないのではないかと思う。来年は会社創立50年というキリのいい年なら、球団経営から手を引くなり関西から出るなり、エポック的なことをすればよろしいのではないだろうか。どれだけ世間からバカにされているのか、選手、監督コーチ、経営陣はわかっているのかね・・・?
さてそんなことはどうでもいいとして、先に進まない旅行記の続き。
8月19日、石巻、女川を回る中で最後にカーナビに登録したのは「石巻市立大川小学校」である。先の震災の津波により、当時校内にいた児童108名中74名が死亡または行方不明、教職員も13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡したという惨事を招いた。
2万人以上の死者・行方不明者を出したのだから児童74名の死亡・行方不明というのも十分あり得ることかなと思うが、津波の被災各地の学校を見るに、これだけ児童生徒に犠牲者が出た学校というのはここくらいだそうである。市内の全ての学校で死者を出さなかった「釜石の奇跡」と対比される形で、こちらは「大川小学校の悲劇」と言われている。教師の対応に問題があったとされるが、遺族の悲しみというのは消えるものではなく、2年半が経過するこの時期でもまだゴタゴタしている。
確か大川小学校の被災は、北上川の河口からの津波によるということである。ただこれから現地に向かおうとして思うに、「石巻の北上川の河口といえば先ほど見てきたところだが、その上流であれだけの被害があったのか?」と疑問に思った。あれだけのことが起きたのなら、北上川の河口に位置する石巻の町並みも壊滅したのではないかと。
カーナビが女川からさらに海岸沿いのコースを示すのでおかしいなと思ったが、北上川の河口というのは実は2つあって、石巻市街を流れるコースと、もう一方の新北上川(追波川)というものである。大川小学校を襲った津波は、この新北上川を遡上してきたものである。
国道398号線に沿って走る。震災による崩落区間もまだまだ残っており、その復旧作業の最中である。それがなければ実に穏やかな海である。あの震災があったということなどが嘘のように、青空に映えている。ところどころで集落が現れるが、いずれも人家はほとんど残っていない。
途中、雄勝の町中を通る。カーナビではさまざまな施設を載せているが、今はそのいずれもが土台だけを残して草生した状況である。向こうのほうで何か建物を壊しているが、どうやら中学校のようである。ここもこれからどうしていくのだろうか。
国道398号線と新北上川が出会う交差点に出る。少し道が上がっており、右前方の坂を下りる。ダンプの行列が見える道、そして「この先は通り抜けることができません」という看板を見ると、そこが大川小学校であった。
「大川小学校の悲劇」についてはさまざまなところで語られていることだが、確かなことは、この2階建ての建物を超える高さの津波が来たということ、そして地震発生から津波が来るまで50分の時間があったにも関わらず、避難指示が遅れた、あるいは避難方法が適切でなかったとして間に合わなかったということである。学校側の責任を問う遺族もいて、結構ギスギスした雰囲気である。
小学校から海の方向を見るが、その手前には広々とした平地があり、山というか丘も並んでいる。その向こうに海があるなどとは、やってきた一見の旅行者にはわからない。振り返ると先ほど通って来た新北上川を渡る橋の交差点で、少し高いところにはあるが、そこに逃げようとして間に合わず津波に呑まれたところである。
あれから2年半が経過したこともあり、小学校の建物の周りはガレキも取り除かれ、本体だけが残っている(震災発生からそれほど日が経たないうちにここを訪れた人たちの記事やブログ等の写真を見ると、ガレキや土砂で悲惨な状況になっていたことがより鮮明である)。ロープで仕切っており、訪問者はその前から見るような格好である。私が訪れた時も同じようにレンタカーで回る人、あるいは夏休みを利用して大型バスでやってきた中学生か高校生だかの団体が訪れていた。献花台、そして山側に設けられた慰霊碑で祈る姿、そして目の前の廃墟・・・例えが不謹慎かもしれないが、広島の原爆ドーム、そして平和記念公園で祈りをささげる人たちとダブって見える。
今後この場所はどうなるのだろうか。もう、同じように小学校が建つことはないだろう。建物は残り、慰霊碑も建立された。やはり広島の原爆ドームと同じく、ここは震災の悲惨さを後世に伝えるスポットということになるのだろうか。被害の中でもことさら「人災」が言われているところだけに、さまざまな教訓が得られるということか。
組織というのがいざという時に機能しない・・・ことは大川小学校に限らず、全国のあちらこちらにもあるのではないだろうか。体裁や規則にがんじがらめになり、状況に応じた対応が即座に取れないということが。その教訓ということで、小学校の建物は何らかの形で保存してもらいたいものである・・・。