まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地を見る~石巻・大川小学校

2013年08月31日 | 旅行記B・東北

先週の宮城の被災地めぐりというのをポツポツと記事にしているのだが、その間に東北楽天は球団創設から初めての優勝マジックを点灯させた。一方のオリックス・バファローズは最下位が決定的で、一体この期間、それぞれのチームがどのように優勝をめざし、かつ地域貢献に取り組んできたのか、その差が出ているのではないかと思う。

どうせなら、オリックスの目の前で胴上げすればよろしいでしょう。

・・・正直、もう「オリックスが」球団を持つ意義というのはないのではないかと思う。来年は会社創立50年というキリのいい年なら、球団経営から手を引くなり関西から出るなり、エポック的なことをすればよろしいのではないだろうか。どれだけ世間からバカにされているのか、選手、監督コーチ、経営陣はわかっているのかね・・・?

さてそんなことはどうでもいいとして、先に進まない旅行記の続き。

8月19日、石巻、女川を回る中で最後にカーナビに登録したのは「石巻市立大川小学校」である。先の震災の津波により、当時校内にいた児童108名中74名が死亡または行方不明、教職員も13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡したという惨事を招いた。

2万人以上の死者・行方不明者を出したのだから児童74名の死亡・行方不明というのも十分あり得ることかなと思うが、津波の被災各地の学校を見るに、これだけ児童生徒に犠牲者が出た学校というのはここくらいだそうである。市内の全ての学校で死者を出さなかった「釜石の奇跡」と対比される形で、こちらは「大川小学校の悲劇」と言われている。教師の対応に問題があったとされるが、遺族の悲しみというのは消えるものではなく、2年半が経過するこの時期でもまだゴタゴタしている。

確か大川小学校の被災は、北上川の河口からの津波によるということである。ただこれから現地に向かおうとして思うに、「石巻の北上川の河口といえば先ほど見てきたところだが、その上流であれだけの被害があったのか?」と疑問に思った。あれだけのことが起きたのなら、北上川の河口に位置する石巻の町並みも壊滅したのではないかと。

カーナビが女川からさらに海岸沿いのコースを示すのでおかしいなと思ったが、北上川の河口というのは実は2つあって、石巻市街を流れるコースと、もう一方の新北上川(追波川)というものである。大川小学校を襲った津波は、この新北上川を遡上してきたものである。

Dscn2028国道398号線に沿って走る。震災による崩落区間もまだまだ残っており、その復旧作業の最中である。それがなければ実に穏やかな海である。あの震災があったということなどが嘘のように、青空に映えている。ところどころで集落が現れるが、いずれも人家はほとんど残っていない。

Dscn2029途中、雄勝の町中を通る。カーナビではさまざまな施設を載せているが、今はそのいずれもが土台だけを残して草生した状況である。向こうのほうで何か建物を壊しているが、どうやら中学校のようである。ここもこれからどうしていくのだろうか。

国道398号線と新北上川が出会う交差点に出る。少し道が上がっており、右前方の坂を下りる。ダンプの行列が見える道、そして「この先は通り抜けることができません」という看板を見ると、そこが大川小学校であった。

Dscn2033「大川小学校の悲劇」についてはさまざまなところで語られていることだが、確かなことは、この2階建ての建物を超える高さの津波が来たということ、そして地震発生から津波が来るまで50分の時間があったにも関わらず、避難指示が遅れた、あるいは避難方法が適切でなかったとして間に合わなかったということである。学校側の責任を問う遺族もいて、結構ギスギスした雰囲気である。

Dscn2034Dscn2036Dscn2039小学校から海の方向を見るが、その手前には広々とした平地があり、山というか丘も並んでいる。その向こうに海があるなどとは、やってきた一見の旅行者にはわからない。振り返ると先ほど通って来た新北上川を渡る橋の交差点で、少し高いところにはあるが、そこに逃げようとして間に合わず津波に呑まれたところである。

Dscn2053Dscn2052Dscn2047Dscn2048あれから2年半が経過したこともあり、小学校の建物の周りはガレキも取り除かれ、本体だけが残っている(震災発生からそれほど日が経たないうちにここを訪れた人たちの記事やブログ等の写真を見ると、ガレキや土砂で悲惨な状況になっていたことがより鮮明である)。ロープで仕切っており、訪問者はその前から見るような格好である。私が訪れた時も同じようにレンタカーで回る人、あるいは夏休みを利用して大型バスでやってきた中学生か高校生だかの団体が訪れていた。献花台、そして山側に設けられた慰霊碑で祈る姿、そして目の前の廃墟・・・例えが不謹慎かもしれないが、広島の原爆ドーム、そして平和記念公園で祈りをささげる人たちとダブって見える。

Dscn2045今後この場所はどうなるのだろうか。もう、同じように小学校が建つことはないだろう。建物は残り、慰霊碑も建立された。やはり広島の原爆ドームと同じく、ここは震災の悲惨さを後世に伝えるスポットということになるのだろうか。被害の中でもことさら「人災」が言われているところだけに、さまざまな教訓が得られるということか。

Dscn2043組織というのがいざという時に機能しない・・・ことは大川小学校に限らず、全国のあちらこちらにもあるのではないだろうか。体裁や規則にがんじがらめになり、状況に応じた対応が即座に取れないということが。その教訓ということで、小学校の建物は何らかの形で保存してもらいたいものである・・・。

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被災地を見る~女川

2013年08月28日 | 旅行記B・東北

今回の被災地巡りでまず気になっていたのは震災後一度訪れた気仙沼であるが、その次にはJR石巻線の終着駅であり、港町である女川には足を踏み入れてみたいなと思っていた。

女川は2007年に一度訪れたことがあるが(その時の記事はこちら)、その時は石巻から気動車で女川を訪れ、駅前の日帰り入浴施設に入ったり(気動車の車両を改造した休憩スペースが印象的だった)、女川原発のPRセンターで原発PRのパンフレットをさまざま見たり(私も、こういうPRセンターのおかげで原発賛成のスタンスだったものだ)、マリンパルという魚介類の市場の賑わいでクジラ料理を味わって・・・と、短時間ながら充実した時間を過ごしたのを憶えている。ちなみにその日はその後で気仙沼線に乗って気仙沼まで行った。

震災では女川の街並みを容赦なく津波が襲う光景をテレビなどで見た。気動車が倒れた映像もあり、旅の思い出のある土地が壊滅した様子はショックだった。浸水地域は3キロ平方メートルと、石巻に比べれば少ないが、女川の大部分が山地ということを考えれば建物としてはかなりの被災と言えるだろう。また約1万人の人口のうち、死者・行方不明者は1000人を超えるというから割合は高い。

石巻から国道398号線を走る。ごく普通の町並みが広がるようにも見えるが、国道の右手に大きな更地があったりする。カーナビの地図ではここに中学校があったとあるが、津波で流されてしまったのだろうか。

Dscn1993静かな佇まいを見せる万石浦に差し掛かる。石巻市から女川町に入ったすぐの左手に「マリンパル」の看板。先ほど魚介類の市場で賑わったと書いたマリンパル、津波で流されてしまったが場所を変えて、規模を縮小して営業を再開していた。こちらで中に入る。

Dscn1994あの時と比べれば規模は縮小されているが、それでもマグロやクジラをはじめとした海産物は豊富である。本当ならこれらの切り身を買って食べたいところだが、旅の途中ではそれはなかなかできないことである。その中で見つけたのが蒸したホヤの切り身。半冷凍のような感じだが、自然解凍すればそのままで食べられるとのことで買い求める。ホヤだけは三陸でなければ食べられるものではないが、あの独特の苦みと、ホヤを口に入れた後で水か日本酒を飲むと口の中に広がる甘味というのがたまらない。先に石巻で購入したカキやクジラの加工品などと合わせて、これで夕食のピースは揃った。

Dscn1998万石浦に沿ってしばらく行くと浦宿駅に到着。女川の一つ手前であるが、現在列車はここまでの運転となっている。ホームの駅名標も隣の「女川」という文字が隠されていた。えらい中途半端なところが終着駅だなと思うが、震災のことを思えばよくぞ浦宿まで復旧させてきたなと思う。

Dscn2000ホーム一本きり、おそらくこういう時でなければホームに立つことのなかった駅だろう。石巻方面は修復された路盤が広がる。ただ逆に女川方面を見ると・・・もう線路も撤去され、草生した路盤。何だか非情なものを感じた。

・・・ただ、浦宿で感じた非情感というのは甘いもので、しばらくクルマを進めると、かつては広がっていた、家々も密集していた覚えのある町並みが、やけに見通しが良くなるのを見ることになった。

こちらはまさに「復興作業進行中」というところだろうか。かつての町並みもきれいに整地され、ダンプや重機がひっきりなしに作業を行っている。カーナビで指定した女川駅のあった辺りも工事真っ最中で、工事関係者以外は入れなくなっている。

Dscn2004そんな工事の一角に献花台が設けられており、そこには入ることができる。周りを見渡して、先ほど野蒜駅周辺や石巻の日和山から見た草生した風景とは違い、平地をとにかく更地にしてどこも砂利まみれになっている女川の殺風景さというのが対照的に見えた。こういうのも自治体のスタンスなのだろうか。この先訪れた町々と比べてみても、女川については復興事業が速いペースで進んでいるなという印象を受けた。果たして復興の暁には、女川の中心部に列車が来ることはあるのだろうか。

Dscn2005ただその中に転がしてある建物が見られる。その一つが交番。女川でも震災のモニュメントではないが、何か残せないかということを考えているのだろう。他にもそういう建物があり、あえてそれらを抽出し、残りはきれいにさらってしまおうというところか。

Dscn2017Dscn2019それが痛々しいのが、中心部にある江島共済会館の建物である。この前にも献花台があるが、そこには隣接していた七十七銀行女川支店の津波の犠牲者の遺族からの怒りのメッセージも込められていた。震災当時支店で働いていた行員たちは、支店長の指示で2階建ての建物の屋上に避難したが、それを超える津波は建物をあっさりと呑み込んだ。13人の行員のうち1人を除いて死亡、または行方不明となった。

遺族は「なぜ屋上への避難指示が出されたのか」ということで銀行の措置に疑問を持ち、原因の究明と改善策を求めている。また中には銀行に損害賠償を求める訴訟を起こした遺族もいる。「1分も行けば高台に上がれるではないか」ということだ。建物の屋上というのも、その場にいたらとりあえずの避難先として真っ先に思いつくとは思うのだが、1分もあれば高台に上がれると言われれば、また話は変わってくる。

Dscn2020その高台にある建物というのがこの写真の左奥に見える女川町地域医療センター。当時は女川町立病院であったが、昨年から介護施設と一体化して新たに発足した建物である。ただこの病院も確かに高台とはいえ、20メートルを超える津波の前に1階部分まで浸水したという。

Dscn2011医療センターの駐車場に立つ。こうして写真を撮っているところも津波が押し寄せ、駐車車両が流されて病院のフロアにも入ってきたとか。高台に避難してもそれでも犠牲になった人もいたそうである。それでも、先の七十七銀行の犠牲者遺族の思いとしては「他の銀行の人は高台に逃げて助かったのに・・・」というのがある。

Dscn2015気持ちはわかる(というより、私のような者の想像を超えるものだろう)。ただ、そこまで町を襲った津波に対して、銀行に損害賠償を求めるというのに何か空しさというのも感じる。

高台の運動公園や学校のある一帯には町役場の仮設庁舎が設けられ、多くの仮設住宅も並ぶ。石巻線の代行バスの「女川駅」もこの一角に設けられている。いや、後で知ったところでは「震災復興住宅」というそうである。かつての陸上競技場を解体し、高台での街づくりの第一歩ということであるが、こういうところに住宅団地を造ることについても地元住民からは反発の声も挙がっているとか。確かに地元の声は大切にしなければならないが、町全体に活気を取り戻すにはやはり行政のリードでやらなければならないことの方が多いのではないかという気がする。

Dscn2008旅から戻った後や、ブログ記事を書くに当たってさまざまな人の意見や考え、被災地の訪問記などを見るが、立場によって意見は真っ向対立していると思う。実に難しいものだ。確かにハード面での復興は進みつつあるように見えるが、誰しもが複雑な思いを持っているのではないかと思う・・・・。

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被災地を見る~石巻市街

2013年08月25日 | 旅行記B・東北

73平方キロメートル。死者、行方不明者4100人以上・・・。

東日本大震災の津波で石巻市全体で浸水した面積、そして死者、行方不明者の数である。元々の面積が広いということはあるが、被害の程度としては最も大きかった自治体である。

Dscn1968東松島市から国道45号線で石巻市街に入るが、国道沿いには普通に従来からの店舗も広がっているように見えるし、それほど被害が大きかったのかな?と一瞬錯覚する。たまたま通ってきたエリアが被災軽微なだけで、沿岸部のほうに行けば凄まじかったことだろう。鯨の缶詰をかたどった巨大タンクが流された光景を憶えている方もいらっしゃるのでは。

Dscn1969石巻市街に近い日和山に向かう。北上川の河口に近いところだが、標高60mほどの急勾配を上る。この日和山、鎌倉時代から戦国時代にかけてはこの辺りを治めた葛西氏が城を築いたり、また松尾芭蕉も「奥の細道」ではこの地を訪れている。もっとも、本文を読む限りでは「本当は古川や金成にある歌枕の地を訪ねつつ奥州街道を通って平泉に行こうとしたが、そちらは人の通った跡もまれで、猟師や芝刈りくらいしか通らないらしいから、仕方なくこっちを通って来た」というような書き方なのだが・・・。ただ地元の研究家などによればその表現は芭蕉一種のフィクションで、実際のところはこちらにも門下がいたり、石巻の街道も整備されていたので同行の曾良などは最初からこちらを通ろうという段取りでいたともいう。

Dscn1976Dscn1973そんな由緒ある日和山であるが、震災の際には多くの人がここに上って津波からの難を逃れたという。芭蕉と曾良の像が立つところから海辺を見ると、当時の爪痕がまだまだ残っている。一見すれば緑が多く水田風景に見えないこともないが、これは全て津波で流された跡である。日和山が自然の要塞の役割を果たしたということか。「寺の本堂が立派に残ってるでしょ?でもあれ、中はがらんどうなんですね」などと、タクシーの運転手らしき人が客に説明している光景も。震災後、石巻市街の被災状況を見る格好のスポットとしてその名も広がったという。

Rscn1982Dscn1977反対側には市街地が広がる。北上川の河口部分。津波は堤防を軽々と越えて住宅地に流れ込んだ。ちょうど「震災前」の風景を写したパネル(左)があるので、こちらと現在の状況(右)を比べてみる。

Dscn1983Dscn1984石ノ森萬画館は津波に耐えた建物として今もランドマークのようになっているが、その周囲の中洲などはほとんど何もない状態である。これらを並べることで、改めて被災の状況を感じることができる。

日和山から下りて石巻市街に戻る。そろそろ昼ということだが、こちらでは「石巻焼きそば」なるB級グルメがあるという。昨今石を投げれば当たるくらいに全国各地にB級グルメを名乗る食べ物が増えており、中には町起こしのために無理やりレシピを造り出したものも多いが、ここ石巻焼きそばは、戦後に「焼いてもべたつかない麺を」ということから、中力粉で作った麺を二度蒸ししてナマの茶色い麺を造りだした。これにだし汁を加えて蒸し焼きにし、目玉焼きをトッピングするというのがこのメニューの特徴である。

Dscn1986これをいただいたのが石巻駅から日和山に上がる麓にある藤や食堂というところ。別に目当てにしていたわけではなく、たまたま携帯電話で検索してヒットしたところである。ごく普通の食堂であるが店内には石巻焼きそばや全国のB級グルメ選手権の紹介もなされていた。

Dscn1985さてやってきた一品。ソースは好みに合わせて後からかける。目玉焼きをつぶしながらいろんな味を楽しむが、ソース焼きそばと塩焼きそばの中間のような味わい。だし汁がベースになっていることもあるせいか、ご飯によく合うのではないかと思う(またそういうことをすると、粉モンもおかずにご飯を食べる関西人といわれるだろうが)。

石巻のシンボルということで、先にも書いた石ノ森萬画館にも行こうかと思う。ただ、以前(もちろん震災前)に一度行ったことはあるが中のテーマについてはさほど興味がないので建物の外観を眺めるに止める。

Dscn1989その代わりに北上川沿いの「石巻まちなか復興マルシェ」を訪れる。被災地の各地にこのような復興商店街が形成されており、被災地を訪れた人が食事をしたり土産物を購入したりすることができる。

Dscn1992昼食は石巻焼きそばで済ませたので、こちらでは海産物をあれこれ見る。商店街といっても店舗の数は限られているので魚の卸売市場のようにはいかないが、先ほど鯨缶詰工場の被災で触れた木の屋水産も操業を再開しており、鯨や鮭の缶詰などが売られていたし、その他の水産加工品もいろいろとある。詰め合わせのパックを自宅への土産に求めるとともに、手を加えなくても食べられるものについてもこの日の夕食用に何点か買い求めた。

宮城県北、三陸沿岸の中心的な街で仙台方面からのアクセスも比較的よい(仙石線は代行バスでも都市間の直通バスは結構走っている)ことから、見学に訪れる人も結構多いようである。仮面ライダーをはじめとした石ノ森萬画のヒーローたちの効果も多いのかな。日和山を中心に見る方向によって町の姿ががらりと異なることに驚きを感じた。

この後は再び海岸沿いに走り、女川方面を目指すことにする・・・・。

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被災地を見る~東松島・野蒜

2013年08月24日 | 旅行記B・東北

松島での見物を終え、塩釜に戻りレンタカーに乗り換えて北上する。つい先ほど通った松島海岸を過ぎる。

この日は石巻に向かうが、このまま国道45号線を進むのではなく、松島を過ぎたところから県道27号線に入る。まずは仙石線の運休区間をできるだけ並走してみようと思う。

Dscn1949カーナビでは震災前というか、そこにあるものが本来そこにあるべきものとして載せられている。仙石線の線路ももちろん県道に併走する形で載っているが、あるところは線路が錆びたままで残り、あるところでは路盤だけが残っていたりする。この先、震災前と現在の姿をカーナビを通して比べる場面が増える。

この日は平日ということで世間は普通に動いている。県道でも途中で震災で崩落した区間の補修工事で片側の交互通行となっていたり、かつては集落があったであろう沿道にはフェンスが立ち、更地となったその両側でダンプや重機が走り回っていたりする。県道を行き交うのもダンプが多い。フロントガラスや後部には震災からの復興を願うメッセージのようなもの掲示したりステッカーで貼ったりして、この仕事に懸ける思いというのをアピールするダンプも多い。

また運休区間の代行バスともすれ違う。1時間に1~2本ほど設定されているようだが、高速バスでも使えそうなハイデッカータイプの車両が来たりする。それなりの時間走るということである程度快適な車両を当てているのだろう。停留所は駅の場所にこだわらず、少し離れても県道沿いに設けるなど、バスの運行に適した形で設けられている。

小さな港のある集落にさしかかる。仮設住宅も見える。県道は跨線橋で仙石線の線路を超える。すると右下にカーブを描く駅のホームらしきものが見える。これは東名駅。線路ははがされホームの残骸だけが残る。これを過ぎれば次は野蒜である。

仙石線の沿線を通ってみようと思ったのが、この野蒜駅の存在である。やはり鉄道好きということで、線路の被害状況を見てみたいというのがあった。

Dscn1951野蒜駅には震災に絡むこんなエピソードがある。ちょうど地震発生時、この駅で交換した石巻行き、仙台・あおば通行きの列車がそれぞれ発車したところであった。それぞれ地震で停止したのだが、上下の列車で明暗が分かれた。石巻行きは丘の上で停車。車掌が乗客を集めて外に避難誘導しようとしたところ、乗客の一人が「ここは高台だから車内にいたほうが安全だ」と言ったために乗客はそのまま車内へ。直後に来た津波の時もこの丘の上だけは難を逃れ、翌日に全員無事に救助された。

Dscn1958一方で悲惨なことになったのが仙台・あおば通行き。こちらは平地だったこと、そしてマニュアルで近くの避難場所に誘導するようにとの指示があったため、乗客は近くの小学校に避難した。しかし津波は車両を押し流し、小学校の体育館も襲われた。ここで亡くなった人も数人いたそうである。ただ、列車の車掌も迅速な判断で小学校まで誘導したのは確かである。これは皮肉というか、不運だったとしか言いようがないのではないか。

そんなことのあった野蒜駅の手前。確かにこの辺りは海にも近く、ゆったりとした造りの家屋も多かったところ。それがクルマで差し掛かると、家の基盤らしきものはあるが建っているのはわずかに数件。何もないところにはペンペン草が生い茂る。何も知らなければ「これから造成をしようかという新興住宅地」に見えるかもしれない。ただそれは全くの逆で、ほんの少し前には家が立ち並ぶ光景だったのだ。それが一時で無くなってしまう・・・その爪痕である。

Dscn1952カーナビは野蒜駅まで正確に案内した。そこには確かに駅はあった。・・・あったけど、それは駅と呼べるものではなかった。

Dscn1954これでもガレキは撤去してあるのだという。ただ倒れた架線柱、ひび割れたホーム、そこに「のびる」の駅名標やSuicaのポスター。ただそれもすっかり色あせている。

Dscn1961駅舎もドアに戸板が打ちつけられ、もちろん中には入れない。横のミニショップもぐちゃぐちゃになったままだ。

あれから2年半が建とうとしているが、復興再建の足音はまだこの野蒜駅までは届いていない。もっとも、仙石線の復旧にあたっては、線路も今の位置から山側に移すという。津波に遭った、そして誰もいなくなった場所にこだわって駅を造ることもないだろう。その時まで、この駅舎もそのまま放置されることだろう。県道を行き交うダンプの轟音だけが響く。

Dscn1966この先には奥松島の景色も眺められる大高森もあるが、ここは再び石巻に向かう。カーナビは近くの踏切を渡ってしばらく走って国道45号線まで誘導するが・・・その踏切が見当たらない。よく見ると細い道があり、その先には線路のない踏切があった。おそらく住宅街があったであろうその一角である。

それを超えると、先に書いた体育館にも被害があった野蒜小学校の横を通る。そこから道路は勾配を上がる。ここを高台として開発しようということか、両側の山並みを切り開く工事の最中である。仙石線はこの辺りを通ることになるのだろうか。

国道45号線に合流し、吉田川を渡る。こちらは矢本の街並み。そろそろ色づきかける水田も広がるし、国道沿いの大型店もある。海側には自衛隊の松島基地もあるが家も多く、基地関係の人が住むのか、あるいは石巻のベッドタウンだろうか。海岸からは中のほうに入った集落だが、その中で「ここから過去の津波浸水区間」という表示を見る。これは宮城県の沿岸を走る国道6号線、そして国道45号線に設けられた標識で、今回の旅で北に行けば行くほど目立つようになる。大地震発生時の避難行動の目安ということになる。

Dscn1957一本道ということで交通量もなかなか多い。停まったり走ったりを繰り返すうちにそろそろ昼が近づき、石巻の市街地に入ってきた・・・・。

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松島遊覧船

2013年08月23日 | 旅行記B・東北

塩釜から遊覧船で松島に渡る。レンタカーはホテルの駐車場に置いたままで、遊覧船に乗った後に電車で戻り、再び乗ることにする。効率が良いのか無駄な動きなのか。

Dscn1874松島行きは第三芭蕉丸という船。1階の座席と2階のデッキは基本料金1400円で利用できるが、2階の客室はグリーン料金ということで追加が600円かかる。確かにゆったりとした造りではあるが、追加料金を払ってまで乗りたいかと聞かれれば躊躇する。暑い中ではあるが、1時間程度の航行なら外で潮風に吹かれるほうが気持ちよさそうだ。

Dscn1879塩釜からは10数人の客を乗せて出航。いずれも1階の客室か2階のデッキに出てきている。船内で売られているかっぱえびせんを手にカモメにやる人もいる。遊覧船・カモメ・かっぱえびせん・・・島めぐりの三大アイテムである。かっぱえびせんは投げてもいいし、指で持ったまま、カモメのほうが食いついてくるようにしてもいい。

Dscn1887塩釜港の造船所や魚市場を左手に、そして工場や物流センターが広がる七ヶ浜を右手に見て塩釜湾を航行する。

Dscn1892Dscn1899島と陸地の距離が近い。こうして遊覧船に乗ってみると海は実に穏やかである。これが普段の表情なのだろう。震災の時にはその狭い中を海流が入り込んできて塩釜の市街にも被害をもたらした。湾の奥深くだからといって安心はできない。

Dscn1913Dscn1901遊覧船の案内放送は震災のことには触れずに、淡々と左右に広がる島々を紹介していく。乗船客もその案内に合わせてデッキを左右に動き、しきりにカメラのシャッターを切る。島や岩の名前も一々覚えられるものではないし、詳細はガイドマップをご覧ください・・・というところだが、やはり多島美というのを感じる。

Dscn1921Dscn1932塩釜湾・松島湾の内海、そしてほんの少しだけ外海にも出るこの遊覧コース、50分という時間の中でさまざまなパノラマを展開する。日本三景ということでこの松島、そして安芸の宮島、それに天橋立とあるが、宮島と天橋立がそれぞれ「一枚看板」で勝負しているのに対して、さまざまな島や岩の情景が広がる松島のほうが景色の多様さということで一歩出ているのではないかと思う。

Dscn1941Dscn1944そして松島海岸に近づく。沿岸の至るところで大きな被害をもたらした津波であるが、この松島海岸地区では、湾内の島々が衝撃を吸収したおかげで壊滅を免れた。確かに遊覧船の桟橋や国宝の瑞巌寺などは被害を受けたが、比較的早くに復旧にこぎつけて被災地復興の火付け役ということになった。

桟橋に到着すると、折り返しとなる塩釜行きを待つ客がびっしりと並んでいた。果たしてこれ、全員一度に乗れるのかな?と心配してしまうくらいである。五大堂から遊覧船に手を振る観光客も多いし、桟橋前の国道では渋滞が発生していたり、まだ昼食には早い時間だが沿道の店では呼び込みが盛んだったり、ぱっと見た感じでは従来の一級観光地としての賑わいを取り戻しているようである。今回は早く塩釜に戻り、次のところに行きたいということがあって瑞巌寺にもこれらの店にも寄らなかったが、松島についてはもう普通の観光地の姿を取り戻しているのではないかと思う。

Dscn1936本当は、松島の今の風光明媚な眺めというのも長い時間の中で発生したであろう地殻変動、それこそ東日本大震災とは比べ物にならない規模の地震や津波があって、陸地がえぐられたり島が隆起や沈没したりということがあって、長い歴史の中で造られたものだろうが・・・・。

Dscn1948夏の日差しが照りつける中、そんなことを思いながら松島海岸駅に出る。仙石線の電車はここから一つ石巻寄りの高城町まで運転。ただしその先、矢本まではバスによる代行運転となっている。電車から代行バスへの乗り換えはこの松島海岸で行っているようで、仙台からの電車が着くと、「代行バスに乗れるきっぷをお持ちの方は自動改札を通さず、係員のいる改札をお通りください」という案内がなされる。観光客の見込まれる松島海岸まで電車が復旧しているのはかなり大きいことだと思う。まあ、少し長くなるが歩いてでも東北線の松島まで行くことはできるが。

高城町からやってきた電車に乗り、3駅先の本塩釜まで戻る。ここから再びレンタカーで移動するが、先ほど穏やかだと感じた松島海岸から少し先に行ったところから、いよいよ震災の爪痕を本格的に目の当たりにすることに・・・・。

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塩釜神社へ

2013年08月22日 | 旅行記B・東北

宮城への旅の2日目となった19日、これから3日間(実質は2日半?)で宮城沿岸部の被災地見学ということになるが、どういうルートで回ろうかと前日の夜もパンフレットや持参の小型パソコンにてあれこれ考える。これが、この塩釜だけでなく石巻や気仙沼に宿泊することができれば自ずとコースが決まるのだが、ホテルを確保することができなかったため、塩釜を拠点としてレンタカーを走らせ、夕方にはまた戻ってくる(最終日は仙台空港に直行する)プランとなる。

月、火、水曜日と回るわけだが、施設関係は月曜が休み、気になっていた気仙沼のリアスアーク美術館は月曜と火曜が休みである。結局、月曜は松島、石巻、女川。火曜は南三陸、登米。そして最終日の水曜に気仙沼まで向かうというざっくりとした計画となった。1日ごとに回る距離が長くなるということになる。

ということでまずはゆっくり目の出発となる2日目の19日。散歩を兼ねて朝食と新聞を仕入れにコンビニに向かう。地方に行くとそこで広く読まれている地方紙を手にするのも楽しみだが、宮城といえば河北新報。野球ファンからすれば、広島の中国新聞と同様に東北楽天(河北新報はこの球団を必ずこう表記する)の御用新聞というイメージだが、地域に根差した新聞らしく被災地関連の記事も丁寧に盛り込んでいる。震災関連はWEB版でも連載があり、他地方の人にも読み応えのなる内容になっている。

1面の真ん中あたりに東日本大震災の死者数15,883人、行方不明者2,676人として、その中で宮城、岩手、福島での死者・行方不明者の人数を記載している。最新の統計をこの欄に継続して載せているのだろう。この数字は大変なものだが、あくまでもこれは地震や津波で直接死亡したことが確認された数字であり、警察に届け出のあった行方不明者数である。直接ではなくてもその後さまざまな理由で亡くなった方を含めればもっと大きな数字となる。

Dscn1872ホテルの部屋で朝食を済ませ、朝から暑い中外に出る。まず向かうのは市内にある陸奥国一の宮である塩釜神社であるが、その前に前夜に訪れた震災のモニュメントにもう一度足を運ぶ。改めて波をイメージしたモニュメントを見るが、上部に描かれている円形は太陽だろうか。もう一度日の出の輝きを取り戻そう、そんなメッセージに思える。前に置かれている石の裏面には塩釜で犠牲となった60名あまりの名前が刻まれている。

Dscn1856本塩釜の駅前も所々更地になっている。おそらく震災前にはビルだったり商店だったりしたところだろう。前夜の居酒屋探しで「確かネットではこの辺りにあったはずだったが」という店があったが、それが見つからなかったのは被災して店を閉じたということか。ところどころそういう一角は見られるものの、塩釜の町としてはごく普通に機能しているように見えた(注:これはあくまで旅行者がその時の主観で思ったことで、「実際は現地の人たちはもっと厳しい生活を強いられている」というお叱りを受けるかもしれない。以下、町並みの感想を書いたところでは同じ)。

Dscn1860塩釜神社へは丘のほうに向かって歩く。浦霞の蔵元や一ノ蔵の販売本部なども沿道にあり、そのほか古い家も残る。塩釜神社は平安時代初期の朝廷による東北平定の頃に開かれたという由緒あるところで、東北平定の拠点となる多賀城にも近いのもうなずける。そこに至る道は塩釜海道というところで、沿道には古来から塩釜の地を詠んだ和歌や、奥の細道の紹介もなされている。

Dscn1864_2塩釜神社への参道は3つあるが、最も山側の表参道に向かう。こちらは200段もの階段があるが、それが塩釜神社の見どころでもある。と、その手前にある萩原醸造という店の前に「東日本大震災による津波 この地点まで到達する」の真新しい石碑が建てられている。ホテルや本塩釜駅から約1キロほどあるだろうか。結構奥のほうまで来た感じであるがここまで津波が押し寄せたのか。もっとも、両側を丘に挟まれたところであり、水も一点に集まったのだろう。

Dscn1867そのすぐ上が塩釜神社の参道である。200段の石段の上の楼門を見上げる。ここ塩釜ならば、この石段を駆け上がって塩釜神社まで行けば十分な避難場所となるのかなと思う。まずは朝からハアハア言いながら石段を上がる。

Dscn1869あいにくと本殿は修復工事中で、その脇の別殿にお参りする。被災された町や人々へのお祈り、そして今後の道中の安全を願って。自分の縁結び・・・?それは今回の旅の目的とは異なるので、一切封印。

帰りはクルマも通る東側の参道を歩いて下る。ちょうど通勤の時間帯ということで、高台の上の住宅地から裏道で降りてくるクルマも多い。塩釜には港もあり工場や流通関係の施設も結構ある。そちらへ通うのだろうか。また本塩釜の駅に向かう人、駅から出てくる人も見られる。駅近くの国道の交差点では四隅に交通整理の人が立ち、行き交う人に挨拶をする。朝からお疲れ様である。こういう光景を見ると、塩釜あたりではごく普通の朝の姿なんだろうなと思う。

Dscn1871駅前を抜けて観光桟橋に向かう。この日の行程は、とりあえずクルマはホテルの駐車場に置いたまま、松島の観光船に乗ってみる。松島巡りは松島海岸駅から湾内一周の遊覧船に乗ったことがあるが、塩釜から松島にアプローチするのは初めてで、ならば現地初日に組み込んでみようということにした。第一便は9時の出航である・・・・。

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塩釜にて第一夜

2013年08月20日 | 旅行記B・東北

18日に伊丹から仙台まで移動。仙台空港でプランにセットのレンタカーに乗り換える。乗るのはホンダのフィット。レンタカーを利用するのも久しぶりだが、少人数利用のクラスとなると出てくるのはだいたいがフィットである。ハイブリッド車ではないが燃費のよさでは定評がある。

有料道路に乗り、仙台市内を通過する形で目指すのは塩釜。今回は仙台駅および市街地に出る予定はないが、例えば最終日の夜くらいは塩釜から電車に乗って仙台まで出て、杜の都の夜を楽しむのもいいかなと、ちらりと考えたりもする。

広大な仙台平野を快走し、利府塩釜インター下車。ここから10分ほどで塩釜の市街地に入ってくる。仙台から20キロあまり離れた近郊エリアである。

Dscn1838この旅で連泊でお世話になるのはホテルグランドパレス塩釜。港町として有名だが、もともと宿泊施設は少ないようである。ただこのホテルは地元の老舗どころのようで、各種の集まりに対応した大小の宴会場があるし、正面玄関を入ったところにはブライダルサロンもあったりする。到着した時はフロントロビーでちょうど市民の有志によるジャズの生演奏なども行われていた。いきなり地方の濃いお出迎えを受けたかのようである。

ホテルはちょうど仙石線の本塩釜駅前にあり、客室からは塩釜の市街と仙石線の高架線路が見える。仙石線仕様ながら205系の電車が行ったり来たりするのを見ると何だかほっとする。

Dscn1839さて被災地見学は翌日からのこととして、まずはこちらで夕食である。その前に駅周辺の観察である。陸奥一ノ宮の塩釜神社(注:「しおがま」というのを表すのには市や神社を含めそれぞれさまざまな字体がある。ここでは煩雑なので、全て「塩釜」で統一する)側の出口は石灯籠なども置かれ、いかにも玄関駅、街の顔としての役割である。

Dscn1840_4一方で海側の出口は、駅前にイオンやホームセンターなどもあり、パッと見た感じでは新しく開発された住宅地の駅にも見える。ただ東日本大震災の時にはこの駅前にも津波が押し寄せた。今回の旅に来る前に、Youtubeで本塩釜駅周辺の津波の様子の動画を見た。おそらくこの写真の右手にある高層マンションの住民の方が撮影したと思うが、警報が鳴り、港のほうから少しずつ押し寄せる津波に息を呑む。イオン(当時はマックスバリュー)の屋上駐車場に避難していた人たちも津波の高さに慌てふためく様子、そして駅前を含めて一帯が水に埋まる光景が映し出されている。

その時の場面に立ってみて、改めて、被災地に来たのだなと思う。ちょうど駅ロータリーの一角に書店があったのでのぞいてみると、震災関連の記録やら写真集、地元・河北新報社による新書などが一つのコーナーで設けられており、「売上げの一部が被災地への義援金になります」という但し書きに引かれて分厚いのを買い求める。震災直後は「少しでも義援金」ということで、例えばコンビニ等で買い物をした後の釣り銭の小銭を募金箱に入れたり、プロ野球の試合などのイベントでの募金呼びかけに応じたりもしたのだが、恥ずかしい話、ここに来て全くそういったことがなくなった。せめて現地に来たのだからと、少しでも義援金と、全国ネットではないおそらく個人経営の書店の売上げに少しでも手助けになればと思う。ズシリと思い写真集に記録集だが、これから追々読んで行くことで、今回の訪問と合わせて少しでも被災地への理解が深まればと思う。

さて、夜の部である。塩釜といえば「すしの街」ということらしいが、個人的には寿司よりも普通の居酒屋、あるいは魚は魚で刺身やら焼き魚などで食べたい(要は、無理にご飯にくっつけなくてもよい)というのがある。そう思って歩き回るが、なかなかこれという店が見つからない。初日の18日が日曜日ということで閉めている店もある。

Dscn1844という中で見つけたのが、本塩釜駅前、ホテルの並びにある「お好み横丁」という店。お好み焼がメインというらしいが他の酒肴もあれこれあるようで、初日はここにする。震災後に場所を少し移したそうで、そういえば店の作りも新しい。壁には今季首位を走る東北楽天のポスターやタオルなども貼られ、どうだろう、地元の人たちも気軽に利用できそうな店である。

Dscn1842一方で「復興応援し隊!」ということで、復興関連事業に携わる工事関係者やボランティアに対しての「復興応援支援券」なるものも出しているようである。そのチラシに写っているのがなぜ外国人?という詮索はさておき、平日ともなれば復興関連事業に携わる人たちも仕事後の一杯ということで利用するのだろう。

Dscn1843これぞ塩釜!・・・という料理はメニューには含まれていないのだろうが、それでも刺身の盛り合わせやイカの塩辛などはなかなかいけた。甘エビの唐揚も普通のエビとはまた違った食感である。地酒のほうはすぐ近くに蔵元がある浦霞、そして大崎の酒だが三陸でも結構見かけた一ノ蔵の2枚看板。少し甘いのが飲みやすさにつながっている。

地元居酒屋でなかなかいいな、翌日、翌々日の夜もあるが、もし行き場がなかったら最悪ここでも何とかなるかな・・・と思わせるところだった。

夜でも蒸し暑さが続く大阪とは違い、ここまで来ると夜の潮風が心地よい。海べりのほうに出ると、仙石線の高架橋とイオンの建物に挟まれた一角に何やらモニュメントがある。こちらが東日本大震災の記憶を後の世に受け継ごうということで建てられたものである。波を打ったような模様があるのは津波をイメージしてのことだろうか。

Dscn1850この地点での津波の高さは2.3m。動画のすさまじさを見る限り「あれで2.3m?」という思いもあったが、その場にいたならばそんなことはどうでもよく、まずは命が助かるかどうかというところだろう。それでも塩釜は沿岸地区の中での被害のひどさというところを見ればまだマシなほうだったのかもしれない。それを翌日からいろいろ見る中で感じることになる。

しばらくこちらの広場にたたずむ。この夏初めて「自然の夜風が涼しい」と感じたことである。ただ、酒を飲んだ後でこういうモニュメントのところを訪れるのも何だか失礼かな、と思い早々に後にする。翌朝にもう一度じっくりと訪れることにしよう。

さて次の日以降は、観光と被災地見学とが交互に訪れる感じで、南三陸のあらゆる姿に触れることになる・・・・。

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宮城への旅

2013年08月18日 | 旅行記B・東北

今季は東北楽天の調子がよい。開幕17連勝、通算で21連勝という日本記録を樹立した田中将大投手の働きが最も大きいのだが、他にも則本とか、青山、小山、ラズナーといった投手力、マギー、ジョーンズの両外国人や銀次、枡田といったところの打撃陣、何やかんやで戦力が整っている。星野監督が楽天監督に就任した際には「セ・リーグしか見てないくせにパ・リーグでは通用せんわ」と思っていたが、今季はその手腕を発揮し、このまま行けば史上4人目の「両リーグでの優勝監督」ということになるかな。

その楽天の快進撃を支えているのが東北の熱いファンの声援だと思う。2年前の東日本大震災以降、誰がいうともなく「がんばろう東北」というのが合言葉になった。阪神・淡路大震災の時のオリックス・ブルーウェーブのように震災の年に優勝するというわけにはいかなかったが、ファンの声援や地元への密着度というのは年々高くなっているように思う。このまま優勝に向けて突っ走るのか、注目してみたいところである。

さて、私の少し遅めの夏休みをいただくにあたり、どこに行こうか迷った。ただこういうシーズンであるし、私も東日本大震災以降の東北の姿というのを見てみたいと思った。ということで宮城県あたりで宿泊できないかホテルを検索したが、仙台市内ならともかく、沿岸でも北のほうに行くと宿泊施設の数も少ないし、あっても連日満室である。平日でも満室というのは観光客というより、復興事業に従事する人たちが宿舎として利用しているからかなと思われる。ならば仙台に宿泊すればいいのだろうが、今回はどちらかと言えば仙台より北のエリアに訪れたいので少しでもそちらに近いほうがいい。

そこで妥協点というか、ちょうど中間で出てきたのが塩釜。こちらも震災の津波被害に遭ったところではあるが仙台にも近いし、松島やその先に行くのも比較的たやすい。こちらのホテルと伊丹~仙台の往復航空券、そして仙台空港からのレンタカーをセットにできる旅行会社のプランがあり、こちらを申し込む。

Dscn1822さて日曜日の昼、伊丹空港に現れる。ちょうどお盆休み期間の最終日ということもあり、手荷物預けの窓口も行列である。余裕を持って早めに到着したのでそこは余裕だったが、中にはそろそろ搭乗手続き締め切り時間が近づき、便名と「お手続きがまだの方はお手を挙げてください!」と係員からせかされる一幕もあった。

Dscn1824伊丹から仙台へは14時30分ANA1655便で移動する。私は飛行機にはそれほど詳しくないし、予約時(このプランでは事前に自分で便や座席指定することができた)も旅行会社の割り増し料金がかからず、自宅もゆっくりと出ることができて、かつ窓際が空いていたからということでこの便にしたのだが、搭乗口の案内を見ると、何とプロペラ機。

別にプロペラ機がダメということではないが、主要都市間を結ぶのにもうちょっと大きな機体とか、せめてジェットエンジン機にしてくれてもいいのではと思う。ボンバルディアっていつぞやいろいろとトラブルが続かなかったっけなあ・・・・。でもまあ、それは事前に時刻表など見ていれば機種の案内でわかることだし、それをやらなかった自分の準備不足というものだろう。

Dscn1829離陸が混雑する時間帯ということで定時より少し遅れての離陸。ちょうど座った側からは大阪市内の空中風景や、奈良や鈴鹿の山々を越えて伊勢~尾張の平野部を見ることができる。普段の高いビルとか、ましてや山間の吊橋のようなところではその高さでいっぺんに参ってしまうのだが、飛行機ならあまりにも下が遠すぎるからか、まだ持ちそうである。

Dscn1836遠くには富士山の頂も見える。もちろん雪はかぶっていないが、雲の合間からにょきっとアタマを出しているのもさすがは日本一だと思う。この夏、世界遺産に登録されたばかりということもあって、頂上を目指す人が特に増えていることだろう。

結局10分ほどの遅れを持って、仙台空港ならではの海上からの着陸である。前回、震災後に降り立った時は周りは津波で流されて何もない状態だったが、こうして今着陸すると少しは住宅も増えたか。ただ、空港の周りの緑というのは、別に緑化運動をしたわけでもなく、かといって水田にしたわけではなく、それこそ津波で流された住宅や農地の跡地の残骸である。まだまだ、完全な復興というのには道が遠いかもしれない・・・。

今回は宮城県内のいくつかの被災地を訪問するのが目的である。特に、2年前に震災からちょうど100日になろうかという時に急に思い立って訪れた気仙沼までは行ってみたい。ただどういう順番で回るか、いろいろ考えるところではある。まあ、18日はまずは「前泊」ということで・・・・。

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スタルヒンとハンカチ王子

2013年08月15日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

あ~ぁ、オリックス・バファローズ・・・・。

オールスター明けからは上位進出に向けての反抗に向けてちょっといい感じかなとも思ったのだが、結局旭川の地で日本ハムに連敗、またもや最下位に転落という有様である。文字通り、北の果てで矢尽き刀折れてしまったか・・・。

盆期間中も出勤していたが早くに帰宅できるのでCSで観戦していたが、何だかなあ・・・。ネットのコメントだったかどなたかのブログだったか、「結局、誰が監督やっても球団や選手の体質がぬるま湯やから・・・」という声もあったが、それが当たっているのかもしれない。

さて、旭川といえば「旭川スタルヒン球場」である。日本の球場も各地でさまざまな愛称がつけられているが、その走りと言えるところ。往年の大投手・スタルヒンが旭川育ちということからつけられた愛称であるが、いつの間にかナイター設備がついていたんですな。第1戦で勝ち投手となった木佐貫が「スタルヒンの恩恵を授かった」という言葉が印象的である。

拙ブログの説明書きにもあるが、旭川は私が一度目のJR全線乗りつぶしを達成した土地。駅舎の建て替えを記念した1万人のネームプレートの中には私の名前もある。ただ北海道の野球名所ともいえるスタルヒン球場には行ったことがないので、またいつの日か、往年の大投手に思いを馳せる意味でも訪ねてみたいものである。

そんな中で同じく日本ハム絡みということでニュースで紹介されたのが、斎藤佑樹投手。BCリーグ・新潟との交流試合に先発したが4回で7失点、復帰の道はまだ遠いという内容である。

もう、今季開幕16連勝の日本記録を打ち立てた楽天・田中将大と過去に投げ合ったということなど、すっかり歴史の片隅に追いやられたかのようである。本人がそれをどう受け止めているかは別として。

スタルヒン球場で思い出したのが、そんな斎藤投手にも愛称がつけられた球場があること。それは兵庫県は高砂市野球場。その名も「ハンカチメモリアルスタジアム」。かつて私も一度、ここで行われた関西独立リーグの試合を観戦したことがある(観戦記はこちら)。今でもこの愛称というのは残っているのだろうか。プロではパッとしない成績だとしても、高校野球での記憶に残る投球は別ということだろう。それはそれでいいと思う。

全国を見渡せば他にもさまざまな愛称つきの球場はある。私も知らないところで命名された球場もまだまだありそうで、旅の中でそういうものにお目にかかってみたいものである・・・・。

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関西私鉄「サイコロしりとり」の旅・3-4

2013年08月14日 | 鉄道企画もの

Dscn1779三木上の丸駅から再び神鉄粟生線に乗って新開地方面に折り返す。「3day」のエリアとしてはかなり北西のほうであるが、線路はこの先粟生まで続いている。この「サイコロしりとり」では、最後が「ん」で終わる駅の場合、次は「あ」で始まる駅で五十音順に早い駅から選択肢を割り当てていく(逆に、「あ」で終わる駅というのがあったかどうか、というくらいである)。「あお」だと「あ」の中でも比較的早く選択肢に登場するところで、ひょっとしたらもう一度この粟生線に乗ることがあるかもしれない。

また、恵比須の隣で乗車した三木上の丸も、「サイコロしりとり」で選択済とはならず、仮にここが出ればもう一度訪れることになる。

三木上の丸15時29分発の新開地行きは急行。途中の小さな駅は通過していく。停車するところではそこそこ乗車もあり、やはり沿線の大切な足としてこれからも「乗って残そう」を続けてほしいものである。

そんな途中の駅から一人のおっさんが乗ってきたが、空席はほかにもあるのにあえて私の隣に身体を寄せるように座ってくる。その体臭がすごい。私も暑い中で町歩きをしているからあまり人のことは言えないのだろうが、まさか臭いが臭いを呼ぶというものでもないだろうな。ただ、ここであからさまに席を立つのも失礼かと思ってしまう性分で我慢してしまう。鈴蘭台に着いておっさんは降りて行ったが、その際にあさっての方向を向いていた私の肩をツンツンと叩く。「何や落としもんでもしたか?」と思って振り返るが何もない。するとおっさんはニヤリとしてそのまま出て行った。うーん、何がしたかったのか意味がわからん。それに私、そっちの趣味は全くないぞ。

先ほど「恵比須」の「す」で始まるサイコロをしたが、選択肢にあった「鈴蘭台」が出ていたらこのおっさんと一緒に降りてサイコロ・・・やめてえなぁ(涙)。

Dscn1781少し気が楽になったところで、そのまま鵯越の逆落としで新開地に到着。そしてこの日4本目となる直通特急に乗車。地下区間を抜けてそろそろ西日さす須磨に到着する。

須磨といえば須磨浦公園や須磨寺もあるが、それらはそれぞれ駅があるということでそちらに譲るとして、ここでの駅前散策はもちろん須磨海水浴場。山陽の駅を出て国道2号線を渡るとすぐにJR須磨駅。この向こうに海水浴場が広がる。17時近くなって、そろそろ帰りの電車に乗るか、あるいはまだまだ楽しむが今のうちに帰りのきっぷを買っておこうということか、自動券売機には長い列ができている。中には水着姿の女性、あるいは上半身裸の男性もいて、「そんな格好できっぷを買ってもいいのか」と思うが、まあ、ねえ、これも夏らしい光景というか・・・。

Dscn1783駅のコンコースから階段を降りるとすぐに海水浴場。海の家も賑わっているし、浜辺を見ても泳ぐ人、砂浜でくつろぐ人、いい感じのカップル、あるいは海の家の脇で車座になってビール片手にバカ騒ぎする連中・・・・まさに夏の風景である。鉄道旅行とか「サイコロしりとり」とは人種が違う。私には海水浴の心得もないし、こうやって連中で騒いだり、女の子と遊んだりというのには羨ましさを感じる。

・・・で、私がここでしたことは構内のコンビニで一本買い求め、海水浴場の賑わいを肴にグイッとあおること。うーん、こんなことをやっているからあかんのだろうが・・・。

暑い一日であったが、須磨浦の潮風はなかなかに心地よいものに感じた。ビールともよく合う。この第3日は移動距離は長かったが、新型特急あり、由緒ある神宮への参拝あり、古い街並み歩きあり、そして海岸風景ありと、1日の動きとしてバラエティに富んだものになった。

さて時間は17時を回り、どこかに行くにしてもこれが最後のサイコロになるだろう。次回どこから始めるか、ある程度自宅から近い方がいいなと思う。「すま」の「ま」はこれまで牧落、松尾とすでに2つ登場しており、ラインアップにも見覚えがあるところである。

1.舞子公園(山陽電車)・・・これが出たらこの後ただちに行く。ただ、須磨海岸から明石海峡大橋って、さすがにでき過ぎ。

2.牧野(京阪本線)・・・第2日の午後以降は京阪電車に乗ることがなくなったが、そろそろ呼び戻されるかもしれない。

3.真菅(近鉄大阪線)・・・大和八木の一つ手前。これが出たら兵庫~奈良の往復シリーズになる。

4.松塚(近鉄大阪線)・・・真菅のもう一つ手前。これが出たら(以下略)。

5.松ノ浜(南海本線)・・・泉大津の一つ手前。須磨海岸から泉大津の臨海地区というのも面白いかな。

6.松の馬場(京阪石山坂本線)・・・須磨海岸から琵琶湖に近いエリアへの移動というのもごついものだ。こちらも含めて京阪に呼び戻されるか。

「1」の舞子公園ならもう一度サイコロだが、残りの選択肢なら本日は打ち止め。次回を考えれば、「3」か「4」の近鉄沿線というところがベターかな。

Dscn1782・・・で、海水浴場を見てのサイコロの結果は・・・・「5」。松ノ浜である。うーん、極端に遠くはないが展開として面白くないかな。ともあれこの日は時間切れ、次回は泉大津へ移動してのサイコロである。

第1日からここまでのおさらい。駅名しりとりとしては、

おおさかあべのばし~しがさと~どうじょうみなみぐち~ちゃやま~まきおち~ちゅうしょじま~まつお~おうばく~くじょう~うぐいすのもり~りんかんでんえんとし~しおのみや~やか~かしはらじんぐうまえ~えびす~すま~まつのはま

そして第3日の運賃は、

天王寺~なんば(230円)、大阪難波~八家(1,290円)、八家~大阪難波(1,290円)、大阪難波~橿原神宮前(670円 特急券は別)、橿原神宮前~大阪難波(670円 特急券は別)、大阪難波~新開地(520円)、新開地~恵比須(680円)、恵比須~新開地(680円)、新開地~須磨(290円)、須磨~大阪難波(730円)、なんば~天王寺(230円)・・・ということで、合計7,280円。やはり山陽電車、神戸電鉄、近鉄という比較的運賃の高い会社の路線をそれなりの距離移動したことが効いている。これだけの運賃を「1日当たりおよそ1,700円換算」で賄ってしまうのが「3day」の強いところである。第1日、第2日と合わせると、3日分でおよそ20,000円近く乗ったことになる。「青春18」に負けず劣らずの「3day」の威力である。

・・・ところで、この「3day」も3回分のサイコロしりとりの旅を終えて有効日数を使い果たした。これからどうするか。ゴールの渡辺橋にたどり着く気配はほとんど感じられないが、次に発売される秋に企画を持ち越すか、普通の日で短時間でもいいので通常運賃でコツコツとやるか、それとももう1枚買うか。うーん、5,000円でここまで楽しめたこともあるし、もっといろんな路線や駅を見てみたい。もう1枚買っても最初からモトは取れているのである。ということで、近々第4日を行うという気持ちで、もう1枚買い求めることに・・・。

次回は南海の松ノ浜からの第4日である。拙ブログをご覧いただいている方にとっては「まだやるんか」と結構疲れる読み物におつきあいいただくことになるが、これからも引き続きご期待いただければ・・・・。

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関西私鉄「サイコロしりとり」の旅・3-3

2013年08月13日 | 鉄道企画もの

・・・やはり、橿原神宮に行くのに「しまかぜ」などに乗ったからということかな。「ここはさくらライナーで来んかい!」と。

橿原神宮でのサイコロで出た行き先は神鉄粟生線の恵比須。神鉄は第1日で三田の手前の道場南口駅を引き当てているが、その時も「粟生線に乗る機会があるか」と書いた。まさかそれが当たるとは。ちなみに恵比須は兵庫の三木市にある。

Dscn1756これから橿原から三木まで延々と移動する。時刻表を見ると南大阪線はちょうどさくらライナーも行ってしまった後で、結局橿原線~大阪線と特急乗継で移動する。それは少しでも早く移動したかったのと、車内で昼食を済ませようというものである。橿原神宮前駅構内のコンビニで昼食を買い求め、大和八木から乗車した難波行きの特急の車内で食べる。

難波からは阪神に乗り継ぎ、尼崎からの直通特急に乗る。このルートも朝行って、戻ってきて、そしてまた乗って・・・ということに。こういうアホなことができるのも「3day」ならではである。

Dscn1760新開地からはちょうど粟生線に直通する志染行きが発車するところだった。最後尾の座席を確保する。「サイコロしりとり」二度目の山越えである。地下区間を抜けると早くも周囲は山の緑が広がり、力強い走りを見せる。

Dscn1762現在休止中の秘境駅・菊水山を過ぎ、鈴蘭台に到着。そこへ後から発車した三田行きの準急が追いついてくる。進路を西に取り、一層ローカルムードが濃くなる。住宅街と里山風景が交互に訪れる感じだ。車内には「乗って残そう未来の粟生線」というキーワードがやたら目立つ。沿線自治体がさまざまな援助をしたり、お得なきっぷの紹介もある。日曜の午後ということを考えれば乗客もそこそこあるし、町並みもそれなりに広がっている。今すぐに「廃止」を考える必要もないのではないかと思うが、そこは昔に比べれば乗客が減少しているとか、三宮への利便性の面でバスに押されているとかいうことなのだろう。

Dscn1764神戸市から三木市に入り、志染着。こちらも周りには大型店舗もありそれなりの町が広がっている・・・のはいいのだが、私も駅の並びを意識していなかったが目指す恵比須はここからもう一駅先である。あらあら。ここでまた15分の足止め。志染から先は時間帯によっては1時間に1本となるなど、本数が減少する区間である。近郊私鉄ということもあり、JRのローカル線旅行のように時刻表を意識することはなかったが、ここに来て「乗って残そう」の現実を目の当たりにする。

Dscn1765Dscn176614時36分、恵比須に到着。ホーム1本きりの駅だが駅舎は白壁の屋敷をイメージした造りである。無人駅だが、構内では特典つきの割引きっぷの自動券売機もある。やや開けた感じ。ただ、ここから志染、鈴蘭台方面に戻る列車は15時31分までない。うーん、ここで1時間待ちか。周りに何かないかと駅前の案内図を見ると、三木の中心部に続く「湯の山街道」というのが近くにあるという。そして隣の三木上の丸駅までの距離もさほどない。三木上の丸は以前に利用したことがあり、それならばいっそそこまで歩くか。

Dscn1767湯の山街道の「湯の山」というのは有馬温泉のことという。かつて羽柴秀吉が別所長治のいる三木城を攻めるにあたって利用し、江戸時代は参勤交代や有馬温泉の湯治客の往来で賑わったとか。三木も播磨の街道の要衝だったという。

Dscn1769Dscn1774駅名の由来にもなったであろう戎神社から三木市の中心部にかけて古い街道風情を残す。さまざまな古い町家も並び、落ち着いた感じがする。特産である金物を扱った店も見られる。三木は一度来たことがあるが、その時は廃止間近の三木鉄道に乗りに来たもの。三木から三木上の丸まで歩いたが、こちらの街道までは知らなかった。

散策途中だが、この街並みの中で次のサイコロである。「えびす」の「す」という選択肢は初めてで、

1.吹田(阪急千里線)・・・さて戻ろう大阪へ。

2.洲先(阪神武庫川線)・・・そういえばこの線は乗ったことがなかったなあ。

3.鈴蘭台(神鉄有馬線)・・・正に帰り道。

4.鈴蘭台西口(神鉄粟生線)・・・こちらも正に帰り道。

5.須磨(山陽電車)・・・夏の須磨海岸、よろしいですなあ。

6.須磨浦公園(山陽電車)・・・こちらもいいなあ。

・・・いきなり京都や奈良に飛ばされるということもなく、いい感じ。「3」「4」なら帰り道でもう一度サイコロということになるし、「5」「6」なら須磨方面へ。サイコロの効率か、海岸風情か。

そして出たのは・・・・「5 須磨」。来ましたなあ。

Dscn1776行き先も決まったところでもう少し三木の町歩き。橿原神宮からここまで飛ばされた時はどうしようかと思ったが、こうして三木の風情ある町並みを見ることができたのはよかった。やはり橿原神宮の神々はいい方向に導いてくれたか。おまけに次は須磨だし。

Dscn1777三木城跡に上がる。秀吉の中国攻めの大きなカギとなったのがこの三木城攻め。ただなかなか落城しない三木城に対して秀吉が取ったのは兵糧攻め。大量の殺戮戦もえげつないが、兵糧攻めで痛めつけられた城内の様子も地獄絵図だったそうだ。結局城主の別所長治が自ら切腹し城を明け渡すことで兵たちを解放することになった。ただその後で秀吉は城下町や先ほど歩いた湯の山街道を整備したこともあり、三木の人たちも秀吉を恨むことはなかったという。

来年の大河ドラマは黒田官兵衛をやるそうで、播磨のあたりは早くも盛り上がりに期待しているようである。三木城攻めは戦国の2軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛が顔を揃えた唯一の戦いであり、半兵衛は三木城攻めの途中で病死するが、秀吉の軍師としての役割は官兵衛に受け継がれた。半兵衛と官兵衛、「日本一の軍師は誰か」「どちらが軍師として優れていたか」という論争には必ずといっていいほど出てくる2人である。私はどちらかといえば・・・政治家としての才も含めて考えれば、官兵衛かな。

Dscn1780さて三木上の丸15時29分の列車で三木を後にする。しりとりは恵比須~須磨だから恵比須から乗るのが筋とは思うが、一方でそこまで行く経路は「3day」が使えるところなら問わないため、徒歩で別の駅に出るのはルール範囲内である。恵比須から三木上の丸経由で須磨に向かうという形に・・・・。

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関西私鉄「サイコロしりとり」の旅・3-2

2013年08月11日 | 鉄道企画もの

第2日、朝の八家から山陽~阪神を乗り継いで大阪難波が10時14分着。電車がホームに着くと急いで階段を駆け上がり、改札を出て自動券売機へ。何とか間に合った。

Dscn1733間に合った、というのは次に乗ることにした10時20分発の特急というのが、この3月にデビューして人気列車「しまかぜ」である。これまで一度乗ってみたいなと思いつつ、実物を見たこともなかったが思わぬ形での遭遇である。普通のオレンジと紺色という近鉄特急カラーとはモノが違うと言わんばかりの存在感である。

Dscn1736別にこれでお伊勢参りをするわけではなく、途中の大和八木までこれに乗って行く。伊勢参りのための特急なのに、これから橿原神宮に参拝しに行くのも妙な話だが・・・。一人なので個室は利用できないし、さすがに展望車両は満席だったが、中間車両の一人席に空席があった。デビュー当時は「連日満席で取れない」と言われていた「しまかぜ」であるが、この日がたまたまそうだったのか、それともブームも一段落したのか乗車直前でも取れたのはよかった。

Dscn1739難波を発車。車内は家族連れやら、近鉄グループである「ク」で始まる旅行社のバッジをつけた人が車内観察ということでうろうろする。個室にカフェ、なかなか見ることのできない設備である。ドアの開いていた個室から聞こえる会話に「いつもやったら子どもらもおるからクルマやけど、こんなんあるんやったら電車でも楽しいなあ」というママ友同士のやり取りもあった。列車の旅では(特にビジネス利用も多い新幹線などは)子どもが騒がしいのも他の人にとって迷惑に思われることがあるが、こういうリゾート列車ならば、多少ガヤガヤとやってもまだ許される雰囲気がある。

Dscn1737鶴橋を過ぎるとカフェと売店の営業開始のアナウンスが入る。また複数のアテンダントが乗務しており、飲食物の注文をすることもできる。私は大和八木までしか乗らないので、カフェでの飲食はまたの機会ということにして座席のゆったり感を楽しむ。リクライニングはもちろんあるが、その上に可動式のレッグレストがある。さらに、背中にエアクッションが入っていて、硬度を調節することができる。どうしても長く座ると背中が痛くなることがあるが、一定の周期で硬くなったり柔らかくなったりするのが気持ち良い。

Dscn1743アテンダントがおしぼりと乗車記念証を配りに来る。かつては近鉄特急にあったおしぼりサービス、今はデッキのところで乗客がセルフで取るようになっているが(おしぼりというよりはお手拭きほどの薄さ)、配られたおしぼりは結構分厚い。暑い中顔を拭くと(やっていることがオヤジというのは抜きにして)結構気持ちよく、拭き甲斐がある。

さてそういう時間もあっという間に過ぎ、大和八木には10時54分の到着。難波からここまで、特急券の500円にプレミアムシートの特別券が700円。短距離利用のためだが、特急券よりプレミアムシート料金のほうが高いというのもなかなかないことである。それが伊勢行きではなく、「サイコロしりとり」で橿原神宮に行くのに乗ってしまうあたりが、この旅の面白さである。

Dscn1749Dscn1750大和八木から橿原線に乗り継いで橿原神宮前に到着。午前11時を回ってようやくこの日の2駅目である。やはり姫路と大和は遠い・・・。

Dscn1753Dscn1754駅前散策は文句なしに橿原神宮参拝。ここに来るのもいつ以来だろうか。神宮を模した駅舎を出て歩くこと10分で拝殿の前に出る。ちょうど日曜日、結婚式を行う両家の家族写真の撮影が行われていた。この暑い中大変そうである。そういえば駅から神宮までの間にはやたら写真館が多かったり、ブライダルサロンもあったりした。神宮のほうも「神前式」のPRに力を入れているようだ。畝傍山が見守る緑豊かな境内での挙式というのも印象深いものとなるだろう。

そういう日は果たして来るのか。拝殿で手を合わせる。

さて、参拝の後はおみくじ・・・ではなくサイコロである。「かしはらじんぐうまえ」の「え」だが、思わず「えっ」と言ってしまう。

「え」で始まる駅というのが意外にも3つしかなかったのだ。

1・2.江井ヶ島(山陽電鉄)・・・明石の少し先。だから今朝往復してきた区間をもう一度走ることに。

3・4.恵我ノ荘(近鉄南大阪線)・・・橿原神宮から阿部野橋への途中で降りることができる。

5・6.恵比須(神鉄粟生線)・・・駅名を見た時「それどこ?」と思ったが、粟生線の三木の手前。スルッとKANSAIエリアマップの右下から左上への移動となる。

うーん、ここは当然「3」か「4」を出したいところ。それ以外ならまた長距離移動であるが・・・・橿原神宮の神の「お導き」は・・・・「6」。

はぁ・・・・。

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関西私鉄「サイコロしりとり」の旅・3-1

2013年08月10日 | 鉄道企画もの

・・・それにしても、「スルッとKANSAI」のこの夏のイベントである「しりとりラリー」にはどのくらいの人がエントリーしているのだろうか。すでに私は独自のルールで動いているからこのラリーには応募できないし、別に応募するつもりもないが、「鉄人コース」(より多くの駅を回る、またはより多くの会社線を回る)ともなれば相当な猛者が関西を縦横無尽に駆け回っていることだろう。なかなかネット検索では引っかかってこないのだが、結果発表が待たれるところである。

公開されているブログやツイッターの記事などをたまに見かけるに、1日で20駅以上回ったとか、最低でも100駅を超えなければ話にならないとか、いずれにしてもすごいものである。おそらく、鉄道路線図や時刻表を駆使し、早朝から深夜まで綿密なシュミレーションを描きながらの旅であろう。「次の行き先はサイコロ任せ、運任せ」という、私のサイコロしりとりの旅とは全然ケタが違う。

・・・・そんなことを考えていたのは、阪神電車から山陽電車への直通特急の車内である。前回の第2日の最後、汐ノ宮(近鉄長野線)で出した目は「3」。しりとりは山陽電車の八家(やか)という駅に行くことになった。自宅からだと2時間半以上かかる。全く予備知識もなく、路線図を見ると高砂市から姫路市に入った直後くらいの駅である。第3日はかなり西からの始まりである。尼崎から直通特急に乗ったのだが、これが阪神のロングシート車。山陽電車のクロスシート車の特急車両ならよかったのだが、さすがに朝の時間は山陽電車からまだ阪神電車に乗り入れてない。

Dscn1728八家に到着。朝の8時を回ったところ。駅の東は姫路市の東端となる山々が連なり、西側からは雑然とした住宅街や工場群が広がる。

Dscn1726山陽電車では各駅のホームに駅周辺の見どころをイラストと五・七・五で紹介したパネルがあるが、ここ八家は「雄大な 自然が造りし 景勝地」ということで、小赤壁というのが紹介されている。播磨の海に面して連なる絶壁で、駅の遠く南に森のようなものが見えるがおそらくそこだろう。

行ってみてもよかったがさすがに歩いては遠そうだ。この先またサイコロの旅が続くこともあり、訪問はまたの機会ということにして東へ向かうべく駅前でラインアップを広げる。

「やか」の「か」で始まるのは・・・・

1.貝塚(南海本線)・・・直線距離なら海を渡ったほうが近い。

2.学園前(近鉄奈良線)・・・関西屈指(?)の高級住宅街。大和文華館もある。

3.笠縫(近鉄橿原線)・・・橿原線のほぼ真ん中あたりかな。

4.橿原神宮西口(近鉄南大阪線)・・・ここを出したら橿原神宮参拝やね。

5.橿原神宮前(近鉄橿原線、南大阪線)・・・橿原神宮参拝もそうだが、どっちから行こうか。

6.樫山(神鉄粟生線)・・・限りなく北西の端へ。

そして出たサイコロの目は・・・・「5」。おっと出た、奈良県初となる橿原神宮前である。なかなかメジャーな駅を出したものだ。

Dscn1729ということで、再び山陽電車に乗って八家を後にする。この延々とした距離を何ということもなく往復するのも試練といえば試練。やってきた電車は「阪急三宮」行き。8時28分発という時間を見るに、これは昨年やった「姫路から名古屋まで山陽~阪神~近鉄の各駅停車を乗り継ぐ旅」で姫路から最初に乗った電車である。思えばあれもハードな企画だったなあと、いろいろと思い出すところである。

Rscn1731大塩で直通特急に乗り換え。今度は山陽電車のクロスシート車である。座り心地もゆったりして私の好きな車両の一つで、これなら大阪まで行くのもさほど苦にはならない。駅ごとに乗車があり、明石海峡大橋も右手に見て東進する。

さて、山陽電車から橿原神宮前に向かうわけだが、近鉄に乗ることだしここは別料金となるが特急でゆったりと行くことにしよう。先ほど「どっちから行こうか」と書いたが、それは難波・上本町から大阪線で大和八木まで出て、そこで乗り換えるか、あるいは阿部野橋まで下りて、南大阪線で直接橿原神宮前に行くか。後者はモロに地元沿線だが、特急に乗ることがほとんどないため、かえって新鮮かと。

迷ったらこれもサイコロで決める・・・という手もあるが、まずは発車時間を見ることにしようと近鉄の携帯サイトを開く。尼崎で阪神なんば線に乗り換えて難波に着くのは10時14分。そこから難波、阿部野橋それぞれの特急の時間を見ると・・・おっ、これは行けるのか?とりあえず空席はあるようだ・・・ということでこちらに即決。いや、こういう形で出会えるとは思っていなかった。

その列車についてはまた次回に書くことに・・・・。

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「ここ一番」で機能しないと

2013年08月08日 | ブログ
野球には「代打の切り札」という存在がいる。試合の正に「ここ一番」で投入され、試合の行く末も左右するほどの存在である。

古いところでは代打本塁打世界記録の高井保弘とか、後に近鉄でも活躍した淡口憲治も巨人時代は長嶋監督が尻をキュッキュッとやりながら「代打淡口」を告げるとか。また少し時代を下ると「代打の神様」八木裕、現役では桧山進次郎などね。

私個人としてはカープの西田真二、前田智徳も印象的だが、やはり近鉄の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」の歌麿さんこと北川博敏が「ここ一番」の称号にふさわしく、正に「代打の切り札」だと思う(まあ、ファンの皆さんそれぞれに思い入れの選手がいることで、それぞれの選手は素晴らしいと思う)。

さて、ふと「ここ一番」について触れようと思ったのは別にカレー屋の看板を見たからではなく、今日の夕方に送られてきた「緊急地震速報」のエリアメール。

職場で仕事していたが、事務所にいた20人近くの携帯が一斉に警報音を響かせたからビックリした。奈良で大地震、ふと、数年前の台風だか集中豪雨だかで大きな被害を受けた十津川村のことが頭によぎった。

それにしては速報の詳細が出ないなと思っていると、確かに地震はあったが実に軽微なもので、緊急地震速報は「誤報」ということになった。

まあ、防災の日より一足早い訓練と思うか。交通機関もすぐに一時運転を止め、安全確認を行ったのは冷静で懸命な対応である。

それはいいのだが、これが「ここ一番」で本当に機能してくれるのか、あるいは誤報を繰り返してやがて狼少年扱いされるか。あまり軽く出されてもありがたみが薄くなるし、やはり「ここ一番」での登場だろう。それも、きっちり仕事をしなければならない。

理想は緊急地震速報など来ず、野球も先発メンバーできっちり先制して余裕で逃げ切りなんだろうが、それぞれ必要とされる役割がある。その一瞬できちんと役割を果たせるか、やはり普段の精進というところだろう。

緊急地震速報についても、ここまでは「凡退」が続いているようだが、住民の安全確保のためにもさらなる研究を期待したいものである・・・。



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関西私鉄「サイコロしりとり」の旅・2-5

2013年08月07日 | 鉄道企画もの

関西私鉄を巡る「サイコロしりとり」の第2日もそろそろ夕方近くなる。山が近いこともあってにわか雨もぱらつく中である。

Dscn1718初の和歌山県、南海の林間田園都市を後にして河内長野まで戻る。線路からはさほど見えないが、住宅街も結構広がっているところである。今は大阪府内で学区の区切りはないそうであるが、私の高校生時代は北は大阪平野区、南は河内長野や千早赤阪村が含まれる第7学区というところだった。松原市の高校に通っていたが、河内長野からも結構な数の生徒が来ていた。駅の近くならともかく、バスやら自転車やらで出て来なければならないとなると結構な遠距離通学やなと思ったものである。

Dscn1720南海高野線から近鉄長野線に乗り換え。そして、サイコロの目「りんかんでんえんとし」~「しおのみや」で次の駅、汐ノ宮に到着。かつては反対側にもホームがあったとおぼしき跡も見られるが、今はホーム1本きりの駅である。

駅の周囲は住宅街が広がる。石川の向こう、東側の山の上には立派な造りの寺院も見えるが、ちょっとそこまで行くにはしんどいか。雨もパラついてきたし。

Dscn1722この旅で「駅前散策スポット」を探すのは、駅前にある看板やら、そこに行くまでには携帯サイトを使ったりするが、ここ汐ノ宮では駅近くでヒットしたのは千代田神社。菅原道真を祀るというので、これは一つ行ってみることに。かつては菅原神社とも呼ばれていたそうであるが、明治に近くの神社とまとめる形となり、1968年に現在の千代田神社という名前になったとか。

汐ノ宮という駅名の由来はこの千代田神社かと思ったが実際はそうではなく、ナトリウムを含む温泉が近くに沸いており、そこにお宮があったことから「潮の宮」ということで、汐ノ宮の駅になったとか。山中に海に因んだ名前も妙に思うが、塩の温泉なら合点がいく。

さて、時間も17時を回り、時間としてはこの日最後のサイコロである。もうゴールの「渡辺橋」に行けないのは確実で第3日を行うことになるが、その出発点を決めることに。アメフトで得点後に攻撃側がキックをして、防御側がそれをキャッチしてエリアを少しでも前に戻して、次の自軍の攻撃拠点を決めるわけだが、次の日に向けてそれと似たようなことをやってるなと勝手に思う。

そんな思いで「しおのみや」の「や」で始まる駅だが・・・・

1.八戸ノ里(近鉄奈良線)・・・大阪にも奈良にも一本で抜けられるところで、まずまずの位置かな。

2.近鉄八尾(近鉄大阪線)・・・うーん、藤井寺まで戻ってからバスでここまで出ておいて、もう一回サイコロとするかな。「3day」が使えるなら移動手段はバスでも可。

3.八家(山陽電車)・・・これで「やか」と読むらしい。姫路に入ったところ。

4.八木西口(近鉄橿原線)・・・もしここを当てたら、第3日は今井町の散策から始まる。

5.八瀬比叡山口(叡山電車)・・・やはりこのサイコロしりとりは京都エリアに引き寄せられるのか。

6.矢田(近鉄南大阪線)・・・うん、ここくらいならもう1駅行ってもいいかな。

今度は近鉄包囲網である。ただ大阪、奈良、京都、三重と路線を持っているだけに旅の広がりとしては結構いいかなと思う。「3」なら西からの巻き返し、「5」なら北東からの巻き返し、そこへ行くまでが大変だ。

学問の神様・菅原道真を祀る神社の境内でのサイコロは・・・・「3」。これで第3日は結構奥深いところからのスタートとなった。どこまで巻き返してくるか。このまま大阪阿部野橋行きの準急に乗車し、藤井寺で下車して第2日は終了。

Dscn1723第2日を終えてのしりとりは、

おおさかあべのばし~しがさと~どうじょうみなみぐち~ちゃやま~まきおち~ちゅうしょじま~まつお~おうばく~くじょう~うぐいすのもり~りんかんでんえんとし~しおのみや

そして第2日も同様に運賃をはじくと・・・

天王寺~淀屋橋(230円)、淀屋橋~中書島(380円)、中書島~祇園四条(260円)、河原町~松尾(220円)、松尾~河原町(220円)、祇園四条~黄檗(300円)、黄檗~淀屋橋(390円)、淀屋橋~なんば(200円)、大阪難波~九条(200円)、九条~本町~梅田(230円)、梅田~鶯の森(440円)、鶯の森~梅田(440円)、梅田~なんば(230円)、なんば~林間田園都市(620円)、林間田園都市~河内長野(320円)、河内長野~汐ノ宮(150円)、汐ノ宮~藤井寺(340円)・・・・合計5,170円。第1日と合わせて12,000円分の乗車となった。これ、「3day」だからできることであって、普通に乗車券を買ったりICカードをピッとやったりしたら結構な額になる。

果たして「3day」の残り1回分でゴールには行けるのか・・・・?

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