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ブラジル日系移民の話

2014-03-10 | 行事などいろいろなこと
この前、国際理解セミナーで、「ブラジル日系移民について知る」というテーマの講演があり参加しました。
今では考えられないことですが、人口が増えたりして食べ物も少なく貧困が日本の歴史、20世紀にありました。
そのため移民制度により、ブラジル・ペルー・アルゼンチンなど南米へ夢を抱き渡った多くの人達がいました。
ブラジルで、想像を絶する苦労の日々を乗り越え、その社会の中で子孫を守り、家族の繁栄と共に日本の文化を継承してきました。
今、そんな日系の子孫たちが日本へ来て、暮らしています。
インターネットなどで世界中のことが即座にわかる時代、長い歴史を経て、人々の移動も盛んになっています。
当時ブラジルへ渡った人たちは、言葉も分から
ず、知らない土地で、どんな思いで生活していたのかを、その講演で聞くことができました。
講師は、戦後の移民船「アルゼンチン丸」でブラジルへ渡り、現在は帰国されている、70歳のNPO法人の男性でした。

サッカーやリオのカーニバルでブラジルは有名です。
日本の23倍もある広い土地・人口1億9千万人(150万人の日系移民)・北は熱帯から南は南極より風が吹く・石油や鉄鉱石の資源が豊かで、近代化が進む若い国ブラジルは、南半球の国です(サンパウロだけで日本の広さがあり、季節が日本と反対。日本人同士の結婚が多く、今や5世の子どもがいる)。
人種はインデオや原住民など、大航海時代にポルトガルがアフリカから連れてきた奴隷(400万人)、そして移民が集まったブラジルは、建国約500年の若い国で、言語はポルトガル語です。
そして貧富の差が大きい国です。


移民は、生活が苦しく食べる物ないから、また異文化で生活してみたい、などの理由から移民があるそうです。
日本が農業だけの時代に、土地が狭くて開墾できない土地が多く、そして、兄弟姉妹で分割相続すれば土地がなくなるので、長男が後継ぎして次男や女性は町へ出るが戦争で生活できない。そこで、国民に夢を持たすため、明治初めハワイなどアメリカへの移民がはじまりました。

日本のブラジル移民は、約100年前の1908年(明治41年)、笠戸丸で781人の移民が、当時日本一の港の神戸からサンパウロに向けて始まり、戦争で一時中断したが、戦後も5万人が移住しました。

ブラジルは1500年頃に発見されてから、金を求めて奥地へ入り、コーヒーが発見された。
限り無く広大な熱帯の土地には、人手がたらない。
文化的なヨーロッパ人は移住を嫌がったうえ、奴隷解放のため働き手がなくなった頃、日本の“口減らし”とが政府間で一致して、移民が始まりました。

移民の条件は、日本で農業をしていた人・3人以上の働き手があることだったが、「5年で成功しお金を一杯貯めて帰国できる」などとうわさが流れ、農業以外や子どもを養子にして、この条件を満たさない人々が過半数だったらしい。
政府から3万円の給付があり、東北・北海道からも、神戸港から出発した。
家財を売却して神戸の木賃宿に泊まり出発を待つので、1,100人(船一艘分)泊まれる宿が神戸に設置された。(NPO法人は、その場所にある)


神戸港から西へ、インド洋~南アフリカ~大西洋~ブラジルへと、75日間かかった。貨物船なので蚕棚のような詰め込みで、帰りには石炭を積んで日本へ運搬した。
船中では伝染病コレラ・チフスなどで多くの子どもたちが死んだ。水が少なく船中が不潔で、病気が蔓延し水葬され、時には途中で引き返す船もあった。
戦後は、太平洋からパナマ運河回りコースになり、45日でブラジルへ到着するようになった。
(今なら飛行機で24時間・往復20万円ほどでブラジルへ行ける)

ブラジル移民は、農園で農業をするためでした。船でサントス港へ着き、汽車でサンパウロまで行き、収容所に集められ、あちこちの農園へと振り分けられた。
どこへ配属されるか分からず、言葉(英語はもちろんポルトガル語も)が分からず、奥地へと行くので、不安が募っていった。
農場が広く、5家族ほどまとまって働いた。
主な仕事は草取りで、道具が大きく重いものでした。(この草取り機は神戸に展示している)
ブラジル人がジャングルを開墾し、日本人の仕事は、コーヒー園の草取りを主体に綿摘みもした。

農場主が旅費半分を負担していたので、3~5年間は途中で仕事を辞められなかった。
1~2年でもお金は蓄えられなく、村のように広い農園内で買物はボッタクリ商売で、見通しが立たない日々を過ごした。
しかしながら、広大な農園の土地なので、タロイモやバナナは容易に入手でき、ニワトリ・牛・豚も野生で取れるので、飢え死にすることはなく、野菜やコメを作る土地を自由に貸してくれたので売って現金化できた。

ラテン系気質は、動物的な生活で酒を飲んで踊って、今がよければそれで良いというものだが、日本人は、自分の土地を買いたいと、日曜日は休みでも一生懸命貯蓄のため働いた。
日本人移民は、夜逃げして、市場で商売(雑貨店・写真・洗濯・散髪屋など)や金持ちの庭番をする者もいた。
なお、外人は教会を作るが、日本人は寺子屋のように教育に力を入れる国民気質のようです。

第2次世界大戦で、日本はブラジルの敵国になり、ラジオを取りあげられ、集会も禁止された。
そのため情報がなく、日本国ニュースで戦争に勝っていると思いこんでいたが、日本が焼け野原になっているとわかり、帰国出来なくなると思い、ブラジルの教育をうけさせて、今も30%が日系大学生で、日本人は教育を大事にしています。
そして、日本人がとても尊敬されている理由は、勤勉で正義感にあるようです。
ブラジルで生まれた子どもは、日系のブラジル人ですが、故郷を日本だと思っています。
6年前、移民100周年記念式典で、「日本人がブラジル移民に来たので今のブラジルがある」と州知事の祝辞で述べられたほどです。


日系ブラジル人は多様な文化を持っているがだらしないところもあるが、日本人が几帳面すぎるので混ぜ合わせた方がよい。
移民の人達は、成功だったか(失敗か)を聞かれることを嫌がるそうです。

それから、日本がバブル景気に沸いていた頃、多い時に32万人のブラジル日系人が日本へ来たが、今や19万人まで減っている。
その60%が永住許可をとっているけれど、非正規雇用がほとんどなので、日系人の老後が課題だと話していました。
また、日系ブラジル人で日本語が話せない人に電話相談や病院への付添をしている神戸にあるNPO法人は、日系45人の子どもの学習支援をしているそうです。

以上が、講演の概要です。

昔、吾輩の家も田舎にいる時、ブラジル移民を父親が考えていたようなので、この講演をしっかりと聞いて帰りました。
最後に、このように苦労したブラジル移民の子孫たちを、大事にしてあげたいと思います。
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