庭で座ってのいろんな思い

庭の四季で花や木との語らいを写真とともに思いついたら記載する

今年の課題図書は・・・

2014-06-25 | Weblog
小学校夏休みの読書感想文ようの本ですが、もうすぐ、課題図書として本屋さんに並びます。
それは、低学年用(1・2年)、中学年用(3・4年)、高学年用(5・6年)とあります。

我輩は、3冊読みました。
“ただいま!マラング村”は、キリマンジャロの山の麓の村の兄弟の話です。
両親が死に、兄弟で貧しい親戚に預けられますが、そこでは邪魔者扱い。
二人で逃げ出しますが、食べ物をあさる路上生活。
5歳の弟は、都会でお兄さんと離れ離れになります。
そして、何年か過ぎ、逞しくなって生れた村に帰ると、家の中からお兄さんの「お帰り!」という声が聞こえたところで終わります。
貧しいアフリカの少年が、たくましく生きる物語です。

“ともだちはサティー!”は、子どもが仕事の親にネパールへ付いて行って、現地のこどもと1カ月程暮らす話です。
折しも、ネパールの子どもスマン君に本を見せ、「サティーはネパール語で友だちです。」と教えてもらえました。
この本は、お父さんの飛行機マイルがたまり、夏休みにネパールへ連れて行ってもらいます。
お父さんが会社の人たちと仕事で遠方へ出かけるので、現地の子どもと1カ月間、牛やヤギと犬などと一緒に生活するお話です。
山での放牧で、いろいろ事件が起こります。
初めてネパールの少年との出会いの時、出されたチャイ(ミルクティー)を捨てる所を見られて、しこりがのこる気まずい思いの少年でしたが・・…
言葉が判らなくても、共に苦労をするので、心は通じる、物語です。

“ふたり”は、本当に、今の物語です。
離婚した夫婦の子どもの男の子。
転校で、いじめにあう女の子。
二人で、ミステリー流行作家の本の中から登場人物をチェックして、その作家の別名を探し当てたり、中高一貫の受験もからんだり、離婚した父親の再婚に悩んだり・・・
「今の小学生は、おとなだなぁ!」と、思い知らされる物語です。

機会があれば、本屋さんで「今年の課題図書」のコーナーを、のぞいてみて下さい。
12冊ぐらいあると思います。
小学校の図書館司書ボランティアの家人に、本のソムリエに鍛えられている、W杯でコロンビアに1-4で負けた日の吾輩です。

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毎週火曜日は大学生

2014-06-25 | Weblog
毎週火曜日は、近くの大学で学生たちと一緒に、市民講座の授業を受けています。

昨日は、大坂の「大和川の付け替えと近世の河内」についての講義がありました。
1704年に、わずか8ヶ月の短期間で(2月から10月15日に完成)、付け替えられたそうです。
工事は、新川道を掘り下げるのではなく、田畑に杭を打ち、土を積み上げて新川の堤防をつくるという工事でした。
工事に動員した人々は、工事時期が季節柄・農繁期でもあったため、農家ではない人が方々から集められたそうです。(動員は、初めて聞く話でした。)

それまでの大和川の川床には、新田が作られ、砂地に強い作物である綿が栽培され、木綿織(河内木綿)が以前より発展しました。(戦後は安価な輸入綿により衰退した。)
また、綿のほか油を取るナタネの種子もこの地で発掘されているそうで、大坂に近いという地理的な好位置により、豊かな地域だったそうです。
比叡山の延暦寺の「不滅の法灯」をイメージすると、油から灯をつける時代には、油は今の電気です。その油を作るナタネの栽培で豊かだった村を想像して、講師の話を聴いて来ました。
なお、油では、戦国時代の美濃の斎藤道三が、油売りをしながら全国の事情を調べた話も、思い出しました。
近所の家を「油屋の〇〇さん」という言い方をする名残もあることも、思い出しながら、講師の話を聴いて来ました。

それから、大和川の新川が堺の方へ流れたので、土砂で堺港の深みがなくなり、大型船が着けなくなり、堺の町が衰退する要因になったという話も、ありました。
付け替え前の川の道筋が、資料に貰った地図に明確に表れているので、現地へも行って見たら、などと思いました。

川の氾濫により川の付け替えが行われたのですが、関西だけではありませんでした。
江戸の湿地帯の3つの川が江戸湾に流れ込んでいたのを、荒川を一つ残し、利根川・渡良瀬川の二つを常陸川と一本に合流させて、銚子から太平洋へ流したそうです。
この利根川付け替え工事は30年以上もかかって1654年に完成しました。
この利根川の氾濫防止での工事の布石があったので、大和川の付け替え工事を江戸幕府が容認したのだと、わかりました。

以上まとめてみれば、歳を取れば取るほど、知らないことが増えるように思っています。
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大坂夏の陣400年

2014-06-23 | ボランティア活動
歴史民俗資料館のボランティア活動で、大坂夏の陣から400年にあたり、常光寺の展示会へ行き、学芸員のような仕事を1日しました。
とはいうものの、博物館や美術館でよく見かける、椅子に座って番をするだけの仕事でした。
いわゆる、見物者が仏像や展示物を触ったり写真を撮ったりしないように監視することでした。
ボランティアは9名で、昼弁当と記念のTシャツをもらいました。

さて、「常光寺の血天井」があると聞いていましたが、このお寺は河内音頭の発祥の地としても有名です。
ここの本尊は、珍しい石ではない木製の延命地蔵菩薩(約160cm立像)ですが、阿弥陀如来も本堂におられました。
そして、このお寺(臨済宗南禅寺派)では、廊下で庭にむかって座禅をするそうです。

奈良時代始めに、聖武天皇が行基に建てさせたそうで、奈良の東大寺と同じやなぁ!と思いました。
この地は、京都から高野山へ通じる道、いわゆる東高野街道の途中に位置する。平安時代中期(1088年)に、白河法皇が高野参りの途中、この地蔵菩薩を参詣され、新堂寺という寺の名前を「初日山 常光寺」に改名された。
南北朝時代、楠木正成の家臣・顕幸(南朝に尽した)の墓もあるそうです。南北朝の戦乱で荒れた寺を再興(1386年)した、開基(又五郎大夫藤原盛継)坐像もあります。
室町時代の初め(1389年)足利義満が奉納した「常光寺」の額も、朽ちているが、ありました。
安土桃山時代に、中興開祖靖叔徳林禅師に臨済宗に改修さ再興された。
江戸時代初め大坂夏の陣1615年に、この地は戦乱に巻き込まれたが、金地院以心崇伝和尚が抱え寺とし、徳川家康に守られた。
徳川方の藤堂高虎が、豊臣方の長宗我部家臣の首改めを廊下でし、その板が天井に使われているので、「常光寺の血天井」といわれている。その藤堂家71士の家臣の墓や位牌も残されている。


このボランティアのおかげで、めったに開帳されないお地蔵さんそれに阿弥陀菩薩さんをまじかに拝むことができました。

古代の遺跡をはじめ、飛鳥や奈良時代のなにわへの道、平安時代の高野山参りへの道、南北朝時代の南北の中程の位置・・・ 
それから、慶長20年(1615)5月6日からの大坂夏の陣の戦い
僕の歴史の深さは、まだ点と点ですが、ドンドンと広がって行きます。
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定例会で国際親善

2014-06-15 | 高齢クラブ
国際交流センターさんのご協力で、定例会にネパールの少年S君(16歳)に来てもらいました。

会長さんが紹介では、「みなさんのお孫さんが、外国の高齢クラブで、国の紹介をしていると思って聞いてください。」とやさしく言いました。

昨年11月に来日した彼は、日本語をネパールで勉強してきたわけではないのに、ペーパーに漢字も使い国の案内を書いて、上手に話してくれました。
「釈迦の誕生は、インドではなくネパールのルンビニ村です。」と教えてくれました。
みんなは、わずか半年余りで日本語を理解しているので、驚きました。

「彼は一度聴いたら次の日には全部覚えている。」と交流センターのYさんが言うほど頭の良い少年です。
そして、エベレストなどの山に関して、「日本で一番高い山が富士山で、低い山は天保山(てんぽうざん)ですねぇ!」とウイットにも豊んでいました。

また、国語のネパール語以外、小学校から、算数や理科など全ての科目を英語で授業しているので、英語はお手のもののようです。
(インドに南部を接するため、イギリスの影響があるためではないでしょうか?)
彼は、「日本人は親切で、日本が大好きです。」と言ってくれたので、みんなが手を叩いて喜びました。

交流センターで打ち合わせを重ね、準備していただいたネパールの地図・国旗・寺院・結婚衣装・食物などの写真も、黒板に貼り付けて説明をしてくれました。
そのうえ、出席者へのチャイ(ネパールの紅茶)だけでなく、ご両親の民族衣装現物も持参してくれました。
吾輩は、これを着用し、生まれて初めてモデルの体験もしました。

「高齢クラブで国際交流をしているところは、ないんちゃうか?」とネパールへ行ったことがある会長さんが言いました。
交流センターさんのおかげで、今回、国際交流と世代間交流が、同時にできました。
2月から打ち合わせと準備を始めて、努力が報われたので、満足の定例会となりました。

近年、日本の少子高齢化と人口減により労働者不足から国の衰退を、最近のニュースから、懸念しています。
日本は、民族を超えて外国人労働者の協力が必要不可欠だと、思っている吾輩です。
市民レベルの国際交流が一番です。日本語で外人に話しかけましょう。彼らは日本語を学びたがっているからです。

参考
(国際交流センター定款の目的) 
この法人は、市民、行政、企業および各種団体等との連携を図りながら、
グローバルな視野をもって積極かつ多彩な国際交流を推進し、Y市の国際化に寄与するとともに、
ひろく市民に国際意識の高揚と諸外国との相互理解の増進を図り、
もって国際平和に貢献することを目的とする。
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